私が家の外に出るのは、多い時で二週間に一度くらいだ。
 子どもの頃から体が弱くて学校に行けなかっただけでなく、成長してからは兄が心配してめったに私を外に出さなかった。
 長男が絶大な力を持つこの世界では、後妻の生んだ次男である兄の立場は生まれた時から複雑だった。
――龍二は次男の器じゃない。あいつがいつか大人になると思うとぞっとする。
 父にそうぼやかせたほど、兄は恐ろしく優秀な子どもだった。
 単純な学業成績や運動能力だけではなかった。金儲けの才や人を動かす手腕までもがあった。
 そして人目を引いた。美貌というには野生的すぎる容姿と気迫でもって、自分より年上の大人たちを簡単に自分の味方につけた。
 それでも父は長兄を推していたが、長兄がもう五年以上不在であることと、父も高齢になってきたこともあって、やむなく兄に跡を継がせた。
 聞けば、それに異を唱える者は誰ひとりいなかったそうだ。
「お嬢様、お体の具合でも?」
 椅子に座ったまま頭を押さえていると、隣にかけた(みさお)さんがそっと声をかけてきた。
「いいえ。その……」
 私は少し迷って口を開く。
「みなは、兄が恐ろしいのかしら」
「龍二様でございますか」
 彼女はうっとりとしたように頬に手を当てる。
「上に立つ御方は厳しくなければいけません。それに男性は少し怖いくらいが素敵でございますよ」
「怖いかしら……」
 私はぽつりと呟いて口をつぐんだ。
 兄は私には優しいというか、徹底的に甘い。手を上げたことなどないし、そもそも怒ったことすら一度もない。
 だけど、おそらくは怖い人なのだろう。それは幼い頃からたびたび肌で感じてきたことだ。
 開演時間になって、私は顔を上げる。照明の落ちたホールの中、舞台にだけスポットライトが当てられる。
 今日は都内の音大で、今期の卒業生によるコンサートが開かれている。
 プロではないけれど、その道に進む学生も多いからレベルは高い。
 ただ、今回は目的があって来た。たった一人の演奏者の音楽を聴くためだけに足を運んだ。
 最後の演奏者になって、私は瞬きをした。
 舞台に上ったのはまだ少年のような男性だった。大学の卒業生だから確実に二十歳は超えているだろうに、彼は私より年下に見えた。
「あら。綺麗な方ですね」
 操さんが隣で小さく声を上げる。
 彼はセミロングの銀髪に碧の瞳、透けるような白い肌をしていた。
 中性的な容姿だけど、女性に見間違えることはない。ぴんと張られた一本の琴の弦のように、凛とした少年の力強さがあった。
 舞台の中央に立つなり、彼は他の演奏者のように一礼することもなくおもむろにバイオリンを弾き始める。
 その途端に奏でられる冷厳な音楽に、私はため息をついて聴き惚れた。
 数ヶ月前にこの音大のチャペルを見学したら、彼はパイプオルガン奏者に合わせてバイオリンを弾いていた。
 恋というには、きっとまだ淡い感情。
 真冬の冷え切った教会の中で繊細な音をつむぎ出す彼は、本当に天使みたいだと思った。
 話をしてみたい、もっと近付いてみたいと思ったけれど、自分の立場を思うとなかなか決心もつかなかった。
 異性とあらば手習いの先生すら私に近付かせない兄のことだから、私が想いを寄せているなどと気づいたらきっとその人を許しておかないだろう。
 その時のパイプオルガン奏者と話をして、銀髪の彼の名前がレオニード・カルナコフで、今春卒業するということだけは聞くことができた。
「操さん、少しここで待っていてください」
 コンサートが終わると、私は操さんを残して演奏者控室へと足を向けた。
 一度だけと心に決めた。この卒業コンサートで一度直接話をしてみようと。
「演奏者の方に花束を差し上げたいのですが」
「ああ、どうぞ」
 それですべて諦めようという誓いを胸に、私は控室の中に足を踏み入れた。
「あら?」
 中にカルナコフさんの姿はなかった。私は慌てて側の人を呼びとめる。
「カルナコフ……ああ、あいつなら少し呼ばれていきました。花束ならお預かりします」
「直接差し上げたいのです。どちらにおいででしょう」
 私が尋ねると、大学生の方は困ったように眉を寄せた。
「失礼します」
 何となく嫌な予感を抱いて、私は踵を返す。
 初めはおしとやかに歩くつもりだった。けれど段々心が急いて来て、着物の袖を振り乱して駆けだす。
 校舎の角を曲がった時、その声は聞こえた。
「……少し付き合えって言ってるだけだろ?」
 裏に複数人が集まっているのに気づいて、私は足を止める。
「お前は付き合いが悪すぎるんだよ。飲みに来たこともないじゃないか」
 覗き込むと、三人の男に詰め寄られているのは確かにカルナコフさんだった。
 彼はうっとうしそうに顎を上げて言葉を投げる。
「そのごちゃごちゃした言葉で話さないでくれない? 僕は日本語が得意じゃないんだ」
 そっけなく言い捨てて踵を返そうとしたカルナコフさんの腕を、男の一人が掴む。
「そう言うなよ。お前、男が好きなんだろ?」
 にやにや笑う彼らに、カルナコフさんは不愉快そうに眉を上げた。
「隠しているわけじゃないけど、僕が好きなのは綺麗な男の子だよ。君らみたいな下品な野郎なんて見るだけでうんざり」
「こいつ……!」
 彼らは顔色を変えて掴みかかろうとする。
「……お止めなさい!」
 私は声を上げてそれを制止した。
「失礼な方々ですね。お食事に誘うなら紳士的に、礼儀正しく。それも、カルナコフさんのお国の言葉でお誘いするべきでしょう」
「どこのお嬢様か知らないが、他人が口を出すことじゃないだろ」
「おい、ちょっと待て」
 声を荒げた男を止めて、他の二人が私の前まで歩いてくる。
「すげえ……こんな美人初めて見た」
「着物着てるよ。本物のお嬢様みたいだ」
「俺やっぱ女がいい」
 三人に取り囲まれた私は、嫌な空気を肌で感じて緊張をまとった。
「命が惜しいのなら、私に触れてはなりません」
 手が伸びてくる前に、私は短く告げる。
 それでも手が髪に触れたのを感じ取って、私は小さく息をついた。
「ぐっ」
 花束を投げて、私は彼らの懐に飛び込む。
 目の前の男の鳩尾を突いて、慌てた他の二人も同じ場所を刺すように突いた。
「息が出来ませんか? でも次は本当に息の根を止めますよ」
 倒れこむ彼らを見下ろして、私は怒声を響かせる。
「散りなさい!」
 散り散りになって逃げ出す彼らを見送った。
 振り向くと、カルナコフさんは興味なさそうに横を向いていた。
『要らぬことをして申し訳ありません。お詫びいたします』
 私は深く頭を下げて彼の母国語で謝罪する。
 彼がこちらを見た気配がした。少し沈黙があって、彼は私に歩み寄る。
「これ、君の?」
 顔を上げると、カルナコフさんは私の持ってきた花束を拾い上げていた。
 私は首を横に振って言う。
「あなたに差し上げるつもりでしたが……汚れてしまったので、私が持ち帰ります」
「いや」
 彼は花束に顔を埋めて碧の双眸を閉じる。
「なら僕のだ。もらっていくよ」
 ゆっくりと瞳を開いて、彼はじっと私を見下ろす。
「君、名前は?」
「春日遥花です」
「ハルカ」
 彼に名前を呼んでもらえただけで、私は胸がいっぱいになって思わず微笑んでいた。
「じゃあまた」
 その一言だけで幸せな気持ちになる私は、たぶんもう彼に恋をしていた。
「はい。ありがとうございます」
 たぶん二度と会うことはないだろうけれど、私は何年分かの幸せを凝縮したような喜びを感じながら頭を下げた。