四月の始め、兄と楓さんの祝言が盛大に開かれた。
 私が熱を出したばかりであるのを心配して、兄は式に出なくていいとまで言ってくれた。けれど帯や着物や他の様々なものをこの日のために仕立ててくれた兄や家の者のことを思うと、出席しないわけにはいかなかった。
 兄は怪我のことを少しも感じさせない、堂々とした風格を漂わせて笑っていた。側に寄りそう楓さんもまた美しい白無垢姿で、どこから見ても似合いの夫婦だった。
 兄たちが幸せそうで私も嬉しい。遠目に見守ることが私のできる精一杯の祝福の形だと、私は静かに二人をみつめていた。
 食べ物はあまり喉を通らなかったけれど、何とか昼の食事会は座っていることができた。
 ただ熱っぽさがまだ残っていて、時折頭がくらりとする。
 めでたい席上で倒れては申し訳ないと、私は休憩時間にそっと席を立った。
 庭に下りて風に当たる。それでも気分は優れなかった。
「お嬢様、ご気分がお悪いのですか?」
 ふと私を呼びに来たらしい家の者に声をかけられる。
「大丈夫です。少ししたら戻りますから」
 そう返したけれど、家の者はそこに留まって問いかける。
「お嬢様は、今楽しいですか?」
「え?」
 何を言い出すのかと振り向く。
 見覚えのない男性だった。家の者にこのような者がいたかしらと私はふと疑問を抱く。
「楽しい気分が足りないのであれば、離れの方へどうぞ。花が綺麗ですよ」
「そう」
 私はまた兄が花を植えかえたのかと思って、離れの方へと足を向ける。
 家の者たちは皆祝言会場に集められているから、すれ違う者はいなかった。
 ひらりと花びらが廊下にまで届く。
 しばらく伏せってばかりいたから気付かなかった。離れの桜は、いつの間にか満開に咲き誇っていた。
「ハルカ」
 だけど独特の声が耳を掠めて、私は息を止める。
 ……塀の上に座っていた銀髪の少年が、ひらりと庭に降り立つ。
「レオ、あなたどうやって……!」
 いくらレオが名のある家の者でも、まさか祝言の今日に、兄が彼を家に入れるはずがない。
「ハルカ、今楽しい?」
 先ほどの家の者と同じ質問をして、レオは首を傾げる。
「なんて訊くまでもないのかな。全然楽しそうな顔してないもんね」
 私の目の前まで歩いて来て、レオはじっと私の顔を覗き込む。
「どうしてそんな顔してるの? 遊園地ではもっとずっと楽しそうだったじゃない」
「そんなこと……ないわ」
「じゃあ君、前に思いきり笑ったのはいつ?」
 それは遊園地でレオにぬいぐるみをもらった時だったと気づいていながら、私は言葉に詰まる。
 レオはそんな私の心の内を見透かしたように目を細める。
「ねえハルカ。君は兄のために怒って、泣けるね。それはすごいことだと思う」
 彼は笑みを消して告げる。
「でも、君はどう? 君は君なんだから、自分のために怒って、泣いてもいいんじゃない?」
 神秘的な碧の目で、私の内側から溶かすようにみつめてくる。
「自分にとって一番楽しいことをして何がいけないの。君はこんなに若くてきれいなのに、花も咲かせずに人生を終える気なの」
「……でも」
「手を伸ばしてよ、ハルカ」
 立ち尽くす私に、レオはどこか必死な口調で続ける。
「君が一番好きなものを望んでよ。そうしたら僕も望む通りにできる」
「貴様!」
 ふいに部屋の方から低い怒声が響く。
「何をしている。遥花から離れろ!」
 私の様子を見に来たのか、兄がそこに立っていた。
 しかし兄はそれ以上私に近付くことがなかった。物陰から現れた影が、兄を掴んで床に伏せた。
 いつかのレオの従兄弟の青年だった。彼は自分より遥かに体格が優れて武術にも心得がある兄を、腕を後ろで掴んで膝で押さえ、口を塞いだ。何一つ無駄のない動作だった。
「にいさま……!」
 レオは兄の方に駆け寄ろうとした私の肩をつかむ。
「ハルカ、君は僕が好き?」
 私は兄を愛している。けれど私を見下ろす銀の髪の青年から目が逸らせなかった。
 頷いた私に、レオはもう一つ問いかける。
「一番好き?」
 レオは数度しか顔を合わせたことがない。出会って二週間も経っていない。何もかも彼のことを知らない。
 だけど私の胸に鮮烈に焼き付いて、どこにいても心から離れてくれない。
 ……私は、もう一つ頷いていた。
「じゃあ答えは出てる。簡単なことだよ」
 レオはどんな花にも負けない、鮮やかな笑顔で言った。
「一番好きな人と一緒にいることが一番いいことに決まってる。……君は僕と一緒にいるのが一番幸せなんだよ、ハルカ」
 彼は私の肩から手を離して、手を差し伸べる。
「おいで。僕が君を笑顔にしてあげる」
 なんて傲慢で美しい天使なんだろうと、私は思った。
 私はすっと息を吸って兄を振り向く。
 この言葉を口にする日が来るとは、ずっと思っていなかった。
「にいさま、私はここを出て行きます」
 私は今日兄との関係を絶ち、兄と違う世界に旅に出る。
 兄は口を塞がれたまま射抜くように私をみつめて、視線で私に問う。
 はるかは俺といた方が幸せだ。ずっとそうして暮らしてきた。なぜ俺の想いと違うことを言う?
 兄の目は言葉以上に私に語り掛ける。私はそれを受け止めて返す。
「にいさまにたくさん愛されたから、私もめいっぱいレオを愛したいの」
 きっと私はとても悪いことをしようとしている。でもそれが、私が心から望む未来のかたち。
「さよなら、にいさま」
 精一杯の想いをこめて告げると、私は兄に背を向けた。


 



 レオとの生活は何もかもが大変だったけど、後悔はしていない。
 レオの家の人たちは見知らぬ土地から来た私に親切にしてくれた。裏の家業があるとは思えないほど、温かなファミリーだった。
 毎日怒ったり、泣いたり、笑ったりして、それが幸せだと思える日々だ。
 三年が過ぎて、ファミリーの屋敷の庭でパーティが開かれたとき、私は兄と再会した。
 兄は仕事で来たようだった。レオの父とあいさつをしているところを、私は予期せず居合わせた。
 レオの父は私をみとめると早々に話を切り上げて、私にうなずいてその場を去った。私はその優しさをありがたく思いながら、兄と向き合った。
 兄は落ち着いたダークグレーのスーツに身を包み、大きな手でグラスを持って立っていた。彼はひととき言葉を失ったように私をみつめて、様々な思いをその瞳に映していた。
「……よかった。元気そうで」
 やがて兄はぎこちなく笑って、聞きなれた甘い声に少しだけ寂しさを混ぜた声で告げた。
 兄と再会したら、責められるかもしれないと思っていた。でもいつだって優しかった兄は、彼にさよならを告げた私にさえ怒りを向けることはなかった。
 私はまだ言葉に迷いながらうなずいた。兄と私の間に、長い沈黙が流れた。
「幸せか?」
 兄の問いかけに、私は胸に満ちた感情のままに答える。
「うん」
 兄は私の答えに安心したように笑ってグラスを置くと、両手を差し伸べた。
「抱かせてくれるか」
 私は腕に抱いた赤ちゃんを、そっと兄に手渡した。
 兄は私とレオの間に生まれた娘を抱き上げてあやした。その仕草が慣れていて私が少し不思議そうな顔をすると、兄はいたずらっぽく笑う。
「俺にも息子が生まれたんだ。いつまでもはるかだけの兄じゃないぞ」
 私がはっと顔を上げてみつめると、兄は腕の中の姪に話しかける。
「初めまして。悪いおじさんだが、お前を愛しているよ」
 また春風が巡る季節になった。月日は流れ、これからも何度も巡るのだろう。
 けれど兄に愛された記憶は、私の中で永遠の宝物。
 私の愛しい宝物も優しい悪魔の腕の中で、幸せそうに寝息を立てていた。