十九歳の春ほど、私の身の回りがめまぐるしく変わった時はなかった。
 その日、朝からとても自分の機嫌が悪かったのは覚えている。にこやかにふるまってはいたけど、内側に燃える炎のような怒りを抱えていた。
「お嬢様」
 家の人たちは、私の顔を見るなりかしこまって近付いてくる。
「おでかけですか?」
「いえ……ちょっと覗いただけなので。すぐ戻りますから」
 母屋の方に出てきただけで五人以上と似たようなやり取りをした。
 この家はやたらと人が多い。それも私の身の回りの世話をする使用人以外は、ほとんど眼光の鋭い男性ばかりだ。
「ご予定では午後からと伺いましたが、支度をいたしましょうか?」
「まだ結構です。ありがとうございます」
 その苛立ちも、外出の予定を考えると少し気が晴れた。
 いつまでも子どもみたいに不機嫌にしていてはいけない。気持ちを切り替えようと、踵を返した時だった。
遥花(はるか)、ここにいたか」
 廊下の向こうから歩いてくる長身の姿をみとめた瞬間、鎮まりかけていた私の怒りが一気に沸点まで達した。
 私は自分を落ち着かせようと顎を引いて、下から彼を見据える。
「お話があるのですが、私の部屋までお越し願えますか」
「うん? 何だ?」
 彼はとろけるように笑って、先に離れの方に歩き出した。
 彼は私よりゆうに頭二つ分は大きい。それも鍛え上げられたがっしりした体格をしているものだから、後ろから見るとまるで壁のようだ。
「はるか?」
 私の居室に通してすぐ、屈みこんで優しく尋ねる気配を後ろに感じた。
 障子をぱたんと閉じて、沈黙が一瞬。
「……にいさまの馬鹿!」
 振り向き様に顔面めがけて肘鉄を繰り出す。
 直撃したら鼻が折れる一撃を、兄はやんわりと片手で受け止めた。
「遥花が元気なことは嬉しいが、兄は何か遥花の気に障ることをしただろうか」
「私のチューリップ、勝手に植え替えたでしょう!」
 今日の不機嫌の原因、それは毎日絵日記をつけているチューリップが、朝起きたら別のチューリップにすり替わっていたことだった。
 朝真っ先に見に行ったら、昨日まで葉だけだったチューリップが華々しく咲き誇っているのを見て呆然とした。
「遥花……言いにくいが、あのチューリップはもう枯れていたんだよ。兄は綺麗な花にしてやった方が喜ぶかと思って」
「葉っぱだけでもよかったの! 楽しみにしてたのにひどい!」
 涙が溢れて来て、私はぐすぐすと泣きだす。
「ああ、すまない。兄が悪かった。泣かないでくれ」
 兄はうろたえて私の頭を撫でる。
「すぐに葉の状態のチューリップを植えさせる。他にも遥花の好きな花を何でも取り寄せるから」
「そういう意味じゃないの! にいさまは何にもわかってない!」
「悪かった……兄が馬鹿だった。すまない」
 兄はひたすら低姿勢で頭を下げて謝り続ける。
 こんなしおらしい姿を家の者や会社の者が見たら目を疑うに違いない。面子が物を言う世界で、上の立場にある兄が頭など下げたりしない。ましてや自分が馬鹿などと口が裂けても言わない。
「もういい!」
 ぷりぷりと怒りながら兄の手を振り払って、私は涙を拭うために何か探す。
 ちょうど庭いじり用のタオルをみつけてそれを顔に当てようとしたら、ひょいと手が伸びて来て奪われた。
「おい、誰だ。こんな安物を置いたのは」
 兄は私からタオルを取って低い声を出す。
「どうしてこんなものがここにある」
「庭いじり用に借りてきたの。汗をふくためなんだから安物でいいの」
「使うな。遥花はいつも一級品に囲まれていないといけない」
 彼はポケットからハンカチを取り出して私の目元を拭う。
「一回使ったら捨てる。遥花はそれでいい」
 丁寧にアイロンがかけられたそれは、肌触りで絹だとわかった。
「今日は街に出かけるんだってな」
「ええ」
 まだぶすっとしながら頷くと、兄は柔らかく微笑む。
「気に入った店があったら言うんだぞ。店ごと買おう」
 彼は何も冗談を言っているわけではない。
 兄である龍二(りゅうじ)は半年ほど前に、二十七の若さで関東においてもっとも勢力のある暴力団の組長という地位を父から受け継いだ。
 そして二週間後にはその次点を取り仕切る組の婚約者と祝言を挙げる。
「……にいさまは馬鹿だわ」
 私はそう言い捨ててから、ぷいと顔を背けて支度に向かった。