冬になると、家族の咳がこんこんと響くこの家では金柑湯が定番だ。金柑を軽く洗い、爪楊枝などで幾つか穴を空けて、煮だし用のポットに金柑、氷砂糖、水を入れてストーブの上に乗せておくだけ。
余り煮詰めすぎると、苦くなって来るのでその前に飲み切るかストーブから降ろして保存容器に入れて保管をするのだ。軽い喘息のある祖母サカエ、そして体質を受け継いだのか冬になると珠美佳もなぜかコンコンと咳をする。
夕食後に、サカヱの部屋からの咳を聞きつけた萬智子がいつものように金柑湯を用意していた。
「珠美佳も、飲みなさい。アンタも朝晩咳をしてるから」
言われたとおり、珠美佳は金柑湯を飲み干す。
「これ美味しいよね、でもカロリー高そう甘いし」
二十歳になって、少し色気づいてきた娘に萬智子はうふふっと笑う。廊下を通り過ぎた萬智子の夫で、珠美佳の父である隆も軽く咳をしている。
「隆さん、金柑湯飲んだら」
その声に応えるつもりなのか、手をひらひらとさせてサッサと二階に上がって言ってしまう。
「もう、咳してても知らないんだから」
小さな木のお盆に、サカヱの湯呑みをのせストーブの上のヤカンから金柑湯を注ぐと
「珠美佳、お祖母ちゃんにどうぞって持って行って」
「なんでアタシが」
「嫁が持って行くより、孫がもって行った方が美味しいらしいから」
「味は変わらないよ、まったく」
珠美佳はお盆を受け取ると、パタパタとスリッパの音を響かせながら祖母の部屋に向かった。部屋の中からは、外でも聞こえるほどの大音量でテレビが付いていることが多い。最近、サカヱは少しずつ耳が遠くなって来ている。
それが、なぜか今日に限って物音1つしない。
「お祖母ちゃん、寝ちゃってるかな」
そぉっと、襖を開くと仏壇なんて興味が無いと言い張っている彼女が珍しく仏壇の前に正座している。へぇ、珍しい事もあるもんだわ。珠美佳は思わず口に出してから襖をコンコンと叩いた。しかし、彼女には聞こえないらしい。
「ふぅ・・・聞こえないか」
勝手に、部屋に入ると小さな折りたたみ机の上にお盆を置くと。
「お祖母ちゃん」
と、座っている彼女を覗き込んだ。
「ああ、珠美佳かい。どうしたんだい」
「お母さんが、金柑湯持って行けって。さっき咳してたでしょ」
「萬智子さんが、気が利くねえ」
「机の上にあるからね、冷める前に飲んでよ」
「ああ、はいはい」
経机の上には、古びた木枠のL版程度が入りそうな写真立てが載せられ。サカヱの手には、今にもガラスが割れてしまいそうなほどにヒビが入り、秒針が文字盤の中で吹っ飛んだ古い金の懐中時計が握られていた。
一目で古い物だと分かるが、蓋の重厚さといい蓋の裏に刻まれた刻印とマークを見るだけで高級品だと分かる。
「お祖母ちゃん、それ何」
目ざとく見つけた孫に、驚いたように目を見開きしばらく懐中時計を見つめた。そして、床をポンポンと手で叩きにっこりと笑った。珠美佳は、指示されたとおりに畳の上に座わり彼女の顔を見た。
「これはねえ・・・」
サカヱは、手に持った懐中時計を彼女の手を持ち上げて乗せると
「アタシの父親の懐中時計なんだよ。アンタの曾祖父様の大事にしてた時計」
「へ、へえええ。でも、ガラスが割れてるし壊れてる」
「そうだね、いつも背広のポケットに懐中時計を入れていてね。倒れて亡くなった時に、壊れたんだろうね」
そう言うと、写真立てを見せると話しを続ける。
「これが、アタシの父親。格好いいだろう、良い男だったんだよ。いつもこんな服装で通勤してたよ、背広にコートに帽子。懐中時計のチェーンを見せる様にしてポケットに入れてね・・・」
確かに、セピア色に変わった写真には三つ揃いの仕立ての良さそうなススーツに、薄手のロングコートを羽織った男性が映っている。白黒だが、スーツの生地はミックス地なのか厚みを感じる色合いで、こだわった作りなのが見て取れる。コートも、実用性を取るというより、ファッションに近い物なのだろう。
写真でも、コートは羽織っているだけ。スーツのデザインも垣間見える。帽子を被り。写真撮影の為か、ステッキまで手にして空いたもう片方の手にはチェーンの付いた懐中時計。