「お前。名前は?」

男が、文月に問う。
ここで答えなければ、殺されてしまうかもしれない。

「文月と申します」
「文月。お前を連れていく」
「え……」

どくん、と心臓が嫌な音を発する。

あやかしの国に連れていかれる。そう考えただけで、背筋に嫌な汗が通る。

人間を嫌うあやかし。
その国に人間が行くなど、どうなるか分からない。
蔑まれ、冷ややかな目で見られるのならまだいい方だろう。

──だけどもし、それだけではすまなかったら……?

想像しただけで、恐怖で体が震える。
そうなるとは限らないのに、勝手に想像してしまう。

「案ずるな。お前の身の安全は保証する」
「……本当、ですか?」
「お嬢様! 簡単に信じてはいけません!」

輪の言うことは確かだ。

だが、男が嘘を言っているようにはとても見えない。

「信じずともいいが。お前の代わりに、そこの使用人が犠牲になるだけだぞ?」
「……分かりました」
「おやめください! お嬢様!」

輪は涙を流しながら、文月の腕にしがみつく。

「お嬢様様の代わりに、私が死にます。ですから、どうか……どうか!」
「輪……」

文月は輪の方を向いて、にこりと微笑み、手を握った。

「お嬢様……!」
「黙りなさい」

今まで出したことのない、文月の低い声に輪は驚き、目を見開いた。
思わず自分でも驚いてしまうほど低く、冷たい声だった。

「これは私が決めたことよ。貴女が口を出すことではないわ」

切り捨てるようにして、文月は冷たく言う。

──私ったら、こんなに冷たい人間だったのね。

ふっ、と自嘲する。
そして男の方に、歩み寄る。

「参りましょう」
「よいのか?」
「……はい。ああ、あともう一つ思い出しました」

文月は、くるりと輪の方を振り返る。

彼女の表情は暗く、瞳には涙が浮かんでいた。

それを見ると、胸が痛んだが、こうするしか他ない。

「──輪。死ぬことは許さないわ。これは命令よ」

輪は顔を上げて、こちらを見る。
一瞬だけ笑みを浮かべて、男と共に部屋を出た。