『夜宵、とかいう男ではなくて悪かったな』

その時、文月の心を読んだかのような声が、近くから聞こえた。

「な、何だお前は……!?」

青年の驚いたような声と何かを落としたような音がして、目を開けると、そこには一羽の白兎がいた。
しかも、五寸ほど宙に浮いている。

何が起こったのか分からず、唖然とする。

こちらに振り返った兎は、無言でこちらを見つめている。紅色の瞳が、美しく輝いている。

すると、両手首を縛っていた縄が突然緩んだ。思わず目を瞠り、驚愕の声が出る。

「え……。いったい、なにが……」

言葉を探すが、上手く出てこない。

(わらわ)が解いたのだ。(ふだ)を使って(ほど)きにくくされておったが。こんな粗末なもの、妾ならすぐに解ける』
「あ、あなたさまは──」
「お前は何者だ!?」

青年と同じことを問いかけようとした時、言葉を遮られてしまった。

『お前のような者に、名乗る気などない』
「れ、霊獣か! いや、神獣の兎なのか? 何故、その子と共にいる! まさか、あの龍の男の配下か何かなのか!?」
『黙れ!』

兎の言葉に、青年はたじろぐ。

『妾を神使(しんし)共と一緒にするでないわ。この痴れ者が!』

すると、先程まで文月を縛っていた布とどこからともなく現れた布が、青年の方に目掛けて飛んでいく。

「な、なんだ……?」
『お前は縛られとる方がお似合いよ』
「なに……?」

その瞬間、布が青年の腕と足を縛る。
青年は驚いて目を見開きながら、体の平衡感覚が取れなくなり、その場に倒れ込む。

「えっ」
『ふんっ。文月を縛った罰と妾を霊獣や神使と見た罰よ』

もはや何も分からず、驚きのあまり座ったまま立つことも出来ない。

そもそもこの兎は、どこから来たのだろうか。
何故、言葉を話せるのか。
どうして文月の名を知っているのか。

『妾が何者か知りたいか?』
「……教えてくださるのですか?」
『左様。まあだが、後からの方が良いな』
「?」

何故だろう、と首を傾げる。

『すぐに分かる』

その言葉通り、と言うべきだろう。
突然、扉が勢いよく開いたのだ。

「!」

扉の方を見ると、そこには夜宵が立っていた。

「夜宵さま……!」
「文月!」

夜宵が走ってきて、文月を強く抱きしめる。

「無事で良かった……」

文月も夜宵の背中に手を回す。
夜宵の体が、少し震えているのが分かる。

「夜宵さま……」

どれだけ心配をかけてしまったのだろう。
優しいこのひとを困らせてしまって、申し訳なく思う。

「申し訳ございません。夜宵さま」
「何故謝る。君は何も悪くないだろう」
「ですが、夜宵さまにご迷惑を……」
「違う。悪いのは全てあの男だ」
『こら……。妾を忘れるな』

声がしたのは、夜宵と文月の間。
兎が少々苦しそうな声を出していた。

「あっ、申し訳ございません。兎さん」
「……この兎は……」

夜宵はまるで、何かに気づいたかのような表情をする。

『ふむ……。お主は東晋(とうしん)から渡ってきた龍神の子孫か。妾に気づくのも無理はないな』
「……龍神のことは分からないが。お前の言う東晋は今は(みん)と言われている」
『少し眠っている間にまた変わったのか……』

話についていけず、ひとり静かにしていると、夜宵が「とりあえず」と言って文月を抱きかかえた。

「ひゃっ……!」

突然目線の位置が高くなったことに驚き、思わず声が出てしまった。

「詳しいことは屋敷に帰ってから話す。それでいいか?」
「は、はい」

ぴょん、と兎は一歩跳ねると先程より高く宙に浮いた。

「碧生。それ(・・)の処理を彼らと共に」
「御意」

いつの間にか、この部屋に数名のあやかしが集まっていた。

「兎よ。頼めるか? 馬では文月に負担がかかるかもしれん。俺の妖術でも同じことが起きては敵わん」
『ふっ。元よりそのつもりよ』