ひとり、部屋で本を嗜んでいると、襖の向こうから、「文月様」と優依に名を呼ばれる。

「お休み中のところ申し訳ございません」
「大丈夫よ。どうかしたの?」
「実は……文月様にお会いしたい、という方がいらっしゃいまして」
「え、私に……?」

あやかしの国で、文月に会いにくるあやかしはいない。
人間も会いに来る人などいなければ、ここに来られるはずもない。

──いったい、誰が?

「私共使用人が、断れる方ではなく。誠に申し上げにくいのですが……。こちらにお通ししても、よろしいでしょうか?」

正直、少し会うのに恐怖心がある。
しかし、怪我や病気をしておらず、ただ会いたくないからという理由で帰すのは大変失礼にあたる。

それに、龍水家の使用人でさえ断ることの出来ない、というと相当の権力を持っている方なのだろう。

「分かったわ。お通ししてちょうだい」



数分後、部屋に訪れたのはひとりの女性だった。

「初めまして。文月さん」

にこ、と女性は優雅に微笑む。

藍色の腰まである髪と、夕日が沈み紫色に染まる空のように輝く瞳。

なによりその美貌は、この世のものとは思えない程美しい。
思わず見惚れてしまうほど。

「は、初めまして……」

そして、どことなく既視感のある風貌。

「そう固くならないで。これからも会うことになるでしょうから」
「これからも……?」

女性の言葉に、文月は耳を疑う。

「申し遅れました。私、龍水咲夜子(さよこ)と言います」
「龍水……」

──ということは、夜宵さまのお姉様かしら。それとも……。

妻、という言葉が頭をよぎる。

そんなはずはない、と首を横に振る。
妻であれば、夜宵が結婚を申し出るはずがない。

夜宵がそのようなあやかしでないことも分かっている。

しかし、本人に聞かなければ答えは出ない。

「あ、あの……。咲夜子様は、夜宵さまのお姉様でしょうか?」

咲夜子は驚いたように、目を見開いた。

数秒の間、沈黙があったものの、咲夜子の笑いによって沈黙は解かれた。

「ふ……ふふふっ、ごめ、ごめんなさい……。あまりにも可愛らしくて。うふふっ」
「え」

ちらり、と後ろに控えている優依と千依の方を見る。
二人とも笑ってはいないものの、肩が震えて、顔が下を向いていた。

「私は夜宵の姉ではなくて、母です」
「母……」

文月は目を瞠った。

「え、お、お母様なのですか……? お若すぎでは……」

つい本音が口から出てしまって、右手で口を塞ぐ。

「まあ! そんな風に見えていたの? 嬉しいわ」

咲夜子はまたも、美しい笑みを浮かべる。

「それにしても、こんな可愛らしくて、綺麗な子を連れてくるなんてね。ねぇ、千依?」
「長年、坊っちゃんのお世話をしてきましたが、あのような坊っちゃんを見たのは初めてかもしれません」
「あら。どんな感じなのかしら。気になるわ」

微笑みを浮かべる咲夜子が、どうしても母であるような年齢には見えなかった。