外に出て、屋敷の庭を見回る。
仲間たちからの連絡で、屋敷のほとんどの人間を捕えることが出来たらしい。
ふと、どこからか視線を感じた。
──殺意、とかではないな。上か。
見上げると、窓越しだったがはっきりと人影が見えた。
「!」
夜の闇でも、月のように光る金色の瞳。
一条家の者である証だ。
夜宵はすぐにその部屋へと向かった。
扉は古く、本当にここに人間がいるのかと疑問に思ったが、見えたのは間違いないので扉を開く。
「動くな!」
そこにいたのは、長い黒髪に美しい金色の瞳を持つ少女だった。
彼女が着ている着物は古く、何度も縫われた跡が多くあった。
本当に一条家の人間か疑ったが、彼女の瞳は本物だ。
──本当にここにいたのか。それとも、生き残ろうとわざとこんなことをしているのか……。
一条家の人間は、外見こそ美しい者ばかりだがその中身はとても醜い。
自分さえ良ければ、他人などどうなってもいい。そういう者ばかりだ。
──使用人を盾にしようとした娘もいたな。
それ以外にも、金で解決しようとする者や一番酷かったのは、当主夫人の命乞いだった。
しかし、目の前にいる少女は命乞いなどせず、使用人を盾にするどころか守っている。
「お前。名前は?」
芯の強い彼女になぜか惹かれた。
夜宵はただ興味が湧いただけだと思い、あやかしの国に連れて行くことにした。
しかしそれだけでは、いつか人間の国に返すことになる。
だから、彼女を嫁として迎える。
使用人として雇うと、周りのあやかしや使用人に気づかれる。
あやかしは、人間比べて五感が鋭い。
そして龍はあやかしの中でも特に五感が研ぎ澄まされている。
なので、他のあやかしに気づかれない為にも、夜宵の手が届く範囲で共にいてもらった方がいい。
──彼女に嫌われていないのなら、の話だけどな。
◇◇◇
侍女に案内された部屋は、とても綺麗だった。
「こちらが、お客様が使っていただく部屋になります」
畳、障子、押し入れ、襖。
その全てが、文月の育った部屋とは比べ物にならないほど綺麗に整えられていた。
「……ほ、本当に、私が使っていいのですか?」
「はい。貴女様は、旦那様の大切なお客様ですから」
にこりと優しく微笑まれる。
「あ、ありがとうございます」
「お風呂はこちらです。お召し物は部屋着と外出用どちらも揃っておりますので。お好きな物をお使いください」
「えっ、そ、そんなに……」
人間の、それも一条家の者にここまで良くしてくれるなんて、あやかしはなんと優しいのだろう。
──どうして、人とあやかしは嫌い合うのかしら。
分かり合えば、きっと良い関係が築け合えたはずだ。
「お客様?」
「あ、すみません。少し考え事を……」
「お疲れのようですね。もう夜が明けますが、朝食の時間までは、ごゆっくりお休みください」
そう言うと、彼女は部屋を出た。
「休む……」
そう言われても、文月には休み方は分からない。
一条家では寝ても覚めてもいつも同じで、少ない数の本を読むくらいしかやることが無かった。
お風呂は、使用人が使う女性専用のところ。
使われたあとのお風呂は、温かいときもあったが、ほとんどぬるく冷めていることが多かった。
寝るための布団も古く、布が薄くて冬は特に寒かった。
輪が毛布を持ってきてくれなければ、毎年訪れる冬は越せていなかっただろう。
「……お風呂に入ってみようかな」
ぬるくても冷たくてもいいから、とりあえず身を清めたかった。
浴場は石造りで広く、湯気もたっていた。
「すごい……」
思わず声に出してしまうほどに、丁寧に出来ていた。
まずは、全身を洗おうと桶に湯を汲む。
「温かい」
使用人が使っていたお風呂より、断然気持ちがよく、温かかった。
体を洗い、湯船に浸かった瞬間、文月はこの身が溶けるかと思った。
──私の体、ちゃんとあるかしら?
長い黒髪も、顔も体も、ここまで綺麗になれたのは初めてだった。
入浴後、部屋着に着替える。
どれも綺麗な部屋着で、時間をかけてやっと選べた部屋着は、着心地がとてもよかった。
「流石に、この屋敷内をあの古い着物で歩くことは出来ないわ……」
使用人が来るまで、部屋にある本を読んで休息をとった。
日が昇り一時間ほど経ったころ、襖の向こう側から、先程部屋を案内してくれた侍女の声がした。
「お休み中のところ失礼致します。襖を開けてもよろしいでしょうか?」
「はい。大丈夫です」
「失礼致します。お食事の用意が出来ましたので、お部屋までご案内したいのですが……」
「分かりました。すぐに行きます」
侍女について行った部屋には、この屋敷の主が待っていたかのように座っていた。
彼の目の前には、大きな机が置かれてあり、そこには沢山の料理が並べられていた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
「こちらへ来い。一緒に食べよう」
文月は言われた通りに、彼の前に座る。
彼の顔をよく見ると、目の前にいる彼はとてもよく整った顔立ちをしている。
あの時は暗さもあったのと、あやかしの国に来たというのに、色々と追いついていなくて、誰かの顔を見る余裕がなかった。
藍色の髪、白金の美しい瞳。
それは、思わず誰もが見惚れてしまうほど。
「部屋は気に入ったか?」
「えっ、あ、はいっ! 広くて、綺麗で……。とても、過ごしやすいです」
「そうか」
そういえば、彼の名前を知らなかったことを今さら思い出す。
「あ、あの。私、貴方様のお名前をまだ知らないのですが……」
「名乗っていなかったか?」
「はい」
二人の間に、少しの間沈黙が生まれた。
その沈黙を解いたのは、彼だった。
「俺の名前は、龍水夜宵だ。夜宵、と呼んでくれて構わない」
「や、夜宵さま……」
名を呼ぶだけなのに、何故こうも恥ずかしくなるのか、分からなかった。
ふっ、と夜宵は嬉しそうに微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間。何故か、胸が高鳴るのを感じた。
朝食を終えた文月の元に、三人の侍女が部屋へ訪れた。
──朝食の時、夜宵さまとお話した時に言われた方たちよね?
三人のうちふたりの使用人が、こちらを凝視しているように見えるのは、気のせいだろうか。
「改めて、ご挨拶をさせてください。私は侍女長の綾龍千依と申します。どうか、千依とお呼びください」
「私は侍女の龍凛優依と申します」
「同じく侍女の憐龍華と申します!」
ふたりは同時に、深く頭を下げながら「よろしくお願い致します」と言った。
──お部屋に案内をしてくれたのは、優依さんだったのね。
長い青色の髪を高い位置に結び、水色の瞳を持っていて、女性にしては背が少し高めの優依。
毛先がふわっとしている金色の短い髪と、朱色の瞳で、背は文月と同じくらいの華。
「文月です。よろしくお願いします」
にこ、と微笑み挨拶を返すと優依と華の何故かふたりが倒れてしまった。
「えっ!」
「お気になさらず。気絶しただけなので、すぐに起きます。本日から、文月様にはこの優依と華が仕えますので。なんでも、このもの達にお申し付けください。敬語も必要ございませんので」
「は、はい……」
気絶しただけ、という言葉が気になったが千依は答えてくれなさそうだった。
──だ、大丈夫かしら……。
「あの、華さん、優依さん。少しいいかしら?」
「はい! なんなりと!」
文月の呼びかけに、瞳を輝かせて笑顔を浮かべる華と優依は元気に返事を返す。
文月は特に気にすることなく、ふたりに問いかける。
「華さんと優依さんは、私が人間だと知っているのに、どうして優しくしてくれるの?」
「それはですね──」
「文月様が、良い方だと分かっているからです」
華が答えようとした時、優依が突然横から入ってきた。
「え……?」
「私達、あやかしが人間よりも五感が優れているのはご存知ですか?」
「ええ。本でしか読んだことないけれど。龍はその中でも特に優れているのよね?」
頷いた優依が、再び口を開きかけた時、今度は華が横から入ってきた。
「そうなんです! なので、そのあやかしや人間の事が、匂いで感じ取れるんです」
「匂い?」
「単純に優しいか悪い奴かってだけじゃなくて、そのひとが今なにを考えてるのか、とかもなんとなく分かるんです。ですが日常的にはそういうのは抑えてます」
「……そう。教えてくれてありがとう」
文月がそう言って微笑むと、何故か二人は吐血しながら大声で「お役に立てて光栄です!」と言った。
──私が良い人なわけがないわ。だって……。
文月は小さく、唇を噛み締めた。
龍水家の屋敷に来て、早数日。
屋敷にいても夜宵と一緒に食事をしたり、優依と華と話したり、本を読むことくらいしかすることがなかった。
この生活に不満など一切ない。しかし、何か少しでもすることはないか、と思ってしまう。
そのことを、優依と華に話すと──。
「でしたら、少しお散歩いたしますか?」
「お散歩?」
華からの提案に、文月は首を傾げる。
「はい。屋敷内でしたら、旦那様の許可もいりません。どうですか?」
「じゃあ、お願いしようかしら」
「喜んで!」
屋敷を散策中、何人かの使用人に遭遇したのだが、その度に文月は視線を感じていた。
「あの方が、旦那様の?」
「綺麗な方……」
──何を言われてるかは分からないけど……。悪いことじゃないわよね。
つい、優依の背に身を隠すと、優依はとても嬉しそうな表情になり、逆に華は不機嫌そうな表情になった。
「……華さん?」
「何でもございません。さっ、次はお庭へ案内致しますね! あまり、長い時間はいられませんが……」
「あれ。華じゃないか」
正面から向かってくるのは、一人の男性だった。
名を呼ばれた華は「げっ」と、心底嫌そうな声を上げ、顔を渋らせた。
──あの方は確か……。
夜宵に、彼のことを紹介されたことを思い出す。
「ごきげんよう。碧生さん」
「こんにちは。文月様。お名前、憶えていてくださったのですね」
碧生は文月のことを人間だと知る、数少ないあやかしのひとりでもある。
「……で。何の用なの?」
華は碧生に訝しげに、問いかける。
「ああ、いや。用はないけど、たまたま見かけたから」
「私は今から、文月様を色々とご案内しないとなの。怠けてるあんたとは違うのよ」
「いやいや。俺だって今仕事中だし」
「じゃあ、その持ってる紙持って早く行きなさいよ」
喧嘩が始まりかけ、文月はあわあわとするも、優依は何も気に止めていない様子。
「大丈夫ですよ、文月様。あのふたりは、いつもあのような感じなので」
「そ、そうなの?」
「はい。会えばいつも喧嘩ばかりなので、屋敷のものも慣れているのです」
それはそれで、放っておいていいのだろうかと疑問に思うが、あまり口に出さない方がいいだろう。
「優依さんが言うなら……」
そう言って、頷き返した。
庭に出ると、桜、薔薇、紫陽花、萩、百合、椿など──数え切れないほどの花々が咲き乱れていた。
「きれい……」
「お気に召されましたか?」
「ええ。とっても」
しかし、そこでとある疑問が思い浮かんだ。
──変だわ。桜や梅の花は、まだ先のはず。いいえ。それ以外にも、この時期には咲かないはずの花がたくさん……。
季節は晩秋。現に、椿の見頃は冬の終わり頃だと本で読んだことがある。
何故、この時期には絶対に咲かない花がこんなにもあるのか。
「優依さん、華さん。あの、どうしてお花が……」
「お気づきになられましたか?」
「え」
にこにこと、笑みを浮かべる侍女のふたり。
文月はわけが分からず、首を傾げる。
「屋敷に戻りながら、詳しく説明させていただきますね」
優依と華は、文月の歩調に合わせながらゆっくりと歩いてくれる。
「龍水家の屋敷には、代々当主が張る結界があるんです。その結界は屋敷全体を守ってくれて、ちょっとやそっとの攻撃では壊れないように出来ているんです」
「そして結界の中でも特別な作りの結界のひとつが、あのお庭になります」
ひとつ、というと他にもまだあるらしい。
龍水家の敷地は広いため、全てを見つけるは難しそうだ。
「詳しいことは、存じ上げないのですが。散りゆく花々を見たくない、という初代当主夫人のために、この結界を張ったというお話がございます」
「まあ。じゃあ、その方はお花がとてもお好きだったのね。素敵だわ」
ふふ、と微笑むと優依と華はいきなり、鼻血と吐血をした。
「だ、大丈夫?」
「ご安心を……ただの発作です」
「う、美しいものを見ると、発作が……うぐっ」
「ほ、発作……?」
文月は大丈夫かと心配したが、本人達が問題ないと元気に言ったので、少し疑いが残りながらも、屋敷内の散歩は終わりを迎えた。
夜、夜宵と食事をする時間になったので、居間へ向かう。
昼食を除く朝と夜は、必ず夜宵と食事を共にすることになっている。
「ここには慣れたか?」
「はい。優依さんも華さんもとても優しくて、読んだことがなかった本もたくさんあって、楽しいです」
ふっ、と夜宵は小さく微笑んだ。
「そうか」
夜宵の笑顔に、また胸が少し高鳴る。
文月が思わず見とれていると、夜宵と目が合ってしまい、恥ずかしさが込み上げてきて思わず目を逸らす。
なにか会話をと考えた時、思い浮かんだのは一条家のことだった。
──輪は、使用人たちはどうなったのかしら。
「あ、あの、夜宵さま。一条家は、人間の国はどうなったのでしょうか……」
「今のところ、人間の国で混乱は起きていないそうだ。一条家の方は、当主は生きてはいる。虫の息だがな」
「え……」
なによりも一条家の人間が生きていた、ということに驚いた。
「すまない。君は聞きたいない話だろう」
「いえ。教えてください」
──当主様のことは正直、なにも思ってないのよね。それより……。
自分が冷たい人間だと思う。優しさなど欠片もない、と。
しかしそれでも、愛されず会うことすら許されなかった父に対して、何も思うことができなかった。
「……分かった。だが、君が聞いてもあまりいい話ではないぞ」
「構いません」
「一条家の当主には、俺の妖力を体内に少し入れたんだ」
話によると、当主は夜宵の妖力が混じった水を呑み、臥せっているとのこと。
少しずつ体を蝕み、約ひと月後には死に至るということだ。
「それは、夜宵さまだけが使える妖力なのですか?」
「いや。あれは、たまたま思いついただけだ。恐らく、あやかしは皆使えるだろう」
龍のあやかしは、基本的に天候を操る妖力を使うらしい。
なので、自分の妖力を別の用途で使うことはあまりないそうだ。
「人間の国だけずっと、雨が降らないようにするのも良かったんだが。罪の無い者を巻き込むわけにはいかなかったからな。一条家のみを狙ったんだ」
「あ……」
あの時に感じた静けさは、あやかしが他の人間は一切襲わずに静かに一条家だけを襲ったからだった。
それでも、怪しまれないようにあやかしは結界を張っていたらしい。
一条家の外にいる人間には決して気づかれないよう、いつも通りに見えるように、と。
──あやかしは、凄いわ。
文月は怖い、とは思わず、あやかしの凄さに感嘆していた。
「屋敷の使用人たちは……?」
「生きている。流石にあの屋敷にいさせるわけにはいかないからな。一人一人に、不自由ないよう暮らせるように金は渡しておいた。君の乳母も生きている」
ほっ、と安堵する。
──良かった。輪は、生きてるのね。
「そういえば、あの事は考えてくれたか?」
「あのこと……?」
文月が首を傾げると、夜宵はそれはそれは妖しい笑みを浮かべた。
「俺の嫁になることだ」
「そ、それは……」
顔が一気に熱くなるのを感じる。
「ま、まだ待ってください……」
「ああ。分かった」
夜宵はお茶を嗜みながら、また柔らかく微笑んだ。
龍水家で過ごして二週間ほど経った。
ここでの生活も、大分慣れ始めてきた。
──だけど、誰も私が人間だと気づいていると思うのになにも言わないわ。どうして?
「ああ、それは……。君には、龍の匂いがついているからな」
「龍の匂い、ですか……?」
夜宵に詳しい話を聞こうと、問いかけたら首を傾げるような言葉を言われた。
「この屋敷に、結界を張っていることは知っているか?」
「はい」
「結界に、俺が少し細工をしたんだ。君をここに連れてきた日にな」
──だめだわ。よく分からない……。
あやかしや妖力、結界などの事にはなにも詳しくないので、しっかりと話を聞かないと理解が追いつかなかった。
「特定のあやかし以外には、君が人間だと分からないように、君のその瞳や匂いを分からないようにしたんだ。だから、君がこの結界を出ない限りは、君が人間だとは誰も分からない」
「では、私の瞳は他の人にはどう見えているのですか?」
「金色ではない別の色だ。分かりやすく、水色で統一している」
ほっ、と少し安堵する。
瞳が金色でない別の色なら、それ以外がどう見えてもいい。
とても良くしてくれているあやかしに、人間だと気づかれて、孤独にされるのはどうしようもなく怖い。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。むしろ、勝手なことをしたのではと不安になった」
文月は首を横に振る。
──むしろ、私の方がお手を煩わせてしまった……。
感謝の気持ちと申し訳なさが、一気に押し寄せてきて、気持ちが落ちる。
「あやかしの事について、もっと知らないと……」
ぽつり、と夜宵にも聞こえないように小さな声で呟いた。
翌日、朝食終えた文月は、あやかしのことについて勉強をすることにした。
──優衣さんと華さんに聞いたり、本を読んだりしたら少しは分かるかしら。
この世に生まれてから、生きていればいいと思っていたが、何かをしたいと思うのは初めてだった。
ある程度の学力はついているが、あやかしの国とは恐らく色々と異なる部分がある。
そこを学んでいかなければ、と文月は考えた。
「二人とも、少しお願いがあるのだけど……」
仕事中なのに申し訳ないと思いながら、少し躊躇いがちに話しかける。
「「なんなりとお申し付けください!」」
「……その、もし良ければでいいのだけど。あなた達のことをもっと知りたいから、色々と教えて欲しいの」
二人は、顔を見合わせて瞳に涙をうっすらと浮かべていた。
「わ、私たちのことを知っていただけるなんて……恐悦至極!」
「ああ、神よ……!」
「ふ、二人とも、どうして泣いて……?」
文月は心配したが、二人が大丈夫だと言うので、それ以上はなにも言えなかった。