「契りは結んだんだ」

 赤い瞳が、ますます鋭利な光を帯びる。

「互いに小指を合わせたあの瞬間から、俺達は夫婦だった。誰も知らずとも、俺達は知っていた。……俺が知らなかったのは、ねねの覚悟の強さと村人たちの姑息さだった」

 マオは開いた自身の掌へと視線を落とし、

「今でも鮮明に覚えている。"神池"に浮かぶ古びた舟と、首から真っ赤な血を流し息絶えていた、白い花嫁衣装のねね。握られていた簪。ねねを抱いて共に沈んだ、水の冷たさ」

「……飛び込む前に三味線の糸巻きで腹など突かなければ、お前も人間に生まれ変われていたんじゃないか」

「かもな。だが猫又だったからこそ、今がある。そしてこれからもな。あれは師匠から継いだ"猫"だったし、案外これは粋な計らいだったのかもしれないぞ。まあ、なんにせよ、後悔はないさ」

(それでいい。後悔など、してもらっては困る)

「なぜ契りを結んだ夜に逃げなかった」

「夜明けに落ちあい、逃げる手はずだったんだ。"ねね"が……少しばかり、荷物を持ちだしたいと言ったんだ。思えばその時にはすでに、腹を決めていたのかもしれない。"ねね"は、"マオ"を生かしたかったのだろう。だが"マオ"には、耐えられなかった」

 白い指で己の腹を緩くさすり、

「例えばあの村に"神池"の天狗信仰がなければ。例えば"ねね"が、赤い目で生まれていなければ。例えば"マオ"があの村に立ち寄らず、二人が惹かれ合わなければ。なにかひとうでも違っていれば、悲劇は避けられたのかもしれない。何度も考えた。だがいくら考えたところで、過去はやり直すことなどできない」

 マオはそっと、自身の小指を見つめる。

「全ては過去の記憶だ。契りを結んだ細い小指も、これで"マオ"のお嫁さんだねと笑った、"ねね"の幸せそうな顔も。守られてしまった後悔と、守ってやれなかった不甲斐なさ。別れ花のごとく咲き誇る、真っ白なハマユウの花」

 開かれた両の掌が、空虚を掴むようして強く握りしめられる。