今日は命日日曜日。
約束の日、やっぱり外は雨降りで、わたしはあの日の駅へと舞い戻る。
行き先もなくぽつんと立ち止まってみても、忙しなく行き交う人々は、誰もわたしを気に留めない。
明日の今頃、わたしの居なくなった世界はきっと、こんな風に何も変わらず回っているのだと、何と無く安心した。
「……行くぞ、時間は有限だ」
「うん……そうだね」
最期にわたしは、せっかくなので思い出の地を巡ることにした。
特に楽しかった思い出もないけれど、珍しく、夜から散歩に誘ってくれたのだ。
先ずは数年前に潰れてしまった孤児院。雨の日に猫みたいに捨てられたわたしを、拾って育ててくれた場所。建物は壊されて、ただの空き地になっていた。
そこから近くの、小学生の時にわたしを引き取ってくれた五月家。わたしは無造作に、残っていたお金をポストに入れた。
育ててくれた恩は勿論あるけど、引き取られた二年後、夫婦の間に待望の実子が出来てからは、幼心になんだかちょっと居心地が悪かった。家に馴染む前に、居場所をなくしたのだ。
そして中学を出てすぐ、わたしは高校生で一人暮らしを始めた。特に反対はされなかった。思えば、あの日も雨だった。
初めてのアルバイト先。土日放課後毎日アルバイトをして、そのお金をやりくりして、五月家に今まで育ててくれた分少しずつ振り込んだ。
そんなの必要ないと言ってくれたけれど、それがわたしに出来る唯一の恩返しだった。
当然趣味や贅沢品に割けるお金なんてなくて、ひたすら勉強して働く、灰色の青春時代。
付き合いの悪いわたしは遊びに誘われることもなく、一人で過ごすのはお手の物。
暇さえあれば勉強していたから成績はそれなりに良かったけれど、お金の大切さや稼ぐ大変さは身をもって知っていたから、奨学金なんて借りるのも怖くて、高卒で働き始めた。
楽しいことも、流行りのことも、盛り上がる会話も、情報として耳に入ることはあっても、実際は何一つ知らない。
アルバイト先の人とは仕事の話しか出来ず、当然友達も出来なかったし、就職した会社でようやく大人の仲間入りをしても、それは変わらなかった。
初めての社会人生活、アルバイト時代とは違う責任感に押し潰されそうになりながら、毎日一生懸命働いた。高卒の給料は良くはないし、覚えることは山のよう。
家に帰ればひとりぼっちのワンルーム、疲れきった心と身体は孤独な夜に擦りきれそうで。
いつか、慣れたら。いつか、余裕が出たら。その時には、何か楽しいことをしよう。今までの分を取り戻そう。
そう思っていたのに、数年間頑張り続けて、ようやく貯金が出来るようになって、ある日唐突に気付いてしまったのだ。
『わたしにとって、楽しいことって何だろう。やりたいことって、何だろう』
わたしにはそんな細やかな希望すら、何も思い付かなかった。
特に取り返しのつかないトラブルがあったわけでも、誰かに傷つけられたり裏切られたりしたわけでもない。
何処までいっても、わたしの世界はわたし一人で完結するものだった。
そんな孤独な世界で、ただ頑張り続ける果ての見えない日々の先、光ではなくただ暗闇が広がっているのに気付いて、とうとう『ぷつん』と、頑張りの糸が切れてしまったのだ。
そしてわたしは、あの雨の月曜日に、全部やめることにした。
「ふふ、それで、わたしはあの駅に向かったんだ。毎日通勤に使ってた駅」
「走馬灯ってやつを、自分の目と足で辿ってるのか?」
「あはは、そうかも。……あーあ、つまんない人生だったなぁ」
「……そう、か」
わたしが辞めても変わらず仕事の回る会社の前。
わたしに気付かず足早に側を通り過ぎる同期を横目に、諦めにも安心にも似た気持ちで、一息吐く。
「よし、そろそろ帰ろっか」
「……そうだな」
あの日出会った死神と、あの日飛び込もうとした電車に乗って、帰路につく。
最期の時を迎えるのなら、やっぱり此処が良い。
たった一週間で、何処よりもわたしの大切な場所になったワンルーム。
大丈夫。孤独な夜は、もう来ない。
*****
「最期に、言い遺すことは?」
「……ないよ。わたしには、言葉を残す相手なんて居ないもん」
「そうか……」
わたしは小さな嘘を吐く。本当は、目の前の彼に言いたいことが一つだけ。
あなたが、好き。大好き。
世界で唯一、あなただけが、わたしの日々に彩りをくれた。あなただけが、わたしの光だった。
けれど、言わない。言える訳がない。言ったところで、困らせるだけ。
だって彼は、優し過ぎる死神なのだ。
「あ……ねえ、わたしの死因って、何なの?」
「……孤独死とだけ、リストには書いてある。自殺じゃないなら、原因は何でも良い」
「ふーん。孤独死、かぁ。わたしにぴったり」
「……、俺が居ても、孤独だったか?」
ぽつりと、雨音に紛れそうなその声に、思わず出会った時のように凝視してしまう。
彼の瞳が、僅かに揺らいだ。
まさか彼から、そんな言葉が出るなんて。
もしかしたらこの一週間、わたしと居て彼の孤独も少しは埋められたのだろうか。
死神なんていう過酷な仕事において、この日々が束の間の癒しとなれたのだろうか。
だとしたら、こんなに嬉しいことはない。わたしの今日までの命は、その為にあったに違いない。
「ふふ、夜と居られた一週間、ひとりぼっちじゃなかった。わたし、とっても幸せだったよ」
「……それなら、良かった」
安心したような彼の穏やかな表情を、目に焼き付ける。
初めて会った時よりも、なんだか纏う空気が柔らかくなった気がする。なんて、勘違いかも知れないけれど。わたしとの日々で何か変ったのなら、嬉しく思う。
正真正銘、これが人生最後の恋だ。少しくらい、この想いを噛み締めていたかった。
「……」
「……他に、話したいことはあるか?」
彼の手にはいつの間にか、靄で出来たような朧気な輪郭の、見るからに死神の道具と言わんばかりの漆黒の大鎌が握られていた。
嗚呼、きっと、もうすぐだ。
彼に命を奪われる、最期の瞬間。
大好きな人に殺されるなんて、こんな惨めな人生において、なんて贅沢な終わりなんだろう。
きっと、わたしの今までの頑張りへの、神様からの御褒美だ。
この場合、その神様は目の前の死神様なのだろうけれど。
「ねえ……死後の世界って、どんな場所なの?」
「……死神が狩った魂の行き先は、天国か地獄のどっちかだ。……あんたなら、天国に行けるんじゃないか?」
「そっかぁ……天国に行ったら、もう、夜には会えない?」
「……俺は、死神だからな」
「残念……。なら、さ。またいつかわたしが生まれ変わったら、その時は……また、わたしを殺しに来てくれる?」
「は……?」
出来るだけ感情を抑えるように淡々と話していた夜が、思わずぽかんとした表情をする。
我ながら、酷い要求だ。
普通、来世の再会を約束するなんてとってもロマンチックなはずなのに。これではまた、彼に悲しみを背負わせるだけ。
それでも、そんな突拍子もない提案に優しい彼は驚いた後微笑んで、子供っぽく指切りを交わしてくれた。
「わかった、それがあんたの『願い』なら、約束だ」
「……うん。約束ね、夜」
初めて会った時、一週間の猶予の対価に『願いを叶える』と言っていたのを、今になって思い出した。願いなんて要らないくらい、満ち足りた一週間だったのだ。
名残惜しく小指が離れて、彼は僅かに震える両手で鎌を握る。
やっぱり、最後に好きって言えばよかったかな、なんて。わたしに馬乗りになった彼の瞳に涙が滲むのを見て、思わず決心が揺らぐ。
硝子玉のようだと思っていた綺麗な瞳。涙を溢さぬよう懸命に堪えながら、それでも大きく鎌を振りかざす彼の姿に、心臓が止まりそうな程胸が締め付けられるのは仕方ないだろう。
「……雨、……」
「! あのね、夜……、わたし……っ」
彼の声で、初めて呼ばれた名前。
それだけで、もう止まってしまうというのに、今までにないくらい心臓が大きく跳ねる。
そして日付が変わるぎりぎりの、刃に貫かれる刹那。咄嗟に絞り出した雨音に紛れるくらいの小さな声が恐らく彼に届かなかったことを、少しばかり後悔した。
それでも、最期の瞬間に見たものがわたしの為に泣いてくれる好きな人の顔だなんて、わたしはこの雨の夜において、きっと世界一の幸せ者だ。
*****
約束の日、やっぱり外は雨降りで、わたしはあの日の駅へと舞い戻る。
行き先もなくぽつんと立ち止まってみても、忙しなく行き交う人々は、誰もわたしを気に留めない。
明日の今頃、わたしの居なくなった世界はきっと、こんな風に何も変わらず回っているのだと、何と無く安心した。
「……行くぞ、時間は有限だ」
「うん……そうだね」
最期にわたしは、せっかくなので思い出の地を巡ることにした。
特に楽しかった思い出もないけれど、珍しく、夜から散歩に誘ってくれたのだ。
先ずは数年前に潰れてしまった孤児院。雨の日に猫みたいに捨てられたわたしを、拾って育ててくれた場所。建物は壊されて、ただの空き地になっていた。
そこから近くの、小学生の時にわたしを引き取ってくれた五月家。わたしは無造作に、残っていたお金をポストに入れた。
育ててくれた恩は勿論あるけど、引き取られた二年後、夫婦の間に待望の実子が出来てからは、幼心になんだかちょっと居心地が悪かった。家に馴染む前に、居場所をなくしたのだ。
そして中学を出てすぐ、わたしは高校生で一人暮らしを始めた。特に反対はされなかった。思えば、あの日も雨だった。
初めてのアルバイト先。土日放課後毎日アルバイトをして、そのお金をやりくりして、五月家に今まで育ててくれた分少しずつ振り込んだ。
そんなの必要ないと言ってくれたけれど、それがわたしに出来る唯一の恩返しだった。
当然趣味や贅沢品に割けるお金なんてなくて、ひたすら勉強して働く、灰色の青春時代。
付き合いの悪いわたしは遊びに誘われることもなく、一人で過ごすのはお手の物。
暇さえあれば勉強していたから成績はそれなりに良かったけれど、お金の大切さや稼ぐ大変さは身をもって知っていたから、奨学金なんて借りるのも怖くて、高卒で働き始めた。
楽しいことも、流行りのことも、盛り上がる会話も、情報として耳に入ることはあっても、実際は何一つ知らない。
アルバイト先の人とは仕事の話しか出来ず、当然友達も出来なかったし、就職した会社でようやく大人の仲間入りをしても、それは変わらなかった。
初めての社会人生活、アルバイト時代とは違う責任感に押し潰されそうになりながら、毎日一生懸命働いた。高卒の給料は良くはないし、覚えることは山のよう。
家に帰ればひとりぼっちのワンルーム、疲れきった心と身体は孤独な夜に擦りきれそうで。
いつか、慣れたら。いつか、余裕が出たら。その時には、何か楽しいことをしよう。今までの分を取り戻そう。
そう思っていたのに、数年間頑張り続けて、ようやく貯金が出来るようになって、ある日唐突に気付いてしまったのだ。
『わたしにとって、楽しいことって何だろう。やりたいことって、何だろう』
わたしにはそんな細やかな希望すら、何も思い付かなかった。
特に取り返しのつかないトラブルがあったわけでも、誰かに傷つけられたり裏切られたりしたわけでもない。
何処までいっても、わたしの世界はわたし一人で完結するものだった。
そんな孤独な世界で、ただ頑張り続ける果ての見えない日々の先、光ではなくただ暗闇が広がっているのに気付いて、とうとう『ぷつん』と、頑張りの糸が切れてしまったのだ。
そしてわたしは、あの雨の月曜日に、全部やめることにした。
「ふふ、それで、わたしはあの駅に向かったんだ。毎日通勤に使ってた駅」
「走馬灯ってやつを、自分の目と足で辿ってるのか?」
「あはは、そうかも。……あーあ、つまんない人生だったなぁ」
「……そう、か」
わたしが辞めても変わらず仕事の回る会社の前。
わたしに気付かず足早に側を通り過ぎる同期を横目に、諦めにも安心にも似た気持ちで、一息吐く。
「よし、そろそろ帰ろっか」
「……そうだな」
あの日出会った死神と、あの日飛び込もうとした電車に乗って、帰路につく。
最期の時を迎えるのなら、やっぱり此処が良い。
たった一週間で、何処よりもわたしの大切な場所になったワンルーム。
大丈夫。孤独な夜は、もう来ない。
*****
「最期に、言い遺すことは?」
「……ないよ。わたしには、言葉を残す相手なんて居ないもん」
「そうか……」
わたしは小さな嘘を吐く。本当は、目の前の彼に言いたいことが一つだけ。
あなたが、好き。大好き。
世界で唯一、あなただけが、わたしの日々に彩りをくれた。あなただけが、わたしの光だった。
けれど、言わない。言える訳がない。言ったところで、困らせるだけ。
だって彼は、優し過ぎる死神なのだ。
「あ……ねえ、わたしの死因って、何なの?」
「……孤独死とだけ、リストには書いてある。自殺じゃないなら、原因は何でも良い」
「ふーん。孤独死、かぁ。わたしにぴったり」
「……、俺が居ても、孤独だったか?」
ぽつりと、雨音に紛れそうなその声に、思わず出会った時のように凝視してしまう。
彼の瞳が、僅かに揺らいだ。
まさか彼から、そんな言葉が出るなんて。
もしかしたらこの一週間、わたしと居て彼の孤独も少しは埋められたのだろうか。
死神なんていう過酷な仕事において、この日々が束の間の癒しとなれたのだろうか。
だとしたら、こんなに嬉しいことはない。わたしの今日までの命は、その為にあったに違いない。
「ふふ、夜と居られた一週間、ひとりぼっちじゃなかった。わたし、とっても幸せだったよ」
「……それなら、良かった」
安心したような彼の穏やかな表情を、目に焼き付ける。
初めて会った時よりも、なんだか纏う空気が柔らかくなった気がする。なんて、勘違いかも知れないけれど。わたしとの日々で何か変ったのなら、嬉しく思う。
正真正銘、これが人生最後の恋だ。少しくらい、この想いを噛み締めていたかった。
「……」
「……他に、話したいことはあるか?」
彼の手にはいつの間にか、靄で出来たような朧気な輪郭の、見るからに死神の道具と言わんばかりの漆黒の大鎌が握られていた。
嗚呼、きっと、もうすぐだ。
彼に命を奪われる、最期の瞬間。
大好きな人に殺されるなんて、こんな惨めな人生において、なんて贅沢な終わりなんだろう。
きっと、わたしの今までの頑張りへの、神様からの御褒美だ。
この場合、その神様は目の前の死神様なのだろうけれど。
「ねえ……死後の世界って、どんな場所なの?」
「……死神が狩った魂の行き先は、天国か地獄のどっちかだ。……あんたなら、天国に行けるんじゃないか?」
「そっかぁ……天国に行ったら、もう、夜には会えない?」
「……俺は、死神だからな」
「残念……。なら、さ。またいつかわたしが生まれ変わったら、その時は……また、わたしを殺しに来てくれる?」
「は……?」
出来るだけ感情を抑えるように淡々と話していた夜が、思わずぽかんとした表情をする。
我ながら、酷い要求だ。
普通、来世の再会を約束するなんてとってもロマンチックなはずなのに。これではまた、彼に悲しみを背負わせるだけ。
それでも、そんな突拍子もない提案に優しい彼は驚いた後微笑んで、子供っぽく指切りを交わしてくれた。
「わかった、それがあんたの『願い』なら、約束だ」
「……うん。約束ね、夜」
初めて会った時、一週間の猶予の対価に『願いを叶える』と言っていたのを、今になって思い出した。願いなんて要らないくらい、満ち足りた一週間だったのだ。
名残惜しく小指が離れて、彼は僅かに震える両手で鎌を握る。
やっぱり、最後に好きって言えばよかったかな、なんて。わたしに馬乗りになった彼の瞳に涙が滲むのを見て、思わず決心が揺らぐ。
硝子玉のようだと思っていた綺麗な瞳。涙を溢さぬよう懸命に堪えながら、それでも大きく鎌を振りかざす彼の姿に、心臓が止まりそうな程胸が締め付けられるのは仕方ないだろう。
「……雨、……」
「! あのね、夜……、わたし……っ」
彼の声で、初めて呼ばれた名前。
それだけで、もう止まってしまうというのに、今までにないくらい心臓が大きく跳ねる。
そして日付が変わるぎりぎりの、刃に貫かれる刹那。咄嗟に絞り出した雨音に紛れるくらいの小さな声が恐らく彼に届かなかったことを、少しばかり後悔した。
それでも、最期の瞬間に見たものがわたしの為に泣いてくれる好きな人の顔だなんて、わたしはこの雨の夜において、きっと世界一の幸せ者だ。
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