違う。やだ。違う。呪文のように繰り返したとき、一階に到着してエレベーターの扉が開いた。
「何してるんです?」
 冷静な声が投げ込まれる。松田は由香奈から離れて振り返る。藤堂の顔が見えて、由香奈は咳込みながらエレベーターの床に崩れた。松田は無言で藤堂の脇をすり抜けエレベーターホールを出ていく。

「大丈夫か?」
 藤堂は松田には構わず由香奈に向かって手を伸ばした。いつもの無表情が、こんなときにはありがたいものなのだな。思って由香奈は頷く。けれど足ががくがくする。

 藤堂は何も言わずに由香奈を支えて管理人室に連れていった。中に入るのは初めてだ。三帖程度の広さだが、物がないから狭さはあまり感じない。
 エントランス側の小窓に沿って備え付けのカウンターがあり、藤堂はそこにあるパイプ椅子の隣にもう一脚椅子を出して由香奈を座らせてくれた。
 隅の小さな冷蔵庫から出したペットボトルのお茶もくれる。由香奈は素直に受け取って一口お茶を飲んだ。

 少し落ち着いて目を上げると、この位置からも小窓越しに掲示板の端のポスターがよく見えた。斜め横からのこの角度からだと、女の人の表情が違って見える気がして、由香奈はじっと見入る。
「あいつから妻の話を聞いたのだろう?」
 隣に座った藤堂に突然話しかけられ、由香奈はゆっくり瞬きする。あいつ……春日井のことだろう。

「私の妻は、誰とでも遊ぶ女だった」
 藤堂が淡々と話し始めた言葉の意味が、すぐには呑み込めず、由香奈はまた瞬きする。とにかく黙って彼の話に聞き入った。
「奔放と言えばまだ聞こえはいいが。浅はかで享楽的で、その場限りのことしか考えず、そして甘い言葉に流されやすかった。私は、そんな妻をひたすら許して怒ったこともなかった。許して受け入れることが愛情だと思っていたから。それが間違いだったと思い知ったのは、妻が死んだときだ」

 薄い唇の端を少しだけ震わせ、藤堂は《忘れえぬ女》へと視線を向けた。