またあの目だ。ここではないどこか別の場所を見ている眼差し。由香奈は精一杯、彼の瞳を見上げる。薄い雲を映す双眸の端、そこで何を見ているのか知りたい。
由香奈が背伸びしているのに気づき、春日井は目線を下げて首を傾げた。
「どうしたの?」
「あ、あの……」
恥ずかしくて由香奈は頬を染める。でも頑張って彼を見つめたまま尋ねてみた。
「春日井さんは、何を見てるのかなって……」
きょとんと彼は由香奈を見つめ返す。しばらく見つめ合った後、由香奈の言わんとしていることを悟ってくれたのか、彼は微笑った。
「世界、かな」
「世界……」
「うん。俺が、こうなるといいなあって、思う世界」
「……」
由香奈は黙る。すると今度は春日井が恥ずかしそうに両の手で自分の顔を覆った。
「ああ、なんか恥ずかしいこと言った。忘れて」
彼の真っ赤になった耳を見ながら由香奈は静かに首を横に振った。春日井には見えていなかっただろうけど。
マンションに戻り、エントランスでなんとなく管理人室の方を窺ってみる。藤堂はいないようだった。
掲示板から、黒い帽子を被った女性が、変わらぬ憂いを帯びた眼差しを投げかけてくる。見下して嘲笑っているような、悲しんでいるような、憐れんでいるような。あの瞳には、誰が映っていたのだろう。
エレベーターで五階に上がる。扉が開く前から由香奈は警戒していた。体を固くしながら通路に向かう。脇の非常階段に恐々視線を流すと、風に吹かれて松田が立っていた。目が合う。彼の腕が上がる前に由香奈は口を開いた。
「私、決めたんです。もうやめようって。もう、セックスでお金を貰うようなことは」
声が尻すぼみになったけどなんとか言い切る。
「わかった。じゃあ、金は渡さないから」
あっさり片づけて松田はいつものように由香奈の手を掴もうとする。
「そういうことじゃなくて」
由香奈は泣きそうになりながら必死に春日井の眼差しを思い出す。彼と同じ世界が見たい。不純だけど、不純でも、好きな人が見ているものを知りたい。きっと、今のこんな自分ではダメな何か。だからもう、流されたくない。
「お願いだから、もう触らないで」
自分を守るようにその場に蹲り、背中を丸めて由香奈は訴える。
「由香奈……」
「もう嫌、嫌なの」
頭を抱えて顔を伏せる。絶対にここを動かない。
そうしてどれくらい、固まっていたのかはわからない。気配が遠ざかったことを感じても、由香奈はしばらく顔を上げずに動かずにいた。
初冬の夕暮れの冷気で手足がかじかむ頃、ようやく顔を上げる。目の前には誰もいない。
がくがくする膝を延ばして由香奈は自分の部屋へと入った。
由香奈が背伸びしているのに気づき、春日井は目線を下げて首を傾げた。
「どうしたの?」
「あ、あの……」
恥ずかしくて由香奈は頬を染める。でも頑張って彼を見つめたまま尋ねてみた。
「春日井さんは、何を見てるのかなって……」
きょとんと彼は由香奈を見つめ返す。しばらく見つめ合った後、由香奈の言わんとしていることを悟ってくれたのか、彼は微笑った。
「世界、かな」
「世界……」
「うん。俺が、こうなるといいなあって、思う世界」
「……」
由香奈は黙る。すると今度は春日井が恥ずかしそうに両の手で自分の顔を覆った。
「ああ、なんか恥ずかしいこと言った。忘れて」
彼の真っ赤になった耳を見ながら由香奈は静かに首を横に振った。春日井には見えていなかっただろうけど。
マンションに戻り、エントランスでなんとなく管理人室の方を窺ってみる。藤堂はいないようだった。
掲示板から、黒い帽子を被った女性が、変わらぬ憂いを帯びた眼差しを投げかけてくる。見下して嘲笑っているような、悲しんでいるような、憐れんでいるような。あの瞳には、誰が映っていたのだろう。
エレベーターで五階に上がる。扉が開く前から由香奈は警戒していた。体を固くしながら通路に向かう。脇の非常階段に恐々視線を流すと、風に吹かれて松田が立っていた。目が合う。彼の腕が上がる前に由香奈は口を開いた。
「私、決めたんです。もうやめようって。もう、セックスでお金を貰うようなことは」
声が尻すぼみになったけどなんとか言い切る。
「わかった。じゃあ、金は渡さないから」
あっさり片づけて松田はいつものように由香奈の手を掴もうとする。
「そういうことじゃなくて」
由香奈は泣きそうになりながら必死に春日井の眼差しを思い出す。彼と同じ世界が見たい。不純だけど、不純でも、好きな人が見ているものを知りたい。きっと、今のこんな自分ではダメな何か。だからもう、流されたくない。
「お願いだから、もう触らないで」
自分を守るようにその場に蹲り、背中を丸めて由香奈は訴える。
「由香奈……」
「もう嫌、嫌なの」
頭を抱えて顔を伏せる。絶対にここを動かない。
そうしてどれくらい、固まっていたのかはわからない。気配が遠ざかったことを感じても、由香奈はしばらく顔を上げずに動かずにいた。
初冬の夕暮れの冷気で手足がかじかむ頃、ようやく顔を上げる。目の前には誰もいない。
がくがくする膝を延ばして由香奈は自分の部屋へと入った。