「由香奈ちゃん」
 集合ポストの前に松田がいた。
「こんばんは」
 由香奈は俯いて挨拶する。一緒にエレベーターに乗り込むと、松田は言った。
「最近楽しそうだね」
「……」
 由香奈は目を丸くして顔を上げる。
「……そう、ですか?」
「うん」
 口元だけで笑って肯定する松田からすぐ目を逸らす。そうなのか、自分は楽しそうなのか。

 エレベーターが四階に着く。松田が由香奈の腕を引く。由香奈は心臓を跳ね上げながら喉を詰まらす。
 ――もう、やめるんでしょ?
 昨日、クレアに向かって頷いた。もうやめる。行かないって言わなくちゃ。
「私……」

 由香奈は手を上げて彼の手を振り払おうとする。閉じかける扉を肩で押さえて松田は由香奈を強引に引っ張り出す。力尽でこられると怖い。体が竦む。それでもどうにか足を踏ん張って抗う。けれど由香奈の軽い体はあっさり引きずられてしまう。

「限界なんだ。頼むよ」
 いつも口元でしか笑わない彼の頬が引きつる。由香奈は何も言えない。肩を抱かれほとんど持ち上げられるようにして通路へ押される。

 部屋に入ると松田は廊下にカバンを投げ出した。両腕を回して由香奈にしがみつくように押しやりながら、灯りも点けない部屋の中を進む。ドアが開いたままだった寝室になだれ込むと、そのままベッドの上に倒れ込んだ。

 横向きにぼすっと衝撃を受けて由香奈は舌を噛みそうになる。腕の中に閉じ込められたまま気配を窺う。だが、それから松田は動かなかった。腕枕するように由香奈の頭を抱き込んだままぴくりともしない。まさか、眠ってる?

 呆気にとられて頭を上げようとしたけど、がっちり押さえ込まれていて身動きできない。そのうち、すうすう寝息が聞こえてくると、由香奈は諦めて体の力を抜いた。
 二の腕にかかったままだったトートバッグの紐から手を離して床に下ろす。この人はスーツのまま眠ってしまっていいのだろうか、と思いもしたけど余計なお世話だろう。

 以前にも、こんなふうに由香奈を人形のようにあやして眠る人が何人かいた。大川さんもそうだった。由香奈が育つにつれ、胸を触られたり口と手で慰めることを要求されたけど。

 息苦しくて顔を逸らす。男の胸元が頬に当たると、とてもゆっくりな鼓動が耳についた。規則正しいその音を聞いていれば当然、次第に瞼が重くなる。由香奈だって寝不足だったのだ。意識する間もなく、由香奈も睡魔に呑み込まれた。