こんな気持ちになるなんて、思いもしなかった。愛とか恋とか、遠いもののように思ってた。自分はずっとひとりだから、汚れたっていいと思ってた。もう、汚れていたから。くちびるを噛んで俯く由香奈の頬を、いきなりクレアがつまんだ。
「……?」
 顔を上げた由香奈のもう片方の頬も、クレアは引っ張る。

「い、痛いよ……」
「痛いなら、泣け」
 クレアは無表情でぎゅうっと由香奈の頬をこねくり回す。
「由香奈は、しょっちゅう泣きそうな顔してるくせに泣かない」
「……」
「泣け、ほら。泣け」
「い、痛いって」
 マニキュアが乾くまで動けないからってこれはヒドイ。

「そんな、言われたって、急には」
 自分ではわからない。言われてみれば、泣いた記憶がないような気もする。
「あんたって、ほんとにさあ……」
 諦めたのか、クレアはようやく手を離してくれる。
「しょうがない子」
「ごめん……」
「あたしに謝ってどうする」

 仕上げのトップコートを塗りながらクレアはぷりぷりしていたけれど、ネイルの出来栄えに満足したのか、にこりと笑った。
「できた」
「可愛い……。ありがとう」
「どういたしまして。もっと固くなるまで擦ったりしないでよ」
「大丈夫かな」
 自信がない。

「由香奈さ……」
 マニキュアを片づけて毛布を持ち、クレアは改めて由香奈を見つめた。
「あたしいろいろ言っちゃったけど、別にあんたの好きにすればいいんだからね」
「うん……」
 自分の好きにできたことなんて、今まで数えるほどしかない。今、ひとりで暮らせていること、学校に通えていること、こうやって友だちができたこと。もうそれだけで十分だと思えた。

「クレアがいてくれれば、いいかな」
「はあ? あたしに殺し文句言ってどうする」
 ほんとにもう、とまた頬をつねられた。




「ぐっすりだよ。ほんとよく寝た」
 翌朝早々に日帰り温泉を後にし、通り沿いのコーヒーショップでモーニングセットを食べた。
「ほんと爆睡だったよな、おまえ」
 これだから悩みのないやつは、と色艶の良い春日井の隣でコーヒーを啜る中村は不機嫌そうだ。そんな男二人をクレアはじとっと観察している。その横で由香奈は静かにゆで卵の殻をむく。

「由香奈ちゃん、卵の殻むくの上手くない?」
 春日井が真顔で褒めてくれる。
「バイトでいつもやってるから」
「ちょっと。あんた爪!」
「あ……」
「ああ、もういいや。あたしのもむいて」
「オレのも」
「あ、じゃあこれも」

 ころんころんと、由香奈の前のトレイにゆで卵が転がる。
「はい……」
 彼女にとってたくさんの初めてを経験した小旅行は、いつもしている卵の殻むきで終わった。