かろうじて一時間に一本の路線バスが海岸線沿いの道路を走り始めると、細く空いた上部の窓から潮の香りが吹き込んできた。曇り空で湿度が高いから余計に臭いを強く感じる。雨の気配はまだないようだけど。

 由香奈の他の乗客たちは途中の海産物センターで降りてしまった。由香奈ひとりを乗せたバスは、曲がりくねったカーブを上って進み、峠をひとつ越えるとそこが父親の故郷だった。
 潮の香りに魚の臭いが混じる。漁師町の風だ。由香奈がここに来たのは数えるほどしかない。それでもこの風の臭いで思い出すことが様々あるのだから、嗅覚を伴う記憶は根強いのだなと感じる。

 小さな地蔵堂があるバス停で由香奈は降車した。誰も乗客がいなくなった路線バスは、それでも終点を目指して道路を進んで行く。停留所たった一つ分でも歩くのが辛い高齢者が途中途中で利用するのだろう。
 赤いよだれかけと帽子を身に着けたお地蔵さまは微笑んでいる。その足元には生花とお酒が供えられてある。それをなんとなく眺めてから、由香奈は御堂の脇から延びる海岸線への坂道を下りていった。

 心ばかりの防潮堤のほとんど際に二件の古びた民家が建っている。真下はもう砂利の海岸だ。津波や高潮が警戒される昨今、それ以前に潮風で木材などすぐに朽ちてしまうだろうこんな場所に暮らし続ける理由が、由香奈にはわからない。

 手前の一件から、割烹着を着た女性が顔を出した。
「来たね。そこで待ってな、墓へ行くから」
 声を張り上げてから土間の暗がりに消える。家の敷居は跨がせないというわけだ。由香奈はおとなしく坂道の半ばで叔母がやって来るのを待った。

 線香の束とたばこの箱を手にした叔母は無言で由香奈の先に立って歩き始める。
 道なき斜面を行くと、大きな松の傍らに十ほどの墓石が建つ墓地があった。いちばん奥に大きな墓石があり、その手前に並ぶ墓石のひとつに叔母はたばこの箱を置く。
「長くないって医者に聞いてからが長かったけど、夏を越えるのが精いっぱいだったみたいだ。最期はあっけなかったよ」