人間には、感情がある。嬉しい、怒り、悲しい、楽しい、所謂、『喜怒哀楽』というものだ。

皆、大なり小なり、占める割合は個体差があるだろうが、『喜怒哀楽』は皆が等しく持っているモノの一つではないだろうか。

ーーーーでも、私にはないモノが一つだけある。

「 花音(かのん)、お待たせ」

明るめの栗色の髪を、さらりも靡かせた矢野美咲(やのみさき)が、カフェのテーブルに座る、私の目の前に立った。

「ううん、さっき来たとこ」

私は、テーブルに、花柄のハンカチを置いてから、美咲と一緒に注文カウンターに並ぶ。

「アイスラテのトールで、あとチーズケーキ」
美咲の声は、少し鼻にかかっていて可愛い。

「お次の、お客様、ご注文をどうぞ」

前髪が、少し長めの茶髪の店員が、今度は、私をじっと見る。名札には、『古谷(ふるや)』と記載されている。

男の人が、向ける、自分の容姿への視線にももう慣れた。 

「アイス抹茶ラテのトールと、マフィンをお願いします」

先に会計を終えた美咲は、私がハンカチを置いたテーブルへと向かっていく。

やたら、遅い会計に、再び店員を見れば、
「綺麗ですね、今度会えませんか?」

差し出された、ナプキンに、『古谷 電話番号080-○○○△-△○○○』とかいてある。よく見れば、端正な顔だちをした古谷は、切長の瞳を、ニコリと細めた。そして、お釣りと一緒にナプキンを私に渡した。

「また?声かけられたの?」

席に座ると同時に、美咲が、面白くなさそうにアイスラテを、形の良い唇で吸い上げている。

「うん……」

「美人は得よねー、おまけに、花音は、性格に、『無駄』が、なさすぎんのよ、面白くなーい」

冗談なのか本気なのか、わからない口調で美咲が、チーズケーキを、頬張った。

「無駄……ないかな?」

美咲は、口をあんぐりと開けて、奥二重の瞳をきゅっと目を細めた。
「嫌味?どう見たってないじゃん。まず、その顔、十人いたら十人好きな顔じゃん。綺麗と可愛い両方の顔立ちっていうの?スタイルだって、良いし」
「スタイルなんて、美咲の方がずっといいよ」
「あのさ、アタシもスタイル良いのは認めるけど、アンタ程じゃないわけ!」
小さく、ごめんと呟いた私を睨みながら、美咲は捲し立てるように言葉を続けた。

「勉強は、うちの学部常連トップ、水泳は、高校の時に全国大会優勝、陸上部からの誘いも絶えないくらいの瞬足だったし、家はタワマン最上階、あの、羽田コーポレーションの社長令嬢でしょ」

美咲とは、また同じ高校で、偶然にも、同じ大学、同じ学部だった。その事もあり、私は美咲と話したり、出かけたりすることが多かった。

ただ私はいつも美咲を……。

「ほんと、その性格よねー。穢れがないというか、真っ白というかさ、この間も、隣の学部の恵子(けいこ)から、ワザと突き飛ばされて、酷い捻挫してたじゃん」

美咲は、口を窄めながら、アイスラテを飲み干した。

「そんなこともあったね、でもあれは、私も悪いから」 

俯いた私のに、美咲がため息をついた。

「全然悪くないでしょ?恵子の付き合ってた彼氏が、アンタをたまたま見かけて、一目惚れしちゃって別れただけじゃん。そーゆーの逆恨みって言うんだよっ」

語尾を強めると、美咲は、人差し指で私のおでこを弾いた。

「あとさ、うちの大学のミスキャンパスに選ばれた絵梨子(えりこ)からも嫌がされされてたじゃん。花音が、出てたら絶対に優勝間違い無しだったって、その事が地元新聞に掲載されちゃって、ミスキャンパスに選ばれた絵梨子の面子丸潰れだったもんね」

私は、俯きながら、アイス抹茶ラテをかき混ぜ、マフィンにフォークを差し入れた。

「……絵梨子ちゃん、私なんかよりスタイルもいいし、美人だし、何で、私なんかを気にするんだろう」

美咲は、再度、「だから嫌味だって」、と口を尖らせた。

「ねぇ、花音、本当に絵梨子に、腹が立たないの?いま所属してる、水泳サークルの花音のロッカーにゴキブリの死骸入れられたり、SNSで、男遊びばっかしてるとか、花音の加工したベッド写真ばら撒かれたり」

「男の人と、そういうことしたことあるの事実だし、ゴキブリも絵梨子ちゃんだっていう証拠ないしね……」

「でも、アタシ偶然見たけどね、水泳サークルでも何でもない絵梨子が部室から、挙動不審にでてくるの」

「そうなんだ」

美咲の瞳を見つめた私を見ながら、美咲の顔が少しずつ歪んでいく。 

「アンタの名前こそ公にしてないけど、絵梨子のやってること犯罪じゃん、SNSで拡散してんの絵梨子だって、いくら馬鹿なアンタでも、分かってるでしょ?アタシだったら絶対ゆるせない」

美咲は、私の表情をじっくり眺めながら、吐き捨てる様に言った。

「てゆうかさ、その笑顔、本当ムカつく!なんで、ずっと笑ってられんの?ムカつかない訳?恵子にも、絵梨子にも、アタシにも」

美咲が、何を言っているのか、私にはよく分からない。

ーーーーただ、私の心には何も響かない。だから、つい意味もなく笑ってしまうのだ。

美咲が心配してくれることが嬉しくて、友達の少ない私が、友達の多い美咲と一緒にカフェに行けることが、ワクワクして楽しくて、私が、怪我をしたり、嫌がらせされる度に、怒ってくれる美咲に嬉しくて、涙が出そうになってくる。

「心配してくれてありがとうね、美咲」

にこりと微笑むと美咲は、怖い顔をしながら、席を立ち、カフェから出て行った。

「はぁ……」

私は、また、美咲を不愉快にさせてしまったようだ。

私は他人から見たら、欲しがるモノ全てを持っているという自負がある。でも、嫉妬もやっかみも逆恨みも全く気にならない。

それはきっと、たった一つだけ、私には無いモノがあるから。どんなに経験してみたくても、欲しくても、手にできないもの。


ーーーーそれは『怒りの感情』

自分が、初めて『持ってない』ときづいたのは、高校の時だった。

同じ学校の様々な、学年の男の子達から、毎日の様に告白をされ、門の前には、他校の男子生徒が、私は目当てに群がる。

快く思わない、一部の女子達から、私はある日、トイレに閉じ込められて、暴言を吐かれた。数えきれないほどの暴言を吐かれたのに、戸惑っているのは彼女達の方だった。

「なんなの?」

彼女達は、私の顔が気に入らなかったらしく、さらにバケツで水をかけられた。

その時、何故だか私は可笑しくなってしまったのだ。

「な……何笑ってるの?」

主犯格の女が笑みを浮かべた私をみて、思わず後退りしていた。

ーーーー何故?そんな事、分からない。ただ可笑しくて堪らなかった。

そして、目の前の女は、私を睨みつけると、腕を振り上げる。

乾いた音と左頬に痛みが突き刺さる。

「これでも、まだ笑う?」

勝ち誇ったような女の顔がまた滑稽で、私は今度こそ、大きな声で笑っていた。

それ以来、嫌がらせは少しずつ減っていった。『怒』の感情がない私に、相手が最後は気味悪がって遠ざかっていくのだ。

私はきっと、『喜怒哀楽』の『喜』と『楽』の割合が多くて、『哀』は、感動や、深い悲しみ等にのみ表れるから、割合が他の人より少ないんだろう。だから、他人からの暴力や嫉妬に関して、哀しく感じることはない。

愛犬が亡くなった時は、心から哀しくて涙が止まらなかったし、あとは、感動する映画を見たり、本を読んだ時、涙が出るほど心が揺すぶられる。
あと、私にもささやかな悩みはある。それは交際が長く続かないこと。

実際、男の人からの誘いは絶えず、見た目と親のスペックで幾人かと交際した。でも、どの相手とも長続きはしなかった。

『お人形と付き合ってるみたい』 

お決まりの別れ台詞だった。


「お人形みたい……か」

いつも笑っているからだろう。
誰にも聞かれないはずの言葉は、すぐに拾われる。 

「お人形みたい?誰に言われたの?」

見上げれば、私服に着替えた、古谷が私を見下ろしていた。

「あ、あの……」 

「此処いい?」

思わず、頷いた私に微笑みながら、古谷が腰を下ろした。手に持っていた、ここのカフェの新作のピーチスムージーをテーブルに、コトンとおく。

「ええっと……いいんですか?仕事先でこんな……」

「あ、友達って言って、バイト上がってきたから大丈夫。僕のこと気にしてくれるなんて、優しいんだね」

「いえ、優しくなんかないです」

私は肩をすくめた。

「僕は古谷英太(ふるやえいた)。英太でいいよ。同じ大学の四回だよ。君を大学で見かけたことあってさ」

驚いた私を見ながら、英太が笑う。

「名前おしえてよ」

ピーチスムージーをストローから吸い込みながら、上目遣いで英太が私に訊ねた。

羽田花音(はねだかのん)です。大学3回です」

「花音か、いい名前」

「飲む?」

差し出されたピーチスムージーを一口もらう。

「美味しい」

「でしょ、おススメだよ」

子供みたいに口を開けて笑った英太は、さっきの店員とお客との関係の時よりも、ずっとフランクで、何故だか、誰にも言えない心の膜を勝手に剥ぎ取られるような、何とも言えない感覚があった。
「ねぇ、あのカフェ店員と最近付き合ってんの?」

哲学の授業を、広い教室の一番後ろで聞きながら、両瞼を腫らした美咲が、小声で私に聞いた。

「うん、この大学の四回生だって」

「でも友達から聞いたけど、、そのイケメンちょっと変わってるらしいよ?何?変な趣味とかあんの?」

私は、黒板に書かれたニーチェの『忘却は、よりよき前進を生む』という言葉についての仮説と解説をノートに書き留めながら、英太の事を考えた。

「変わってる……?」

カフェで出会ってから、水族館、ドライブ、とデートを重ねて3回目のデートで、泣けるラブストーリーの映画を観た後、イタリアンレストランで食事をした。その帰りに英太から告白された。

「すごく優しいし、特に気になることはないけど?」

「ふぅん、単なる、やっかみからの噂かな」

美咲が、切れたシャーペンの芯をカチカチとだしながら、面倒臭そうにニーチェの解説を雑な筆跡で写していく。

「ね、もう彼と、した?性癖やばいとか?」

唇を持ち上げて愉快そうに、美咲が私を覗き込んだ。

「それが……すごく優しくて涙出ちゃった」

「……あっそ、ほんとやること早すぎ。尻軽じゃん」

美咲が、語尾を強めて、吐き捨てた。

「ごめんね、また、美咲を不愉快に、させちゃって」

私は告白されたその帰り道、英太の一人暮らしのマンションに泊まり、彼に抱かれた。

英太は、何度も私の耳元で甘く囁きながら、それでいて、今まで交際した誰よりも丁寧で優しいセックスだった。

思わず、涙が溢れた私をみて、英太がひどく驚いたのが印象的だった。


「美咲、目大丈夫?」

美咲は、先週はずっと、大学を休んでいた。

「前からやりたかったんだよね、二重埋没手術」

急にご機嫌になった美咲に、私は心から安堵した。

「あと10日もしたら、綺麗な二重瞼が一生モノなんだ」

「素敵だね」

久しぶりに、美咲と目を合わして笑った。