「すごいね、そんな分厚い本読んで。面白いの?」

 頭上から聞こえてきた声に顔を上げると、薄ピンク色のカーディガンを羽織った綺麗な女の人が、僕の読んでいるシャーロック・ホームズ大全集を覗き込んでいた。

「あ……面白い、です」
「漢字も読めるの?」
「はい、大体は。読めないのは調べます」
「へぇ~偉いなぁ。歳いくつ?」
「七歳。小学二年生です。学校にはあんまり行けてないけど」

 言ってから、僕は自らの発言をしまった、と後悔した。今の言い方だとネガティブに取られてしまうかもしれない。僕は大人から向けられる「あらあら可哀想に」という同情の視線が苦手なのだ。だって、別に学校に行かなくても勉強は出来るし、同世代の友達は出来なくても大人の知り合いはたくさん出来るし、本だってたくさん読める。もちろん学校に行きたいっていう気持ちもあるけど、僕はここでの生活もそれなりに楽しんでるのだから、勝手に同情なんかしないでほしいといつも思ってる。

「ふーんそっか。うちにも三歳になる娘がいるんだけど、今から読ませれば君みたいに優秀になれるかしら?」

 しかし、彼女からは聞き飽きた早く良くなって学校に行ければいいね、なんていう同情めいたことは何も言われない。僕の読んでる本と娘さんのことにしか興味がないようで、なんだか拍子抜けというか、逆に新鮮だった。

「僕が優秀かはさておき……どうでしょうね。まだ三才ですし、読むならまずは絵本から始めてみては? 向こうに何冊かありますよ」
「そうね。今度来た時にでも見せてみるわ。それにしても君、随分大人っぽいのね。名前は?」

 僕は彼女の姿を観察する。患者図書室に来ていること、ドット柄のパジャマを着ていることから、おそらくこの病院の入院患者なのだろう。特に不審な点はない。これなら名乗っても問題はないだろう。

「僕は八神碧です」
「碧くんかぁ。私は佐藤(さとう)真希(まき)。同じ入院友達(にゅういんフレンド)としてこれからよろしくね」

 僕は入院友達ってなんだよと心の中で盛大に突っ込んだ。彼女は気にする様子もなくにこにこと楽しそうに笑っている。

 これが、僕と真希さんの出会いだった。





「碧くん! 今日うちの旦那がマカロン作ってきたんだけど一緒に食べない? 甘くてめちゃくちゃ美味しいよ!!」
「今日は何読んでるの? アガサクリスティー? 推理小説好きだねぇ」
「見てこれ。うちの娘! 可愛いでしょ?」

 僕と真希さんはあっという間に仲良くなった。体調が良ければ、お互いの病室に遊びに行くほどの間柄である。真希さんの家族がお見舞いに来る時はさすがに邪魔しちゃ悪いので僕は自分の病室に戻っていたけれど、何度か見かけたことのある旦那さんはとても優しそうな人だった。娘さんも、真希さんに似た可愛らしい子だ。

 真希さんは家族の話だったり本の話だったり、いつも色んな話をして僕を楽しませてくれた。僕はあまり喋る方じゃないので時々相槌を打つ程度の会話しかしていないが、その時間は毎日の楽しみになっていた。



 ──だから、真希さんが退院すると聞いた時は素直に喜べなかった。本来なら喜ぶべきことなのに。僕は子供だったのだ。



「碧くん」

 退院の日。たくさんの花束を抱え、いつものドット柄のパジャマとは違い綺麗なワンピースを着た真希さんが、僕の病室にわざわざ寄ってくれた。

「……退院おめでとうございます」

 僕がそう言うと「うん、ありがとう」と困ったような笑みを浮かべる。きっと僕の気持ちに配慮しているんだろう。今は真希さんの優しさがちょっとだけツライ。そう思っていると、真希さんが珍しく緊張したような顔で口を開いた。

「……ねぇ碧くん。私、退院しても時々ここに遊びに来ていいかな?」
「え?」
「お見舞いって形でこれからも時々話せない?」

 突然の提案に、僕は読んでいた本をうっかり閉じてしまった。栞、はさんでないのに。

「……真希さんはいいの? せっかく退院するのに。わざわざ病院に来るなんて面倒じゃない?」
「面倒なんかじゃないわよ! 退院は嬉しいけど、今までみたいに碧くんと話せなくなるのはさみしいもの!」
「……さみしい?」
「寂しいに決まってるじゃない! だって私たち友達でしょ?」

 正直に言うと、その言葉はとても嬉しかった。僕のことを友達と言ってくれて。対等に扱ってくれて。さみしいと言ってくれて。

「……僕も、話せなくなるのはちょっとさみしいから、その……真希さんさえ、よければ」

 僕の歯切れの悪い回答に、真希さんは安心したように笑った。