*
青紫色の美しいリンドウを中心に、黄色と白の小菊で作ってもらった花束。両端に対になって供えられた花が、秋のサラサラとした風に揺れる。
目を瞑って合掌すると、ふわりとお線香のにおいがした。
「やっぱりここに居た」
ハッと振り向くと、優しい笑みを浮かべた中年男性と目が合った。
「……暮真さん」
いつものエプロン姿ではなく、長袖のシャツにジーンズというラフな格好で現れたのは、行きつけの喫茶店の主人だった。
「いつもより顔色が悪いみたいだけど大丈夫かい? 八神くん」
「……ええ、なんとか」
暮真さんは〝佐藤家之墓〟と彫られた目の前の墓石を愛しそうに見つめる。そして、飾られたばかりの花に目を移すと柔らかな微笑みを浮かべた。
「昔から時々妻の墓に綺麗な花が生けてあったんだけど、やっぱり君が持ってきてくれてたんだね」
僕は何も答えない。
「君、昔よく病院で会ってただろ? 妻の小さなお友達だ」
暮真さんは僕の隣にしゃがんで目線を合わせる。
「大きくなったね、碧くん」
ふわりと笑ったその顔があまりにも優しくて、僕はぐっと胸を詰まらせた。
「いやぁ~、三年前君がうちに来た時は驚いたよ。運命ってやつなのかな。それとも最初からそういう計画だった? 君のことだから、きっとちゃんと調べてから来たんだろうねぇ」
暮真さんは楽しそうにクスクスと笑う。持って来た手作りのマカロンを供えると、静かに手を合わせた。
生まれた時から入退院をくり返していた病院で、僕は彼の奥さん──真希さんと友達になった。もう何十年も前の話だ。
院内にある患者図書室で本を読んでいる時に出会い、それからよく話しかけられるようになった。一緒に本を読んだり面会室で旦那さんが作って来てくれるお菓子を分けてもらったりしているうちに、だんだん仲良くなったのだ。
「ん」
暮真さんが、透明な袋でラッピングされたマカロンを僕に差し出す。
「お腹すいてない? 良かったらこれ、一緒に食べよう」
「……いいんですか?」
「もちろん。たくさん作ってきたしね」
「じゃあ、いただきます」
ピンク色のマカロンを手に取り、そのまま一口かじった。さくっと小気味良い音がして、しっとりとしたメレンゲ生地と甘いチョコレートクリームが口の中に広まる。甘党の真希さんのために砂糖を多く使っている暮真さんのマカロンは、とても懐かしい味がした。
「碧くんは、萌加のことどう思ってるの?」
暮真さんはマカロンを頬張りながら言った。
「…………素敵な女性だと、思いますよ。優しくて明るくて、笑顔のとびきり素敵な人です」
口の中のマカロンはすぐに溶けてなくなる。
「それで?」
「……頑張り屋で明るくて世話好きで。なんでも一人でこなしてしまう器量の良い人ですけど、本当は誰より寂しがり屋で。人に甘えられない不器用な人なんです」
「うん」
「でも、僕は知っています。彼女が家族のためにずっと努力してることも、笑顔の裏に隠してる涙も。そういう姿が健気で、何か力になってあげたいと思うんですよね。まぁ、実際は僕が世話になってるんですけど」
「ねぇ、碧くん」
暮真さんは真剣な顔で僕を見る。
「伝えたいことは伝えられるうちに言わないと後悔することになる。いなくなってからじゃ遅いんだよ」
ヒュ、と息を呑んだ。暮真さんの言葉は確実に急所を突いてくる。
「……だって、俺は妻に伝えたいことの半分も言えなかったから。こんな俺と一緒になってくれてありがとう。寂しい思いさせてごめんな。よく頑張ったな。愛してるよ。今だったら簡単に言えるのに。いくら心の中で思ってても言わなきゃ伝わらないんだよなぁ」
切なさが混じった溜息が聞こえた。
「言わなくても分かるだろなんてカッコつけてる暇があるなら、好きも愛してるもありがとうもごめんも、何度だって言ってやれば良かったんだ。寂しい、死ぬな、俺を置いて行かないでくれって、恥も外聞も捨ててその時の感情をぶつければ良かったんだ。俺は彼女がいなくなるという現実から逃げ続けてた。覚悟が足りなかったんだ。明日言おう明日言おうと思ってるうちに、とうとうその明日は来なくなった。俺は……最後に真希と向き合えなかったことを、ずっと後悔してる」
暮真さんの言葉が、僕の胸に重くのしかかる。
「俺はね、碧くんに同じような後悔をしてほしくないんだ」
「…………」
ふぅ、と息を吐き出した暮真さんは「好き勝手言って悪いね八神くん。そろそろ帰ろうか」といつものように言った。
僕は真希さんの笑顔を思い出す。旦那の手作りなんだと自慢気に言ってお菓子を頬張る笑顔。忙しいのに毎日お見舞いに来てくれるんだと嬉しそうに語った笑顔。あの人と結婚して本当に良かったと、幸せそうに浮かべた笑顔。
「……暮真さん」
「なんだい?」
これは僕の勝手な想像に過ぎないけど。真希さん、あなたの代わりに言わせてもらうよ。
「確かに自分の気持ちは言わなきゃ伝わらないと思います。でも、全部ではないけど……暮真さんの気持ち、真希さんにちゃんと伝わってたと思います。少なくともありがとうと愛してる、は。絶対に」
暮真さんの目が大きく見開かれた。
それから静かに俯くと右手を目元に当てる。香炉に置いていたお線香は、もう少しで燃え尽きそうだった。