龍神のつがい〜京都嵐山 現世の恋奇譚〜

「確かに、私にはまだつがいがどういうものかはわかりませんし、ピンと来ていません。だから、覚悟なんて決められません」

「そうでしょうね」

「でも……前に紅蘭さんに会ったときとは違って、今は聖さんのことをもっと知りたいと思ってます。聖さんともっと一緒にいたいって感じてます」


紅蘭を真っ直ぐ見つめる凜花に、彼女が意表を突かれたような顔をする。


「……あなた、少し変わったわね」

「え?」


きょとんとすると、紅蘭は「でもだめよ」と凜花を睨む。


「私は、凜の親友だったの。聖のつがいに選ばれたのがあの子だったからこそ、聖を諦めようと決めたわ。それなのに、千年も待っていた聖のつがいが人間ですって? 番う相手が人間であること自体は今までもあったけど、聖のつがいなら話は別よ」


さらには、憎しみに満ちた双眸を向けられた。


「天界では、聖が決めたことなら誰も逆らったりはしない。ましてや、つがいの話ならなおのこと。龍にとってつがいというのは、何者であっても当人たち以外の干渉を許さないものだからよ。でもね、これだけは覚えておいて」


彼女の表情がほんの一瞬和らぎ、次いで冷酷な笑みを湛えた。


「聖に愛されているのはあなたじゃない。あなたの中にある、凜の魂よ」


凜花の顔が強張る。


「あなたの中に凜の魂がある限り、聖はあなたじゃなく凜を愛し続けるわ」


心には紅蘭の言葉が深く突き刺さった。
聖がくれた言葉を、凜花は信じている。
あのときの彼の瞳は揺るぎなく真っ直ぐで、紡いでくれた想いはきっと嘘ではないと感じたからである。


その一方で、不安と疑問もあった。
自分の魂が凜のものなら、彼女の魂はこれからもずっと自分の中にあり続けるのだろうか――と。
その答えは、凜花にはわからない。


黙ったままの凜花を残し、紅蘭は凜花の傍を離れる。
すぐに桜火たちが駆け寄ってきたが、凜花はしばらくの間なにも言えなかった。

日が暮れた頃に屋敷に帰ってきた聖は、すでに紅蘭のことを聞いていたらしい。
凜花の様子がおかしいことに気づくと、早々に人払いをして凜花の部屋でふたりきりになり、彼女のことに触れた。


「すまなかった。屋敷から紅蘭の気配を感じていたんだが、どうしても戻ってこられなかったんだ……」

「ううん、聖さんが忙しいことはわかってるから」


凜花は、彼からの謝罪なんて望んでいなかった。
聖が紅蘭から守ってくれていたことは、昼間の彼女の言動から感じられた。
なにより、彼が悪いとは思えないからである。


「紅蘭になにか言われたんだな?」


きっと、ここで凜花が隠しても、桜火から報告が入るだろう。
庭では少し離れてもらっていたから会話は聞こえていないはずだが、そもそも紅蘭は桜火の前でつがいの件に触れていた。
そう思った凜花は、少し悩んだ末に素直に頷いてみせた。


「なにを言われた?」

「……聖さんみたいなすごい人のつがいになる覚悟があるのか……って。それから、聖さんが愛してるのは私じゃなくて、私の中にある凜さんの魂だって」


聖の表情が、苦々しげに歪む。


「紅蘭にはきつく言っておく。凜花はなにも気にしなくていい」

「紅蘭さんのことはいいの」

「どうして?」


凜花は口を噤む。
上手く説明できないのもあったが、紅蘭は彼を想っている。その上、凜の親友だったと言っていた。
紅蘭にしてみれば、いくら自分が聖のつがいとはいえ、不満を抱いて当然だろう。


「それは言えない……。でも、ひとつ訊きたいことがあるの」

「訊きたいこと?」

「私は、凜さんが見ていた光景を夢で見たのは一回だし、聖さんたちといるとたまに懐かしいような感覚を持つこともあるけど、やっぱり自分の中に凜さんの魂があるとは思えないの」

「ああ……」

「でも、凜さんの魂は私の中にあるんだよね?」

「そうだな」

「じゃあ、この先ずっと、凜さんの魂は私の中にあり続けるの?」


彼は寂しげに微笑み、凜花の手をそっと握った。


「確かに、凜花の魂の中には凜の魂がある。だが今は、凜花と最初に会ったときよりも、凜花の中にある凜の魂の力は弱まっている」

「え?」


聖の瞳が悲しそうで、凜花は動揺してしまう。
けれど、彼は過去を慈しむように瞳を緩め、優しい笑みを浮かべた。


「これでいいんだ」

「でも……」

「俺はずっと、つがいを待っていた。その中で、凜の魂を求めていたのも凜花が凜の生まれ変わりなのも、最初から話している通り事実だ」


聖の声は落ち着いていたが、力強くもあった。


「それでも、いつかこうなることはわかっていた。恐らく、凜の魂が凜花の魂とひとつになろうとしているんだ」


もしかしたら、とっくに覚悟を決めていたのかもしれない。
そう感じるくらいには、彼の表情は穏やかだった。
あまりにも柔和な笑顔を前に、凜花の方が寂しくなってしまいそうなほどである。


「そんな顔をするな。俺はこれでよかったと思っているんだ。なぜなら、凜花は凜ではなく凜花だからだ」


胸の奥が締めつけられた気がするのは、凜花の中にある凜の魂のせいだろうか。
わからなかったが、なんだか心が苦しかった。
それなのに、聖が自分自身を見てくれていることが嬉しいのも、また事実だった。


凜の魂の行方はやっぱり気になる。
反面、凜花は痛みを感じる心で、彼の言葉を素直に受け止めていた。

凜花が天界に来てから、もう随分と経った。


いい加減に曜日の感覚はなくなっていたが、夏だった季節はゆっくりと秋から冬に移り変わり、赤く色づいていた庭の木々は寂しげになっている。
曜日の概念がない天界にも四季はあるらしい。
下界では四季がある国はそう多くないと聞いたことがあったが、天界でも季節を楽しめるのは嬉しかった。


蘭丸と菊丸いわく、秋はおいしい食べ物が多いのだとか。言われてみれば、夏よりもずっと野菜や果物の種類が豊富だった。
冬が深まれば雪が降り、春には夏よりももっと多くの花が咲くとも聞いている。
天界に来て三つ目の季節に入った今、凜花は季節の移ろいを楽しみにしていた。


「姫様、そろそろなにか料理を覚えてみますか?」


いつものように野菜の皮を剥いていると、少し大きくなったお腹を抱えた風子がにっこりと微笑んだ。


「いいんですか?」

「はい。包丁もすっかり上手く使いこなせるようになりましたし、ぴぃらぁがたくさん手に入ったおかげで下拵えに人数を割かなくてよくなりそうですから」

「あ、でも……それなら、私よりも他の人たちの方が……」

「そんなことはお気になさらなくていいのです。本来、姫様が調理場に入ることすら異例ですし、それも下拵えの要因としてずっとこき使っているのですもの。そろそろ聖様に叱られてしまうかもしれませんから」


彼女の表情と口調は、冗談めかしている。
凜花は気安い雰囲気が嬉しくて、ついクスッと笑った。


「それに、姫様はお料理を覚えたいのではありませんか?」

「え?」

「調味料や料理にとてもご興味をお持ちですし、もしかしたら聖様に作って差し上げたいのではないかと思っていたのですが」


確かに、調理場に入れてもらうようになって、そんな風に考えたこともあった。
しかし、図々しい考えだと思い、一度も口にしたことはなかった。


「ふふっ、当たりですね。聖様はきっとお喜びになられます」


風子の柔和な笑顔に、凜花は気恥ずかしさを感じながらも小さく頷く。


「まだ難しいと思いますけど……いつかそれができたらいいなって思ってます」

「きっと、すぐにできます。姫様は筋がよろしいですし、料理にもとてもご興味をお持ちですから。もしよろしければ、私の休憩時間にでもお教えしましょうか?」


いいんですか?と言いそうになったが、凜花は慌ててグッと飲み込む。
毎日パワフルに働く彼女を見ていると忘れてしまうが、妊娠中である。
妊娠していなくても遠慮するべきだが、いくらなんでも妊婦である風子から休憩時間を奪うわけにはいかない。


「いえ、さすがにそれは……」

「そうですか? ですが、気が変わりましたらいつでもおっしゃってください」

「ありがとうございます。……あっ、あとでひとつお訊きしてもいいですか?」

「ええ、もちろん。どんなことでもお答えいたします」

「じゃあ、えっと……仕事が終わったら少しだけ時間をください」


頷いた彼女は、煮込み料理を担当している料理係のところへ凜花を連れて行った。

二時間後。


「今日から煮込み料理の担当になったそうだな」


聖と向かい合う凜花は、聖がもうその件を知っていたことにたじろいだ。


「さっき、風子から聞いた。凜花が作ったのはどれだ?」

「私はまだ作ってないよ……! 作り方を教わりながら見てただけで……鍋に芋を入れたり、塩を振ったりしただけだし」

「それでも構わない。ほら、どの料理を作ったのか教えてくれ」


今夜は、特に煮込み料理が多い。
四種類あるそれらを見た彼に促され、凜花はおずおずと黒い皿を指差した。


「ああ、黄蕪(きかぶ)の煮つけか」


聖は微笑むと、真っ先にその皿に箸をつけて料理を口に運んだ。


「うまいな。塩加減がちょうどいい。凜花は料理の筋がよさそうだ」

「そんな……」


凜花は身を小さくしてしまう。
ほとんどなにもしていないのに褒められると、なんだか気まずくてむずがゆい。
しかし、彼の顔はとても満足そうだった。


「凜花も冷めないうちに食べた方がいい」


いたたまれない気持ちになりつつも小さく頷き、黄蕪の煮つけを一口食べた。


黄蕪とは、名前通り蕪に似ている。見た目はトウモロコシのように黄色く、味や食感はかぼちゃに近い。ちょうど今が旬らしい。
今日の煮つけは甘辛い味付けで、肉じゃがに似ている。よく煮込まれた黄蕪はホクホクしていて、口の中でとろけていくようだった。


食後は凜花の部屋に移動し、聖とふたりきりで過ごす。
わずか一時間ほどのことだが、忙しい彼が時間を作ってくれるだけで嬉しかった。


このときばかりは、部屋には他に誰もいない。
それもあってか、最初こそ聖とふたりきりで過ごせることに喜んでいたが、最近では緊張感を覚えるようになった。
彼と他愛のない会話を交わせることは嬉しい。
それなのに、聖とほんの少し手が触れただけで鼓動が大きく高鳴る。
笑顔を向けられると、胸の奥がギュッと苦しくなる。


これまでに感じたことがないそんな感覚に包まれるようになって、凜花は内心では戸惑っていた。
けれど、なんとなく桜火には相談できず、蘭丸たちにも言えない。


「凜花? ぼんやりしてどうした?」

「え? う、ううん……」


不意に、顔を近づけてきた彼が、額同士をこつんとくっつけてきた。
今までで一番の至近距離。
驚きすぎて変な声が漏れそうになった凜花の心臓が、外へと飛び出すかと思った。

「熱はなさそうだな? だが、少し顔が赤い。医者を呼ぶか?」

「大丈夫……! 別になんともないから!」

「本当か? 凜花は俺の大事なつがいだ。なにかあってからでは遅――」

「本当に大丈夫だよ!」


信じ切れない様子の聖なら、今すぐにでも医者を呼びそうである。


「姫様、風子です」



困惑と緊張と驚きでいっぱいの凜花に救いの手を差し伸べたのは、ふすま越しに聞こえてきた風子の声だった。
さきほどの約束通り、彼女は凜花の話を聞くために来てくれたのだろう。
それはありがたいが、なによりもこの状況から抜け出せることに感謝した。


「風子? こんな時間にどんな用件だ?」

「えっと、私がお話したいことがあってお願いしてたんです! 中に入ってもらってもいいですか?」

「……まぁ、風子ならいいか」


凜花はお礼を言い、急いでふすまを開ける。


「姫様、遅くなって申し訳ございません。……あら、聖様もいらっしゃったのですね。お取込み中でしたか?」

「い、いえ、全然!」


彼は少しばかり不服そうだったが、凜花は必死に明るく振る舞う。


「聖さん、今から風子さんとふたりきりでお話したいので、今夜はもうお部屋に戻ってくれる?」

「は……?」


それは、聖にとってあまりにも想定外だったのだろう。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔の彼は、凜花を見たまま言葉を失った。


「あっ……ダメ……でしょうか?」


空気を読んだ凜花が眉を下げる。風子は笑いをこらえているようだった。


「……俺に聞かれたくない話なのか?」

「それは、えっと……」

「聖様、野暮ですよ。女には色々あるのです」

「色々……」

「ええ。男子禁制のあれこれや、女ならでは悩み……。夫の悪口を言うのも、女同士の方がよく盛り上がりますわ」

「凜花は俺に不満があるのか?」


冗談めかした彼女の言葉に、聖がわずかに不安を覗かせた。
凜花は全力で首を横に振り、必死に否定する。


「そうじゃなくて……。でも、女性に相談したいというか……」

「……わかった」


彼は渋々納得した様子を見せたが、そのあとで凜花の頭を撫でた。


「だが、明日の夜は今夜の分も一緒に過ごそう。それならいいか?」


凜花が笑みを浮かべて頷くと、聖は「あまり遅くならないように」とだけ言い残して部屋から出ていった。
その背中がどこか寂しそうに見えたのは、気のせいだっただろうか。

「姫様のお話って、聖様のことですよね」


ふすまを閉めてふたりきりになると、風子が早々に核心に触れてきた。


「ちょっ……! 外に聞こえちゃいます……!」

「大丈夫ですよ。それより、どうかなさいましたか?」

「あの……笑わないで聞いていただけますか?」


頷いた彼女から少しだけ視線を下げ、凜花は意を決して本題を切り出した。


「一緒にいると胸が苦しくなったり、手が触れるだけで心臓が走ったときみたいにドキドキしたり……。こういうの、変ですよね?」


風子がきょとんとした表情になり、瞬きを繰り返す。
程なくして、彼女がおかしそうに「ふふっ」と頬を綻ばせた。


「わ、笑わないでって言ったのに……」

「申し訳ございません。ですが、姫様があまりにもお可愛らしくて」

「どこがですか? 私、ずっと変なのに……」

「変じゃありませんよ。好きな人といれば、誰だってそんな風になりますもの」

「えっ……?」

「姫様の場合、つがいの自覚というよりも、恋心を自覚なさったのでしょうね。龍と人間は違うと聞いていますから、姫様にはこれが自然なんじゃないでしょうか?」

「えっと……これは恋……?」

「ええ、きっと。姫様は聖様に恋をしておられるのですよ」


はっきりと指摘されて、凜花の頬がかあっと熱くなる。


確かに、少し前から聖に対する気持ちは変わり始めていた。
しかし、これが恋だというところにはまったく結びついていなかった。
恐らく、〝つがい〟という言葉ばかりに捕らわれていたせいだろう。


「聖様にはお気持ちをお伝えにならないのですか?」

「えっ……! い、いや……まだそこまでは……。実感もないですし……」

「うーん……龍同士ならつがいに出会えば一目でわかりますし、つがいと一緒にいることで姫様が感じられたような感覚も抱くのですが……。人間だとつがいかどうかはわからないので、自分の心だけが頼りになるのかもしれませんね」


戸惑うように話す風子は、いつもの様子とは違う。龍と人間では、そもそも感覚からして違うのだろうか。


「龍は、魂でつがいがわかるんですよね?」

「ええ、そうです。魂でわかるというよりも、魂が共鳴し合うのがわかるのです」

「……それはどう違うんですか?」

「言葉では説明できないというか……。でも、聖様がおっしゃるのですから、姫様が聖様のつがいであることは間違いありません。それであれば、必ず姫様にもわかるときが来ます」


彼女の言葉は、凜花にはにわかには信じられないものだった。


「ですから、焦らなくて大丈夫だと思いますよ」


けれど、向けられている眼差しが優しく真っ直ぐで、嘘だとも思えなかった。


「それから、聖様に今のお気持ちをお伝えなさったらいかがですか? 聖様はとてもお喜びになられるはずですから」


その提案には頷けなかったが、拒絶する気も芽生えなかった。
凜花がお礼を言うと、風子は優しい笑顔で首を横に振っていた。

「眠れない……」


凜花は、ため息交じりに呟いた。
聖のことばかり考えているうちに、とうとう空が明るみ始めてしまったのだ。
風子の言葉によって自分の気持ちを自覚したのは、まだ数時間前のこと。
なんとなくそうかもしれない……程度だった感覚が実感となった今、彼のことが頭から離れなくなっていた。


(つがいじゃなくても……私は聖さんのことを好きになったのかな? つがいだから恋したわけじゃなくて、聖さんだから恋をしたって思うのはおかしい?)


彼女は『好きな人といれば、誰だってそんな風になりますもの』と言った。
しかし、凜花にはまだよくわからなかった。


凜花は恋をした経験がない。
多くの人が幼い頃に経験するであろう淡い初恋も、学生時代の青春に溢れた恋も、凜花は一度もなかった。


両親が亡くなる前のことはよく思い出せないが、その後はずっと孤独を抱えて生きてきたし、いじめに遭っていたのも大きな要因だろう。
友人すらいなかったのだ。恋愛なんて、もっと遠い出来事のようだった。


それが今や、凜花も恋情というものを知ったのだ。
初めての感覚に戸惑うのも無理はない。
幼い頃から経験したことがない感情に心を包まれて平常心を保てる人間なんて、そう多くはいないだろう。


(好きってこんな感覚だったんだ……)


甘くて、くすぐったくて、けれど少しだけ心が疼くようで。ときには胸の奥がきゅうっと苦しくなって、それでも笑顔を見られるとドキドキして……。
そんな風に忙しなく変わっていく感覚が恋だったのだ……と知り、気恥ずかしいやらいたたまれないやらで、昨夜から布団を被っては何度も悶えている。


「こんなの、聖さんに言えないよ……」


風子の言う通り、聖は凜花が気持ちを伝えれば喜んでくれるのかもしれない。
ただ、彼の前で言えるとは到底思えない。


心の中で想うだけでこんなにも恥ずかしいのだ。
本人を前にして伝えるなんて、羞恥の極みである。
もしかしたら、あまりの恥ずかしさで倒れるかもしれない。


またもや布団の中でじたばたと悶え、心拍が上がり始めた頃。

――凜花。

誰かに呼ばれたような気がした。

「え?」


恐る恐る布団から顔を出してみるが、室内には誰もいない。
蘭丸と菊丸は起床の時間にならないと起こしに来ないし、桜火は凜花の部屋とふすまで繋がっている隣室にいるはずだ。


――凜花。


凜花が半身を起こすと、また同じ声に呼ばれた。
聞き覚えがないと思ったが、聞いたことがある……と感じる。
なぜかはわからないのに、どうしても行かなければいけない気がした。


しかし、凜花は勝手に動き回ることを許されていない。
それが凜花のためであることは重々わかっていたし、最近は聖が定期的に連れ出してくれていたため、特に不満もなかった。


(桜火さんを起こすべきだよね……? でも、気のせいかもしれないし……)


隣の部屋には彼女がいて、廊下には見張りがふたりいる。
仮に声をかけても桜火は怒らないとわかっているが、勘違いだった場合は申し訳ないし、なによりもこんなことで大ごとになっても困る。


(屋敷の外に出なければいいよね?)


凜花は静かに布団から抜け出すと、できるだけ音を立てないように庭へと続く引き戸を開け、そっと足を下ろした。


――行ってはダメ……!


頭の奥で微かに誰かの叫びが聞こえた気がするのに……。

――凜花。

愛おしそうに切なそうに呼ぶ声に、どうしてか引き寄せられてしまう。


凜花は息を潜めるようにして足を踏み出し、声がする方へと歩いていく。
門の傍に着くと、臣下がふたり立っていた。


「姫様、こんな時間にどうなさったのですか!?」


屋敷の門には、外側と内側に見張りがふたりずついる。
声に夢中になるあまり失念していた凜花は、ふたりのギョッとしたような顔を見ながら咄嗟に言い訳を探した。


「えっと……眠れなくて……」

「早急にお戻りくださいませ」

「風に当たりたいのでしたら、桜火様とご一緒に」

「すみません……」


申し訳なさそうにしつつも苦言を呈したふたりは、困り顔をしている。


「ひとまずお部屋にお戻りくださいませ。私が付き添います」


見張りのひとりに促されて小さく頷いた直後。

――凜花。

「ぐあっ……!」

ひと際はっきりとした声が耳に届き、それとともにうめくような声が聞こえた。