龍神のつがい〜京都嵐山 現世の恋奇譚〜

「それはこっちのセリフです! なんでこんなことできるんですか……! 私がなによりも大切にしてた写真だって知ってて、こんな……っ」

「あんたが悪いんでしょ! 人の彼氏を取っておいて、平然としてさ!」

「知りません……! 何度も言ってますが、私は大谷さんの彼氏なんて……」

「はぁ? 彼氏が『凜花ちゃんを好きになったから別れたい』って言ったのよ! よりにもよって、なんであんたなの? 友達も家族もいない、地味でみすぼらしいあんたみたいな女に、どうして私が……!」


激高する茗子を止めるように、ノック音が響く。


「なにかあった? 着替えてる子はいない? 開けるよ?」

「茗子、やばいって!」


所長の声が聞こえてくると、彼女の取り巻きふたりが焦り出す。
茗子だけは落ち着き払っていた。


「……おい、なにかあった? すごい音がしたけど……」


程なくしてドアが開き、所長が控えめに顔を覗かせる。
直後、ギョッとしたような表情になった。


「なんでもないでーす。ちょっとぶつかっちゃって」


凜花の髪はグチャグチャで、制服も乱れている。
いつも外見を綺麗に整えている茗子も、明らかになにかがあったとわかる井出立ちだった。


「そうか。仕事が終わったなら早く帰りなさい」


にもかかわらず、所長はそれだけしか言わず、彼女に意味深な視線を向けてからドアを閉めた。


「……あんたの味方になってくれるとでも思った?」


茗子が嘲笑うと、取り巻きのふたりも安堵したように笑い出す。
自分の味方なんていない。
そうわかっていたが、凜花は悔しさで顔を歪ませる。心の中は憎悪でいっぱいだった。


けれど、三対一では勝ち目はなく、この現場を見た所長もやっぱり頼れない。
悔しさを押し込めてバッグの中身を拾い、制服を脱ぎ捨てるようにして着替える。
その間にまたなにかされるかと思ったが、三人は凜花の様子を見ているだけだった。

悔しさとやるせなさで胸がいっぱいで、涙が止まらない。
職場を飛び出してすぐに自転車を忘れてきたことに気づいたが、取りに戻る気力もなかった。


行く場所なんてない。頼れる人もいない。家に帰ってもひとり。
冷たく厳しい現実が、凜花をさらに追い詰める。
帰宅してすぐ、枕元に置いてある両親の写真を手に取った。


「私……どうしてひとりぼっちなの……」


呟いた声とともに涙が零れ、ちっとも止まらない。
もう生きていくのも嫌で、いっそのこと両親と同じ場所に行きたい……と思う。
そんなことを考えてはいけないと思っても、心が悲鳴を上げていた。
その後押しをしたのは、ふと顔を上げたときに視界に入ったカレンダーだった。


「……そっか。私、明日が誕生日だ……」


祝ってくれる人も、一緒にいてくれる人もいない。
自分自身ですら、おめでたいと思えない。


行くあてもないのに家にいたくなくて、着の身着のまま貴重品が入ったバッグと二枚の写真を手に、なんとなく駅に向かった。
そのまま改札を抜けて、最初にやってきた電車に乗った。
涙を流す凜花を乗客たちは一瞬驚いたように見るが、すぐに興味がなさそうに視線を逸らす。
帰宅ラッシュには少し早い時間だったため、座席はちらほら空いていた。


適当に腰を下ろし、皺塗れの写真を優しく丁寧に伸ばしていく。けれど、もう元に戻らないことはわかっていた。
こんなことになるのなら、ラミネート加工でもしておけばよかった。
失敗するのが怖くてずっとできず、普段は大切に手帳に挟んでいたが、上手くいかなくても皺塗れになるよりはずっとよかったかもしれない。
そんな後悔が押し寄せてくる。


「あら……その写真、京都(きょうと)嵐山(あらしやま)ね?」


呆然としていた凜花の耳に、不意に柔らかい声が届いた。
右隣を見れば、優しそうな老齢の女性が写真を見て瞳を緩めている。


「ああ、間違いないわ。きっと(りゅう)神社(じんじゃ)の池ね」


女性と目が合うと、彼女はさらに優しい笑顔になった。

「二十年以上前に夫と行ったのよ。今はもうなくなったみたいだけど、懐かしいわ」

「ここ、嵐山なんですか……?」

「ええ。この池とご神木が綺麗に収まるここは撮影スポットで、私も夫と撮ったの。それにほら、ご神木の傍にある看板に『龍神』って書いてあるでしょ?」


この写真では辛うじて文字が判別できる程度だが、凜花もそれには気づいていた。
ただ、肝心の場所はわからなかった。
写真の裏には日付が書いてあるが、場所までは記されていなかったからである。


「ここ、どうすれば行けますか……?」

「え? えっと……嵐山駅から歩いて三十分くらいだったかしら? 確か山奥で、とても不便なところでね……。でも、もうなくなったはずよ?」

「……いいんです」


なくなったのは、きっと事実なのだろう。
けれど、〝最後に〟見ておきたかった。


凜花はできる限り詳細を聞いてからお礼を言うと、着いたばかりの駅で降り、構内のATMでなけなしの全財産を下ろして静岡駅に向かった。
新幹線の切符を調達し、京都駅に向かう。その間にスマホで調べてみると、京都駅に着く頃には終電が出てしまうようだった。


誰が見てもボロボロの格好だったが、もうなにもかもがどうでもよかった。
ただ、最後に両親と行ったであろう場所に行きたかった。
凜花と両親を繋ぐものは、もうなにも残っていないからこそ、唯一の思い出を見に行きたかった。
そしたらきっと、もう思い残すことはない。


車窓から見える景色は、藍色に染まった空と街の灯り。民家や街から離れると光もあまりなく、まるで今の凜花の心の中のようだった。


(なんだか疲れたな……)


生まれて初めて、人に暴力をふるった。こらえられないほどの怒りを感じた。
慣れない行動と感情は、凜花をひどく疲弊させた。
泣き疲れたせいもあり、一気に疲労感に包まれる。
ゆっくり、ゆっくりと瞼が落ちていった。


『おいで、凜花』


夢か現か、凜花の名前を優しく呼ぶ声が聞こえた気がした。

京都駅前のマンガ喫茶で一晩を明かし、嵐山に着いたのは翌朝の七時頃だった。
一部の店は開いていたが、さすがに人通りはあまりなく、観光地とは思えないほど静かだった。
土産物店なども閉まっているため、観光客は宿泊施設にいるのだろう。
電車で出会った女性の話を手掛かりに、山の方へと向かう。


渡月橋(とげつきょう)を渡り、狭い道を進んでいくと、店や民家はどんどん減っていき、ついには山道に入った。
ひとりで歩くにはあまりにも心許ない。
けれど、今の凜花にとっては怖いものなんてなかった。
しいて言うのなら、生きている人間ほど怖いものはない……というところだろう。


生きることに疲れ、なにもかもに絶望してしまった。
頼れる人も味方もいなければ、あの小さなアパート以外には居場所もない。
大きな孤独感に包まれた心では、恐怖心などちっとも芽生えてこなかったのだ。
ときおり木の枝を踏んだり葉が揺れたりすれば、その音に体はびくりと跳ねた。ただ、それは恐怖というよりも反射に近く、踵を返す理由にはならなかった。


(あとどのくらいだろう……。でも、なくなった場所なら、もしその場所を見つけてもわからないかもしれないんだよね……)


嵐山には、野生の猿やイノシシがいると注意書きがあった。山の中であれば、当然ヘビや虫と出くわすこともあるだろう。
それ自体は怖かったが、どうしても足は止まらなかった。
あの女性の話では、『嵐山モンキーパークいわたやま』に行く道ではなく、その手前にある小さなけもの道を通るのだとか。
当時はきちんと看板が立っていたようだが、それらしきものは見当たらない。


モンキーパークの入り口が見え、今歩いてきた道を戻る。
注意深く周囲を見ても例の道が見つからず、左右にあるのは山肌ばかりで、一時間もすれば途方に暮れた。
もう一度来た道を戻る。そのさなか、道とは言えないが歩けなくはなさそうな隙間を見つけ、凜花は足を止めた。


なんとか入れるだろうが、普通に歩くのが難しいのは一目瞭然。そんな隙間を前に、しばらく立ち止まる。
危険そうなのは明白だったものの、このあたりを歩いてもう一時間になる。
悩んだ末、一か八かで足を踏み出した。

「……ッ」


整備されていないな山道は、山に慣れていない人間には想像以上に厳しかった。
朝露のせいか足場が悪く、傾斜ばかりの地面はよく滑る。木の枝や葉がさらに歩きづらさを増長し、まるで山そのものに拒まれているようだった。


何度も滑って膝をつき、履いているデニムはドロドロ。Tシャツから出ている腕には木の枝で作った傷が増えていき、顔にも小さな傷ができていた。
それでも、凜花は諦めようとは思わなかった。


自分にはもうなにもない……という絶望感を纏った気持ちが、凜花の背中を押していたのかもしれない。
息を切らして進む道は、どんどん苛烈になっていく。
どこに行くのが正しいのか、そもそもここを進めば目的地にたどりつけるのか。
なにもわからないまま進むのはつらかったが、これまでに味わってきた苦痛に比べればどうということはない。


「どこ……? どこに行けばいいの……?」


汗に塗れた額を腕で拭い、肩で息をする。
傍にあった大きな木に体を預けて、呼吸を整えようとしたとき。

「ッ……!?」

足が取られてバランスを崩し、凜花は来た道とは垂直の方向に滑り落ちていった。


「きゃあぁっ……!」


整備されていない山の中、凜花の体は瞬く間に転がっていく。ときには木や茂みにぶつかり、体に傷を作っても勢いは止まらない。
腕で顔を庇うようにするだけで精一杯で、防御もできない。いくつもの痛みを感じたあと、気づけば大きな木に囲まれた場所にいた。


「……生きてる? っ……」


なんとか上半身を起こすが、立とうとした足に激痛が走って顔が歪む。どうやら足首を挫いたようだった。
視界に入る限り腕も傷だらけだが、どうやら骨は折れていない。
安心したのも束の間、人っ子ひとりいない場所で身動きが取れなくなったことを理解し、一瞬遅れて嘲笑交じりのため息が漏れた。

「これからどうするの……」


正直、両親との思い出の場所に着いたあとのことは考えていなかった。
目的さえ果たせば、もう人生の幕を下ろそう……と決めていただけ。場所も方法も考えず、ただ女性が話していた神社へ行くことだけが望みだった。
ところが、目的地に着くどころか場所もわからず、動けなくなる始末。
小さなリュックは背負っていたが、手に持っていたスマホはどこかで落としたようだった。これでは助けも呼べない。


「そっか……。助けなんて呼ばなくてもいいんだ」


誰に言うでもなかった言葉が風にさらわれていく。
死ぬ気でいるのなら、このままここにいれば餓死でもするだろう。
何日耐えればいいのかわからないが、脱水症状だって起こる。
もしかしたら、その前に毒蛇やイノシシに襲われるかもしれない。
思考が纏まらないことに、力のない笑みが漏れる。


どうすることもできない中、おもむろに周囲を見回す。ある一点で目を留めた凜花は、二重瞼の目を大きく見開いた。


「ここ……もしかして……」


リュックから手帳を出し、グチャグチャの写真を確認する。
それを持ち上げて目の前の光景と照らし合わせるように何度も見ると、凜花の視界がそっと歪んでいった。


「龍神社……だよね?」


注連縄(しめなわ)紙垂(しで)を纏う、大きな木。ボロボロの看板らしき板のようなもの。綺麗だとは言いがたいそのふたつの傍に、池があった。
凜花のいる場所からでは水底までは見えないが、どうやら水は澄んでいるようだ。
池以外は写真とは随分と違ったが、同じ場所だというのはなんとかわかった。
神社らしきものは見当たらないものの、女性の話の通りならこの近くにお社もあったはず。


怪我の功名と言うには被害が大きいかもしれない。
けれど、どうにか目的地に着いたことだけでも心が救われた気がした。
疲れ果てていた凜花の唇から、ホッと息が漏れる。


「お父さん、お母さん……私……」


そこで意識が途絶えた――。

「――か。……凜花?」


優しい声が凜花の鼓膜をくすぐる。
いつのことだったか思い出せないが、この声には覚えがある気がする。
きっと、いつも聞いていた。
優しく乞うように名前を呼ぶ、誰かの声。


「凜花」


ハッと凜花の瞼が開く。
直後、凜花の視界に映ったのは美しい顔だった。


「え……?」

「よかった。気がついたか」


低いけれど柔和な声音には安堵が混じっていた。しかし、凜花はまだ意識がはっきりとせず、状況を把握できない。
そんな中、男性が穏やかな表情で凜花を見つめていた。
凜花と視線が交わった瞬間、彼の瞳が泣きそうに歪み、そのあとで弧を描いた。


「ようやく会えた、俺の唯一無二のつがい」


ぞくりと背筋が粟立つ。
反射的に息が止まり、凜花の全身にたちまち鳥肌が立った。
胸の奥から熱が突き上げ、言いようのない感情が押し寄せてくる。


理由なんてわからない。この感覚をどう例えればいいのかもわからない。
それなのに、心は痛いくらいに震え、大きな瞳からは涙が零れた。
自分の中にある本能や魂が、この人に会えて嬉しい……と叫んでいるようだった。


男性が困ったように微笑み、凜花の体をそっと抱きしめる。
凜花にとって異性との抱擁なんて初めてだったが、最初に感じたのは温もりと懐かしさのような感覚だった。
彼のこともこんな感覚も知らないはずなのに、知っている気がしたのだ。


「もう大丈夫だ」


状況もかけられた言葉の意図もわからなくて、凜花はただただ戸惑う。


「これからは俺がずっと傍にいる。凜花はもうひとりじゃない」


そんな凜花の疑問を溶かすように、優しい声が降ってくる。
まるで、凜花が欲していたものを与えるかのように……。


知らない男性に抱きしめられて安堵するなんておかしくなったに違いない。
そう思うのに、凜花は身じろぎひとつできなかった。

温もりが離れたのは、それから少し経った頃のこと。
凜花の背中に回されていた大きな手が、傷だらけの頬を撫でた。


「迎えに来るのが遅れてすまなかった。あちらで少し諍いがあって、片付けるのに手間取っていたんだ」


いったい、なんの話をしているのか。
目の前にいる男性は誰なのか。
働かない思考でも疑問は次々と浮かび、凜花は動揺を隠せなかった。
けれど、艶麗な顔立ちから目を離すこともできない。


切れ長の二重瞼の目、作り物のように通った鼻筋。薄い唇は弧を描き、意思の強そうな眉は凛々しい。
身長は一八〇センチくらいはありそうで、和装の袖口から覗く骨ばった手は男性らしい。筋肉は適度についているように思えた。
中でもひと際目を引いたのは、彼の髪。澄んだ川のようにキラキラと輝く銀髪は、まるで流れるように真っ直ぐだった。襟足が少し長く、肩に触れている。


巷でイケメン俳優と謳われている芸能人でも敵わないのではないか……と思うほどの整った外見である。
どこか人間離れてしていて、いっそこの世の者とは思えない気さえした。
彼が身に纏っている和装が着物だと気づき、よりそんな感覚を強くさせる。
深い藍色の着物には蔦のような紋様が描かれており、白亜のような羽織りに銀の髪がより映えていた。


「随分と怪我をしているな。どこかから落ちてきたのか?」


質問には答えられない凜花に、彼は程なくして苦笑を零した。


「ああ、すまない。お前は俺を知らないんだったな」


彼の言う〝お前は〟という言葉に、違和感を覚えたのは一瞬のこと。


「俺の名前は(ひじり)聖だ」


名乗った声の優しさに、安堵感が大きくなる。


「聖……さん?」

「聖でいい。それより、俺と一緒においで。手当てをしてあげよう」

「でも……」


ようやく、凜花の口から戸惑いが漏れる。
聖に対して、不思議なほど警戒心は湧かず、安心感ばかりが大きくなっている。
とはいえ、無防備に彼についていっていいのかわからなかった。

「心配しなくても絶対に悪いようにはしない。凜花が安心して過ごせる場所を用意してある。だから、俺と一緒に行こう」


差し伸べられた手に、まるで吸い寄せられるようだった。
凜花は無意識に自身の右手を伸ばし、聖の手にそっと触れる。刹那、彼が柔らかい笑みを浮かべた。
すかさず聖が凜花を抱き上げる。


「ひゃっ……!」

「不安定なら俺の首に手を回しておけばいい。まぁ、すぐに着くけどな」


意味深に瞳を緩めた彼は、凜花を横抱きにしたまま大きな木の前に立った。


「これは、向こう側とこちら側を繋ぐご神木だ。この山の守り神でもある」


聖は独り言のようになにかを唱えると、凜花を見つめて微笑んだ。


「少し驚くかもしれないが、心配しなくていい。すぐに着くから」

「え?」


凜花が小首を傾げるよりも早く、彼が足から池に飛び込む。抱かれたままの凜花も、必然的に池に飛び込まされてしまった。
驚く暇もなく反射的に瞼を閉じる。


「凜花、目を開けてごらん」


思わず息を止めたが、三秒も経たずして聖の声が聞こえた。
恐る恐る目を開け、そして言葉を失う。
目の前には草木や色とりどりの花が広がり、柔らかな光に包まれていたからである。
さらには、たくさんの人たちがかしずくように控えていた。


つい数秒前までいた山の中からは考えられないような光景に、凜花は困惑するほかなかった。
ここがどこなのか、たったの数秒でどうやってここにたどりついたのか。わからないことがまた増えたせいで、凜花はとうとう声も出せなかった。