黒尾(くろお)くん」


放課後の美術室。静けさと少しの冷たさを含んだ空気に、芯のある声が落ちた。

動かしていた手を止め、その声に導かれるように首だけで振り返る。今朝寝違えた首が地味に痛くて、ちょっとだけ身体の向きを変えるべく椅子に座りなおした。


黒の双眸が僕を捉えている。光が差し込んでいるのか、人より潤いのある目なのか、はたまた泣き出しそうなのか。別にどれでも良い。「なに?」と短く返事をすると、そこに居る人物の瞳が揺らいだ。寝違えた首が痛む。早く帰りたいな、と頭の片隅で思った。



「…黒尾くん、あたしのこと、何も言わないの」
「なんの話?」
「っ、…見たでしょう、昼休み」
「昼? さあ、眠くてあんまり覚えてないかも」
「そういうのいいからっ!」


彼女の───白井文花(しらいふみか)の声が乱れた。肩を揺らし、眉の形を変え、ぽたりぽたりと意図せぬ涙が流れている。潤んでいた瞳は泣き出しそうだったからだと、その瞬間答えにたどり着くことができた。



「白井さんは、わざわざそれを確認しに来たの」
「そ、そうだよ…っ、バラされたら、雪ちゃんをこまらせちゃうから。あたしが無理やりしたことなの、雪ちゃんはなにも悪くないの」


彼女は昼休みからずっとその涙を我慢していたのか。確認するのが怖いのに、わざわざ放課後 僕に直接話をしにきたのか。

きみは強い。きみのことを素直に尊敬する。涙を拭う彼女を、僕は心の中で賞賛した。


「べつになにもばらさないよ。何も見なかったことにする」
「…そうしてくれると助かる。ありがとう」
「うん」
「…黒尾くん、さ」
「うん」
「……なにも、聞かないの?」


首が痛んだので、身体の向きを完全に彼女に向けた。ぎゅうっと強く手を握りしめていて、ちょんと肩を押したら簡単に崩れ落ちてしまいそうなほど足が震えている。相当勇気が要ったと思う。素晴らしい勇姿だった。

白井文花。きみは、凄い。


僕は何も聞かない。逆に、彼女は深く聞いてほしかったのだろうか。理解してくれるかもわからない、必要最低限の会話しか交わしたことのないクラスメイトに話すべきことなのだろうか。

彼女と、隣のクラスの永沼雪が昼休みに空き教室でキスをしていた。いや、厳密には白井文花が永沼雪に無理やり迫っていた、の方が正しいかもしれない。

その事実に、たまたま見かけてしまっただけの僕が触れていい話だとは思わない。恥ずかしい、申し訳ない、知られたくない。簡単に口に出せない、悲しき愛の行方。



「白井さんが話したいなら話せばいい、BGMだと思って聞き流すから。話したくないなら、暗くならないうちに帰った方が良いと思う。僕、白井さんのこと送ったりできないし。同情はしないけど、白井さんの気持ちに似てる感情は、同じ人間としてわかるかもしれない」

「なにそれ…、優しいか優しくないのかわかんないよ…」
「一応部活中だから。無駄話は良くないかなって」
「へ、変だよ黒尾くん」
「そうかな」
「……あのね、あたしね」
「うん」

「女の子を好きになっちゃうの、きっと病気なんだよね」

こぼれた涙が、僕にはとても眩しかった。




ふと窓に視線を移すと、すっかり陽が落ちて外は真っ暗になっていた。白井文花が帰ったのは30分ほど前のこと。「またね」と口ばかりの挨拶を交わした時、空にはまだほんのりオレンジの光が残っていたような気もする。

時間の感覚は、季節に対応しきれない僕を置いてけぼりにして、日を追うごとにずれていく。



――女の子を好きになっちゃうんだ


彼女は人生をやり直したいらしい。

永沼雪は男を好きになる、いわゆるフツウに値する人だ。永沼雪に異性の恋人ができたらしい。友達という関係性で彼女の隣にいた白井文花は、突然の報告に動揺した。彼女が誰かのものになることを恐れた。衝動的に、気づいたら彼女の唇に触れていたという。


『雪ちゃんに、気持ち悪いっていわれた。フツウだよね、そうだよね。女の子を好きになっちゃうあたしは、気持ち悪いんだ』


一般的にそういう人が多い。高校生なんて特にだと思う。「あいつ絶対ゲイだよな」「女同士だからって手つないで歩いてるのはちょっと無理」「同性愛って病気じゃないの?」悲しい言葉がフツウにあふれる世界。人の心を簡単に傷つけてしまうような言葉をフツウの象徴とでもいうのか。フツウが良しとされる時代に、フツウという言葉は強記だと思う。フツウになりたくてもなれない人がたくさんいる。

フツウになりたい、フツウに異性に恋をしたい。

僕もまた、フツウじゃなくなることが怖かった。





放課後の美術室の利用者は、僕と、今はいないもう一人の部員だけ。部員の名前は、黒尾 織しきと風見蓮(かざみれん)。僕と、僕の幼馴染の男だった。


1年前まで、放課後は毎日この美術室で共に絵を描いていた。幼なじみということもあってから、昔は同じアトリエ教室に通わされていた。母親同士の仲が異常に良かった。僕の母は、父といる時より蓮の母といるときの方が幸せそうに見えた。深い友情で繋がれていただけだと思う。母は、フツウに恋ができる、あっち側の人間だったから。

中学・高校は当たり前のように僕と蓮は美術部に入った。僕らが通う学校の美術部というのはいわゆる帰宅部に値するもので、部員数こそ多いものの、真面目に絵を描きに来ている人は僕らだけだった。



「なあ、蓮のこと描いてもいい?」



1年前のこと。僕は、蓮にきみの絵を描きたいとお願いした。


「なんだよ、急に」
「横顔、綺麗だから。僕、昔から好きなんだ、蓮の顔」
「…顔ね」
「や、もちろん顔だけじゃないって分かってるけど。いつかちゃんと描いてみたいってずっと思ってたから」


僕の夢だった。人をモデルにして描くのはあまり得意ではないけれど、蓮のことだけは、なんとなく僕の記憶以外の場所にも残しておきたいと思った。


初めてそう感じたのは中学生の時。中学の美術部はほかにも部員がいたから、二人きりになることが少なくて言い出せなかった。

恥ずかしかったのだ。

僕が、きみを美しいと思っていると広まることが。
ついきみのことを目で追ってしまう僕がいることが。


恥ずかしくて、それから少し怖かった。


「……いいよ。おれも、(しき)のこと描く」
「蓮を描いてる僕を描くの?」
「そう。その方が効率いいだろ。お互いのモデルになりながら、作品もできる」
「…たしかに」

「なあ、織」



───おれも、おまえのこと、好きだよ


心臓が鳴った。その話の流れからして僕の「顔が好き」という意味合いだと捉えるのがフツウなのに、僕は無性にキュンとして、そんな自分に首を振った。


僕と蓮。

幼馴染、同級生、───男と男。


変だろ。キュンってなんだよ、どうして心臓がざわつくんだよ。気のせいだ。そうじゃないと困る。僕たちはお互いの顔が好きで、絵を描くだけ。余計な感情は抱かない。邪念は、絵にも表れるから。


「…ふは、やめろよキモチワルイ」
「…えー?幼馴染のオモムキってやつじゃね」
「趣って、絶対蓮の使い方ちがう」
「まあまあ、細かいことはきにすんな?」


だから僕は、長年寄り添っている違和感には、その日も気づかないふりをした。




蓮が引っ越したのは、お互いの肖像画が出来上がる前のことだった。


僕は、蓮が描いてくれた僕の絵を見ていない。そして僕もまた、蓮に完成形を見せることはなかった。僕が描いた風見 蓮の記録は、エンドロールを向かえないまま物置に眠っている。きっと蓮の中の黒尾 織の記録も、どこかで埃をかぶっているのかもしれない。



───風見って、黒尾のこと好きらしいよ


僕たちは失敗した。間違えてしまった。これまでの生き方全部を否定されたみたいに、僕と蓮の間には第三者によって線が引かれた。


「風見くん、かっこいいのにね」
「恋愛対象にしてるのが男ってことじゃん。やべー、俺も狙われちゃうかも」
「黒尾もさ、幼馴染として、これまで性的な目で見られてたって思うと引いたりすんじゃん?」


僕が風邪で学校を休んだ次の日、蓮は噂の対象になっていた。僕の耳にその噂が届く1日前のこと。どうやら、蓮が僕の肖像画を描いているところに、授業で美術室を使った時に忘れ物をしたクラスメイトがやってきたらしい。確かなやり取りを僕は知らない。けれど、僕の絵を描いていたことの言いわけなんていくらでもあったはずなのに、蓮は馬鹿正直に、「織のことが好きだから描いてる」と言ったらしい。


その日から蓮は学校に来なくなり、数日後、引っ越したという事実だけを聞かされた。

あれから1年経つけれど、蓮とは連絡すら取り合っていない。連絡先はもっているのに、メッセージを送るのが怖かった。なんて声をかけていいかわからなかった。僕も蓮に言いたいことがあったのに、守ることができなかった僕に、今更発言する権利なんてないと思った。



懐かしいなんて思えない、記憶に新しい出来事。僕の時間は止まったまま。瞼を閉じると蓮の顔が浮かぶ。


『おれも、おまえのこと、好きだよ』


あの時、僕の気持ちもまたフツウではなかったと気付けていたら。僕が抱えていた違和感が、蓮と同じものだと認められたら。僕たちは病気なんかじゃない。ただ生きているだけで、自分の気持ちに素直になっているだけだと、そう発信できていたら。



そうしたらきっと、僕と蓮は今も二人で絵を描き合っていたのかな。




片づけを終え、鍵を閉めて美術室を出る。陽が落ちた通学路を歩きながら、やるせない気持ちを抱いた。


蓮と二人で下校するのが僕らの当たり前だった。ご飯とか絵とかテレビとか漫画とか、たいして中身のない話をするのが好きだった。

年頃の男子は、女子の身体がどうだとか経験値がどうだとか、品のない話ばかりするから苦手だった。思い返せば、僕と蓮がそんな話をしたことは一度もない。

だから楽だったのか、だから一緒に居たのか、だから好きだったのか。多分全部だと思う。


僕ときみは、黒尾 織と風見 蓮でいるためにお互いが必要だった。フツウに生きるための抑制剤であり、フツウではいられなくなる麻薬だった。

フツウフツウって、フツウでいることのなにがそんなに偉いんだ。面白い人材は好かれるんじゃないのかよ。僕たちはフツウじゃなかった。男なのに男が好きって、面白いだろ。面白いけど、気持ち悪いことじゃない、はずだろ?


なあ、どうして、なんで。可笑しいのは、色々な感情に適応しないこの世界じゃないのかよ。


白井文花もそうだ。ただ振られて泣くのは、恋をする人間として仕方のないことなのかもしれない。けれど「キモチワルイ」と、女であるのに女を好きになることを否定されるのは可笑しい。

間違っていなかった。きみは正しい。衝動的にキスをしたくなる気持ちは、人間ならわかる人も多いはずじゃないのか。


蓮の横顔が好きだった。きみの絵を完成させてしまったら、もうきみの横顔をこんなにも長く、まじまじと見ることはできないと思ったから、いつもよりゆっくり描いていた。


きみの横顔が、じゃない。

風見 蓮のことが。
僕「は」───僕「も」、好きだった。