「集中力の問題、じゃないでしょうか」
 ノーテはお土産に、と二人に差し出されたサンドイッチを頬張りながら言った。あの日二人が帰ったのは、結局朝になってからだった。その頃にはノーテはすでに出かけていたから、これはまた次の夜である。
「集中力?」
 リトが不思議そうな声を出す。その手にはコーヒーが入ったマグカップ。
「はい。お話を聞く限り、クラヴィアさん、その時点であまり心に余裕があったと思えないですから」
「……まあ、そうだね。むしろ全く余裕がなかったと言ってもいいくらいかも」
 クラヴィアは少し決まり悪い顔になって答える。
「自分自身の心が乱れてる人に、人の心を癒そうっていう楽譜が見えると思います?」
 ノーテがその赤い瞳でクラヴィアの方をじとっと見つめる。
「たしかに、そうだね……」
「今やったら、きっとまた見えると思いますよ」
「そっか」
 クラヴィアは安堵したようにつぶやいて、カップに注がれたストレートティーを口に運ぶ。
「なんてったって、クラヴィアさん、天才、なんですから」
 ノーテの口から、そんな言葉がこぼれていった。
「おい、ノーテ?」
 リトが戸惑った声を出したのを、クラヴィアが制す。
「いいよ。あのさ、ノーテ」
「……なんですか」
「……ごめん。あと、ありがとう」
 困ったように首を傾げて笑ったクラヴィアの言葉に、ノーテは目を丸くして驚いた表情をした。クラヴィアの手が、ティーカップを丁寧にソーサーに戻す。
「君のおかげで、この街は救われたし、僕も……大切なことに気づくきっかけを、君にもらったから」
 ノーテはふい、と目をそらした。もしゃもしゃと齧るサンドイッチの隙間から、レタスのかけらがぱらりと落ちる。
「……そんな風に言われたら」
 許すしかないじゃないですか、と小さくつぶやいた言葉は、はたして二人の耳に届いたかどうか。
 ふっと息を吐く。
 目を見合わせる二人に今度はきちんと声を紡ぐ。
「……お二人は、まだ昔話を聞いてくれる心持ちがあったりしますか」
 きょとんとした表情を受け止めて、ノーテはもう一度はぁっと息を吐いた。

 壁に立てかけていたヴァイオリンケースを持ち上げ、二人に見せるようにその蓋を開ける。中には、美しく手入れされて、てらりと輝くヴァイオリン。
「あれ……?」
 リトが不思議そうな声を上げる。
「弦、切れたって……」
「あれは、嘘です」
「嘘?」
「はい」
 赤みがかった曲線のボディには、柔らかいけれども芯を持った四本の糸がしっかりとそこに存在していた。替えだってまだまだありますよ、と弦の入った紙袋をいくつも机にバラまく。
「私はきっと、呪われてるんですよ」
 ノーテは苦しそうに眉を顰めながら言った。
 言葉の意味がわからず、リトとクラヴィアはふたたび目を見合わせる。
「クラヴィアさん」
「え?」
 雰囲気の変わったノーテに突然呼びかけられて、クラヴィアは戸惑う。
「最初に私に楽譜を書いた時、なにか感じませんでしたか?」
「最初……」
 初めて、ノーテに出会った時だ。あの時は、たしかグランドピアノが届いた日で、午前中に、それなりに歳を重ねたマダムに楽譜を書いて、それからノーテがやってきて——
「いつもより、疲れた、かも……?」
「そういえば、あの時楽譜短かったよな」
 リトも口を出す。覚えている。いつもよりも、格段に短いクラシック。
「……でしょう。いつも、そうなんです」
 ノーテは感情の読めない声で言葉を紡いだ。
「私に、音使いの力は効かないんです」
 ちょっとだけなら効きますけどね、と自嘲するように笑って彼女は続ける。食べかけのサンドイッチは、すっかり手をつけられなくなったまま、テーブルに置き去りにされていた。
「代わりに、最低の力を授かったんですよ。私という人間は」
 静かに、夜は更けていく。

「最低の、力?」
 クラヴィアは、ノーテの話をつかめないまま、尋ねる。
「見た方が早いかもしれませんね」
 ノーテはそう言って、ヴァイオリンを手にする。
 作曲力がない方がやりやすいな、と彼女は独り言のようにつぶやいた。
「リトさん、ちょっとそこに立っててもらえますか。安心してください。必要以上に害するつもりはないですから」
「お、おう」
 リトも話をつかめていないままに、言われた通りにテーブルから少し離れたところに立つ。こういうところが、この人は優しいんだよなあ、とノーテは噛みしめる。人を疑うことを、知らない人だ。
「やりますよ」
 ノーテはふっと息を吐いて、その赤い眼をリトに強く向けた。音明かりがリトの周りに集まり始める。五線が走り、光が音符になって楽譜を埋めていく。それが、クラヴィアにも見える。
 一通り楽譜が完成したところで、ノーテはヴァイオリンを構えた。そういえば、ノーテがヴァイオリンを弾くところは初めて見るな、とクラヴィアは思う。いつも、いつも、彼女はピアノを弾いていた。だからこそ、自分が弾けなくなったそれを、自在に歌わせている彼女が余計に羨ましかったのだ。今はもう、そんな風にも思わないけれど。
 美しい旋律が、その手から生み出される。ピアノで聴いた時と同じ、どこか挑戦的な音色。
「ちょッ、ちょっと待って」
 ノーテのヴァイオリンに目と耳を奪われていたクラヴィアは、不意に響いたリトの声に首を傾げた。
「どうしたの、リト」
 二人に構うことなく、ノーテは弦を弾き続ける。
「待っ、て……」
 リトが力なく言ったあと、その場にへたり、としゃがみこんでしまったので、クラヴィアもさすがに焦って駆け寄った。リト、と大きく声を掛けて、ノーテを見やる。
 そこで、ノーテは、つと演奏を止めた。
「……どうですか?」
 リトは苦しそうに眉間に皺を寄せて、彼女と彼女のヴァイオリンにグッと目を向ける。
「……なに、これ。頭いてぇ……」
「……ごめんなさい。ここまでなら、まだ治せますから」
 ノーテはそう言ってふたたびヴァイオリンを構える。
「やめッ……」
「ごめんなさい、今度は大丈夫です」
 先ほどとは違う旋律がその手から紡ぎ出される。クラヴィアの眼には、リトの周りを囲う音明かりたちが忙しなく動き、パズルのように別の楽譜に組み変わっていくのが見えた。
 その楽譜を最後までノーテが弾き終えた時、しんと静まった部屋には、リトのはぁはぁという荒い息だけが響いていた。
「リト、どうしたの、ねぇ、リト、大丈夫? リト」
「……ッはあ、大丈夫。途中から一気に頭痛ぇの消えてった」
 クラヴィアが座り込んだリトの背中を支える。そこに、ヴァイオリンを置いたノーテが、何かを堪えるような表情でトントンと歩いてきて、リトの顔をそっと覗き込んだ。
「ノーテ、お前、これ、どういう……」
「……ごめんなさい。一から、説明します」
 そう言うノーテは、なんだか泣きだしそうな顔をしていた。

「私には、『嫌な音楽』の楽譜が見えるんです」
「『嫌な音楽』?」
 息を落ち着け、ふたたび椅子に座り直したリトが聞き返す。
 ノーテは彼に少し心配そうな顔を向けながらも、はい、と小さく頷く。
「さっきの、演奏を、そのまま続けていたら……そうしたら……」
 ノーテはそこでうつむいて、言葉に詰まってしまう。
 そんなノーテの前に、コト、とマグカップが置かれた。
「……ノーテものむ? ココア。落ち着くよ」
 クラヴィアはそっと告げる。自分の時は、アップルサイダーの炭酸が喉に心地よかったけれど、このあどけない少女には、甘くて優しいココアの方が、似合っている気がした。
 ノーテはこくん、とそれを口に含む。コクのあるカカオの風味がふわりと溶けて、全身をあたためてくれるようだった。そのぬくもりに背中を押されて、震える声をなんとか紡ぎ出す。
「……あのまま。あのまま、演奏を続けていたら……リトさんは、人の形じゃ、なくなってしまっていたんです」
「……え?」
 ノーテがやはりうつむいて告げたそれに、リトとクラヴィアは言葉を失う。
 外では、美しい月が夜空に煌めいていた。
「……いまでは、音獣、なんて、名前がついていますね」
 リトが落としたカップが、床に当たってパリンと割れた。

「ちょ、ちょっと待てよ、は、え、なに? 何言ってんだよ」
「私には、普通の音明かりの楽譜は見えません」
 混乱したリトの声を遮るように、ノーテは続けた。マグカップをぎゅっと握りしめた手に、血管が青く浮き出て見えた。
「見えるのは、さっき弾いたみたいな、『嫌な音楽』の楽譜だけ。見えてるのは同じ音明かりなのに、できるのはあの楽譜だけ。クラヴィアさんには、見えてましたよね? 見た目はなにも変わらないんです。なのに、弾いたら……みんな……」
 ノーテが言葉に詰まる。
「……うん、たしかに、リトが苦しそうにするまで、あれがおかしいなんて思えなかった。今思い出しても、どこか変だったとも思えない……」
 クラヴィアは考え考え、述べていく。
「でも、途中から、一気に楽譜が、変わった? よね? あれは、初めて見たけど……」
 パズルのように組み変わっていった楽譜を思い出す。
「あれは、自分でかけた暗号を、自分でといただけです……といっても私にも理屈はわかりませんけど……でも、ああしたら元に戻るだろうなって、わかるんです」
「なるほど……?」
「いや、お前、ちょっと、ちょっと待てよ!」
 淡々と会話を続けていく二人に、黙っていたリトが大声で切り込んだ。
「俺、ノーテが書いた楽譜で、音獣倒したよな? あれは……そしたら……ッ」
「……はい、あの音獣は、私が、つくったんです」
 ノーテのルビーレッドの瞳がゆらりと揺れた。
「一年前にも、この街に、来て、私は、同じ、ことを」
「ッなんで! なんでそんなことした!」
「ちょっ、リト!」
 リトがノーテの胸ぐらをぐいと摑んだ。
「馬鹿止めんな! だってお前、それ、誰を、音獣に……」
 リトの食い縛られた歯の隙間から、悔しさに滲んだ声が漏れた。
 ノーテはまったく抵抗せずに、ただ、ごめんなさい、とつぶやいた。
「……街で……しりあったひと……ごめんなさい……」
 リトは何も言えなくなって、ノーテの服を乱暴に離した。なにも言葉にならなかった。ノーテは乱れた服を直しもしなかった。
「……おれ、街の人を殺して、たのかよ」
 ようやく出たのは、そんな言葉だった。呆然とつぶやく。
「それは違います! もうあの状態になってたら、助ける手立ては……だから……リトさんの、せいでは……」
 ノーテはそこで黙り込んでしまった。
「……一回、落ち着こうか」
 静寂を破ったのは、クラヴィアだった。
「ココア、淹れなおそう? リトにはアップルティー淹れてあげるよ」
 努めて落ち着いた声音を心がける。リトの怒りは、ものすごく理解できる。クラヴィアだって、この街の人のことは、みんな大好きだった。でも、この消えてしまいそうに言葉を紡ぐ少女をここで突き放したら、ここでその手を離したら、きっと駄目だとそう感じた。
「ノーテ、ぜんぶ、話してくれるんだよね?」
 ノーテは、はい、と小さく頷いた。
「私、音使いの家に生まれたんです」
 ノーテは絞り出すようにそう語り始めた。

   *

 コルドの中でも、それなりに名家と言われる家でした。クラヴィアさんはもしかしたら聞いたことがあるかもしれないですけど……大きなお店を構えている家なんです。私は長女で。跡取りとして、厳しく躾けられて育ちました。
 でも、さっきみたいに、私は、あんな演奏しか、できなくて。何度やっても、誰にやっても、あんな風にしか、できなくて。
 最初に選んだヴァイオリンだけじゃなくて、ピアノや他にもいろいろな楽器ができるのは、希望が捨てきれなかったから、なんです。どれかなら、どれかなら、普通に、人を癒すための楽譜が見られるんじゃないかって。そんな希望に縋るみたいに、手に入れられる楽器、片端から練習しました。
 でも、駄目で。
 名家に生まれたのに、両親は立派な音使いなのに。なのに人に嫌がられる演奏しかできない私。
 絶望、しました。
 気づいたら、家のみんなに嫌われて、忌み子だと言われて、家を追い出されていました。
 ……この年の女子が、身寄りもなく放り出されて、どうなるかわかりますか。地獄ですよ。世界の暗いところ、全部見たんじゃないかってくらい。世界ってこんなに汚れたところだったんだって、そう思いました。
 そんなときに、ずっと握っていたこの子を見て、思いついたんです。家から持ってきたヴァイオリン……どうしても、どうしても、この子だけは置いていけなくて、売ることもできなかった。手入れも、できる限りしていたから、ずっとこの子だけは綺麗な状態でずっと私のそばにいてくれた。
 だからね、この子と一緒に、こんな汚い世界、壊してしまえばいいんじゃないか、って。こんな世界、滅んでしまえばいいんだって。
 思いついて、気づいたときには、もう、街が一つ、なくなっていました。
 手も、体も、震えたけれど、でも、私でも、みんなの脅威になれるんだ、みんなが私の作ったものに動かされるんだって、そう思ったら、なにかが、満たされたような気もして。

   *

「そんな時です。この街に来たのは」
 ノーテが顔を上げて二人の顔を見る。けれど、またすぐ下に伏せてしまった。
「一年前。あのとき、私は音獣を作って、すぐ街を去ったんです」
 あんまり、近くにいて、怪しまれたくもなかったですから、と小さい声で続ける。
「あとから、音使いが音獣を倒したって聞きました。どこでもすごく話題になっていて」
 それを聞いて、私——

「ああ、それなら、私が自分で倒せばいいのかなって……そうしたら、みんな私を……見てくれるのかなって。優しく、してもらえるのかなって……」
 うつむいて言葉を続けるノーテの目から、涙がこぼれ落ちたのが、クラヴィアとリトにも見えた。
「それ以降、渡りの音使いを、はじめたんです」
 ノーテがぽつりと言う。
「自分で音獣を作って、自分で倒すんです。みんな、ありがとうって言ってくれました。私に、笑って、お礼を、言ってくれた……」
 その声に力はまったくなかった。
「あまり話題になりすぎても、バレてしまうかもしれないから、音使いがもともといる街では、そういう人たちに任せたりもしていたんです。だから、この街にもう一度来た時、あなたたちに会いに来ました。……音獣を最初に倒した人の顔も見てみたかったですしね」
 ノーテが、顔をぐしと拭って、二人を見上げる。
「そうしたら、あなたがいるから、驚きました」
「……僕?」
 クラヴィアは静かに聞き返す。
「はい。あなたの存在は、コルドにいた時の、私の、希望、だったから」
 作曲力は低いのに、演奏の才能でその壁をたやすく超えてしまう。そのとき街中を賑わせていた噂は、いつか自分も、演奏力で、呪われた眼に見える世界を変えられるかもしれない、そんな希望に変わった。
「天才と呼ばれていたはずのあなたが……神から愛されて才能を与えられたはずのあなたが、なんでこんな場所で、なんでピアノも弾かずに、暮らしているんだろうと思ったら、感情が抑えきれなくなりました」
 ノーテも、クラヴィアがコルドを出たことは知っていた。転々としている最中に、そんなことはぼんやり聞いたから。その理由を卑しく推測する話もたくさん耳に飛び込んできていたから。
「でも、でも、どこかでピアノを弾いているんだろうと思ってた。どこかでその才能をちゃんと使っているんだろうと、そう思っていました」
 でも。
「でもあなたは、才能から逃げて……せっかく、せっかくもらったものを……私が死ぬほど欲しかったものを持っているのに……それを投げ出して、暮らしていて」
「そう、だね……」
「わかってます。クラヴィアさんがなにを思って、どうしてそうしていたのか。わかってます。だけど、だけど私には……ッ」
 言葉を紡ぎ続けるノーテを、クラヴィアは心を締め付けられながら見つめた。リトが、クラヴィアの背にそっと手を添えてくる。
「……リトさんの演奏を聴いて、弾いてもらって、音楽って、こういうものだったんだ、って、思い出しました。何年も、忘れてたことを、思い出したんです。音楽って、人を傷つけるためのものじゃなくて、こんなにあったかいものだったんだって……思い、だしたけど、でも、もう戻れないところまで、きてたから」
 ノーテはリトのギターを見やったあと、自分のヴァイオリンに目を落とす。
「私は、こんなに、愛されなくて、もう、戻れないところまで、手を汚していて。……だから、だから、才能から逃げているのに、こんな素敵な人と居場所に恵まれているクラヴィアさんが、羨ましくて、妬ましくて、しかたがなかった」
 さっきリトが落としたカップは割れたまま床に落ちていた。
「もう、私は壊すことしかできないから。この手はそれしか、できないから……それなら、壊してやろう、って。クラヴィアさんもひとりぼっちに、なっちゃえばいいんだって。クラヴィアさんが最初、私に良い顔をしていなかったから、そこをついたら上手くいくかもなって……」
 弱い風がカタカタと窓を鳴らした。
「リトさんに、クラヴィアさんより私を、選んでもらうように仕向けるつもりだったんです」
 ノーテはぎゅっと手を握りしめた。
「……なんで、なんでこんなふうになっちゃったんだろう、どうして、こんなところまで来ちゃったんだろう、なんで、なんでって……ほんとは、リトさんのギターを聴くたびに……音楽のやさしさと、たのしさを、思い出すたびに、ずっとずっと……そう思って、自分が虚しくて、空虚でしょうがなかった……こんなことしたって満たされないって、わかってても、でも今さらやめられなかった……!」
 ノーテはうつむいて肩を震わせた。

 そこに優しく手を置いたのは、クラヴィアだった。ゆっくり口を開く。
「……ごめんね、なにも、気づいてあげられなかった」
 その言葉に、ノーテは思わず顔を上げる。
「君は……道を間違えてはしまったんだろうけど……でもきっと、僕よりずっと、強かったんだ」
 クラヴィアは、自分の背に触れるリトの掌の力が強くなったのを感じて、ふわっと微笑む。それからノーテに向き直る。
「君はきっと、音楽から逃げなかった僕なんだね」
 ノーテがその赤い目を涙でゆらしたまま見つめ返す。
「僕も、自分の音楽が、人を不幸にすると、そう思っていたし、実際、そういうことがあって。それから僕は、すべてを投げ出して、音楽からも逃げ出して、そうしてここまで来たから」
「でも」
「でも君は、どうしても、音楽を捨てられなかったんだ」
 クラヴィアはノーテの言葉を遮るように言葉を紡ぐ。
「周りの声に、周りの反応に、すぐに屈して折れてしまった僕より、きっと君は強くて。強かったから、周りを壊して、叫ぶことしか、できなかったんだね」
「クラヴィア、さん……」
 クラヴィアは儚く笑った。
「君はきっと、ほんとは悪い子じゃないんだよね。自分に価値なんてないって諦めてしまった僕と違って、自分に価値を認めてほしくて、愛してほしくて、意味がほしくて、ずっと独りで、がんばったんだよね」
 ノーテはいよいよ大粒の涙をその目からあふれさせた。
「……クラヴィアさんが、戻ってきて……本当に私、なにしてるんだろうって、こんなことしても、選ばれるわけ、愛してもらえるわけないって、わかってた……はずなのに………あなたに、お礼を言われて、もう、どうしたらいいのか、なにもかもわからなくなった……」
 ノーテの頭を、クラヴィアはそっと撫でる。
「こんなふうに、悲しい、とか、つらい、とか、そんな気持ちだって、ずっとずっと、忘れてた……リトさんの演奏を聞いて、思い出すまで……」
「……どうして、いま僕らに話してくれたの?」
「……思い出したら、もう、いままでどおりに生きていける気が、しなかった、から……街の人が、私にお礼を言ってくるのが、すごく、痛くて……前は、それが嬉しかったはずなのに……もう私……どう生きていけばいいのか、わからなくて……話して、しまいたくなったから」
「……そっか」
 クラヴィアは天井を仰ぐ。自分とは、まったく違うけど、だけれどどこか似ているこの少女の人生を、頭ごなしに否定することはできなかった。
 はぁぁぁっと大きなため息が聞こえた。リトだ。クラヴィアの背から、彼の手がそっと離れていく。
「俺は。お前がやったこと、許せる気はしねぇぞ」
「……リト」
 クラヴィアの言葉を、リトは目線だけで制する。
「だって、お前、ここに来る前にもいくつも、街を回ってきたんだろ? いったい何人手にかけたんだよ」
「そ、れは……」
「数え切れないほど、だろ?」
 ノーテはふたたび深く深くうつむく。視界に広がるテーブルの木目が、このまま自分を吸い込んでしまったらいいのに、なんてそんな風に思った。
 はぁっとまたリトが息を吐く。
「……でもさ、正直、楽譜が書けなくて焦る気持ちも、どうして自分はできないんだって思う気持ちも、俺、わかるんだよ」
 ずっとずっと、光の楽譜が見えない世界で、リトは生きてきた。いつそれが掴めるのかもわからない世界で、生きてきた。
「俺は、いつか、できるようになるって、やっぱり信じてるけど。でも、こうやって、ずっと信じて、走り続けてこられたのはきっと、いろんな人が応援してくれて、見守ってくれてたからなんだろうなって、最近よーやく気づいた」
 そう言いながら、リトはその両手に目を落とす。
「お前には、そういう人がいなかったんだろ。正しく走らせてくれる人が、いなかったんだ」
 ノーテはうつむいた肩をピクリと震わせる。
「しゃーねえなァ……」
 リトが独り言のように言った。
「クラヴィアに俺の愛を注いでやるって言ったけど……」
 そう言いながらクラヴィアの方を振り返ると、彼は困ったように笑いながら、うん、と頷いた。
「……ッし、しゃーねぇなァ!」
 リトは膝をバンと叩いて立ち上がり、ノーテに手を差し伸べた。
 そして、言う。
「……俺が! お前の、そういう人になってやる!」
「僕もね」
 二人の言葉にノーテは顔を上げた。
「そういう、ひと……?」
「あー? 察し悪ィな!」
「ひどい言い草、モテないよ?」
「うるせぇ!」
 乱暴なリトの物言いにクラヴィアが突っ込む。いつも通りの、この家の風景。
「あー……だから、その。俺が、俺らが!」
 リトは少し照れたようにそっぽを向いて、勢いで押し切るように言った。

「お前のこと好きでいてやるって言ってんの!」

「……え?」
「生き方がわかんねぇ、だって? そんなら、俺らが一緒に生きてやる! だから、だからこう……あー……覚悟しとけよ!」
「なにを覚悟するんだよ」
 またクラヴィアが苦笑まじりに突っ込む。
「……ねぇノーテ。僕らはいままできっと、お互いを羨ましがって、妬みあって、暮らしていたけれど。だけどもう一度、はじめから、やりなおしてみない?」
 クラヴィアは彼女の涙に濡れた頬に手を伸ばす。
「僕らはきっと、もっと仲良くなれると思うんだ」
 頬を撫でると冷たさが親指に伝わってきた。けれどその分、ノーテにはきっとぬくもりが伝わっているはずだ。
 リトがノーテに人差し指をグイと突きつける。
「でも俺は、お前のしたこと、許したわけじゃねーからな!」
「……ッ、はい」
「だからその分」
 リトは一瞬視線をそらしたあと、またグッとノーテを見つめる。
「だからその分、音楽でおんなじくらい、人を救え! 一生かけてもな!」
 リトの言葉にノーテはハッと息を飲んで、泣いているような、笑っているような、そんな顔で、はい、と頷いた。

 その日、家の窓から夜の街に響いた、弦と鍵盤の三つの楽器のセッションは、少しの繊細さと切なさと寂しさが、あたたかい旋律に包まれて、星空のように美しいハーモニーを奏でだしていた。