テレビから聞こえるクリスマスソングで、明日がクリスマスだということを思い出す。そして今日はクリスマスイヴだ。
窓の外はどこを見ても真っ白で、交通機関が麻痺するほどの豪雪だった。遠くの山は降り注ぐ雪が隠している。ひまりが知る中でも、最も雪が降った日に違いない。
家の中は、クリスマスツリーや靴下などが飾られており、クリスマスカラーに染まっていた。内山さんと灯花が帰ってきたら、ケーキでも食べるつもりなのだろう。
別に家の中までそんな空気を醸し出さなくてもいいのに。
ひまりは朝食をとった後、二階の自室に籠った。
自室で本を読んでいたのだが、どうやら眠ってしまっていたらしい。
目を覚ました時には、ひまりは机に本を置いたまま突っ伏していた。口から垂れていたよだれを袖で拭って、椅子から立ち上がる。
まだ曖昧な意識の中、覗くようにカーテンを開き、外の様子を確認する。
一見朝と何も変わっていないように見えるが、よく見れば数センチほど積雪が増していた。内山さんは仕事から帰ってこられるのだろうか。
左には秋村家がある。今夜起こる出来事を考えてしまって、すぐに視線を室内に戻す。
机に置いてあるペットボトルで、寝起きの喉を潤した後、また座って読書を再開する。
視線を室内に戻した際、丁度、秋村翔太が家から出てくるところだったが、ひまりはそれを見ることはなかった。
読書に集中していると、気づかないうちに日は暮れていた。
きっと日が落ちてから結構な時間が経過しているのだろう。窓の向こうに見える町は活動を辞めたように穏やかで、それが帰宅の時間を過ぎたことを示していた。
読書にも疲れ、特にやることが無くなったため、何となくリビングへと向かう。騒がしい灯花の声が、廊下まで聞こえた。そしてリビングの戸を開いた。
「あっ、ダメ!」
灯花が焦ったようにひまりのもとへと走ってきて、「あっちいって!」と言う。何をしたいか、リビングの状況を見れば明らかだった。
リビングはクリスマスで染まっており、テーブルにはピザやローストビーフ、七面鳥など、クリスマスの定番のメニューが並べられていた。
内山さんはキッチンで食材の盛り付けをしており、母親はそれをテーブルに運んでいる。
ひまりを二階に押し返そうとする灯花に、母親が近づいてきた。
「いいじゃない。バレちゃったんだし。一緒にやった方が楽しいよ。」
灯花は考えるように黙り込んだ後、「確かにそうだね」と言って、ひまりをリビングへと引き入れた。随分と聞き分けがいい。もっと子供らしくてもいいのにと思ったが、思い返してみれば幼い頃のひまりは、今の灯花よりももっと大人ぶった行動をしていた。本当に母親を頼ってこなかったのだと実感した。
リビングに入室したはいいものの、手持ち無沙汰だった。食卓に並べている様子を見ていると、母親が白い箱を運んでいた。それに見覚えがあった。
母親はそれをテーブルに置くと、箱から中身を取りだした。
クリスマスケーキだった。イチゴの乗った五号のホールショートケーキ。中央には砂糖菓子で作られたサンタクロースが、笑顔で「Merry Christmas」と書かれたクッキーを持っている。
定番の型だからだろうか、二十四年前に見たクリスマスケーキと酷似していた。
クリスマス。豪雪の夜。ホールのショートケーキ……。
いいや、知らないふりをしよう。
ひまりは一足先に椅子に座って、準備が完了するのを待った。
五分ほどして、全ての準備が終わった。
こうして家族が揃って食事をすることなんて滅多にない。そのため懐かしさよりも、むず痒さを覚えた。そしてここに凛と美桜がいたならば、なんて想像をしてしまう。
乗り気ではないものの、折角ここまで盛大にしようとしてくれている。途中で二階に戻るなんてことはしない。厚意を無駄にしたくなかった。
目の前に広がっているのは、これまでの人生の中で最も豪勢な食事だ。それはクリスマスだからではなくて、ひまりを元気づけるためだろう。
「こんなに用意してくれて、ありがとう」
少し申し訳なさを含ませて、家族に言った。
「ひまりのためじゃなくて、楽しい時間のためよ」
母親のその言葉は嘘であることは分かりきっていたが、訂正や指摘はせずに、黙って受け入れる。
そうしてクリスマスパーティーは始まった。
他愛のない話をしながら、普段なら食べないものを頂く。チキンを食べて胃もたれをして、
内山さんの自慢話を聞いて、母親の高校時代の話を聞いて、灯花の学校の話を聞く。
凛と美桜がいなくなってから、幸福を感じることは一度もなかったけれど、今の瞬間に、少しだけ幸福を感じた。
そしてトイレに行こうと、椅子から立ち上がってその時だった。
――カラスの鳴き声が聞こえた。
ひまりの意識は、その方向へと向けられる。
――次に救急車のサイレンが聞こえた。
それは他人の話だ。関係ない。
――最後に呼応するように、近所の犬が吠えた。
……やっぱり、関係ない。関係ないけど、関係ある話だ。
その光景を思い出すと、その場に留まっていられなかった。身体が勝手に動き出す。
あぁ、やっぱり。どうしようもない後悔がこの胸に残っているから、こんなにも苦しんできたのだと、胸の痛みが告げている。
後悔は、後から悔やむから、そして取り返しがつかないから、後悔なのだ。
ひまりはリビングを急いで出ると、トイレのある左には曲がらず、そのまま玄関へと向かった。
「ひまり?」と心配する母親の声が聞こえたが、今はそれどころではない。
靴は履かずにそのまま家の外に出る。必死のあまり、ひまりは寒さを感じなかった。しばらく運動していなかったため、筋力が落ちていた。瞬発的な力を使っただけで、身体に疲労感が回っている。
休みたい、でも時間が無い。
たった数十メートル向かいの家。背丈の半分以上も積もった雪のせいで、思ったように足が進まない。どんどん息が荒くなる。白い息がリズミカルに空気中に消えていく。
重たい雪をかき分けて、やっとの思いで秋村家の敷地に入った。雪掻きがされていて、まるでひまりのことを誘っているようにも見えた。
そして二十四年ぶりに、その玄関の扉を勢いよく開いた。
濡れた足のまま、家に入り込む。どこにリビングがあるか分かる。間に合え。早く、早く。あとたった数メートルがやけに遠く感じる。そしてリビングが見えた。光が漏れていて、人がいることが分かる。ひまりは手元にあった靴ベラを拾って、リビングに入る。
それはまさに、秋村翔太が親父を手にかけようとする瞬間だった。
靴ベラを持って、二人の間に割り込もうとした。
しかし足元に散らばった生クリームで足を滑らせて、ひまりの身体は制御できなくなる。
左肩に痛みを感じた。その痛みも知っているものだったので、服に血が滲んでいても、焦ることはなかった。
何が起こったか分からなかったが、どうやら肩の傷と尻の打撲で、親父を殺す瞬間は止められたらしい。
翔太は困惑した表情で、ひまりを見つめている。
「なんでお前がいるんだよ」
左肩を抑えながら、ひまりはゆっくりと立ち上がった。
「よく考えて、あなたは本当に親父を殺したいの?」
は? と言って、お前には関係ないと言うような話をする。
「だいたい、こんな人間、いなくてもいいだろ――!」
「本当にそう思ってるのなら、この後、後悔して自殺をしたりなんかしない。その罪を一生背負って生きていかなきゃいけなくなる。後悔に苛まれて、人と接することができなくなる。これまで以上に引きこもることになる」
ひまりは後ろで尻もちをついている親父に手を差し伸べて、身体を起こさせた。
「ひまりちゃんがどうして?」
「私は――俺は、二十四年間、ずっと考え続けた。あの時、どうして殺したのかって。それのせいで、折角の二度目の人生はめちゃくちゃだし、周りに迷惑かけてばっかりだし、本当に最悪だった。でも、どうしようもないクズはお互い様だったんだよ、俺も、親父も。だからこそ、話し合うべきだった。家にいて、一度も話し合ったことはないだろ?」
「あんな恵まれて産まれてきたお前に、何が分かるんだよ?」
彼の気持ちが痛いほど分かる。彼は自分だから。自分は彼だから。
その苦しみをずっと抱えてきたんだろう?
「全部だ。全部分かる。苦しみも、後悔も、怒りも、悲しみも、過去でさえ、全部よく知ってる。だからこそ、言う。一度でいいから、話し合ってくれないか。少しでもいいから」
秋村翔太の目を見て言った。
沈黙が降りる。どれほど経っただろうか、屋根から雪が滑り落ちる音がした。
伝えたいことを伝えた。
彼の感情は静まっているように見える。あの時は一時の感情で殺めてしまったのだ。これからもう一度、修羅場が起こることはないだろう。
話し合いの場にひまりがいては、邪魔になる。
だからひまりは、そのまま立ち去ろうとした。
「待って、ひまりちゃん」
親父の声がした。
「……翔太なのかい?」
ひまりは黙って、背中を向けたまま、足を止めた。
「もしそうなら、謝りたい。十年間、本当にすまなかった!」
躊躇いなく言った、背中を向けているが、親父が頭を下げていることくらいは分かる。
人に頭を下げる姿なんて見たことが無かった。だから驚いた。そもそも親父について何も知らなかった。頭を下げる人間かどうかすら。
でも、彼はもう私の親ではない。彼は秋村翔太の父で、私にとっては向かいの家の、昔関わりがあった他人でしかない。
「私は齋藤ひまりです。謝るのは私じゃないですよ」
微笑みかけて、ケーキが散乱したキッチンを後にしようとする。そして最後に言う。
「話し合えば、必ずやり直せますから」
思いは同じなのだ。
左肩の傷は思ったよりも痛い。抑えていた右の手のひらは、真っ赤に染まっている。でも、気分は悪くない。
親になって、ようやく親を理解できた。
ずっと親父は見捨てていたのだと思っていた。しかし、距離感を掴みあぐねているだけだったのだと気づいた。親という存在が完璧ではないことは、ひまりは一番知っていたはずだった。
理想を押し付けて、自分が不遇である理由にして、変われない理由にした。それでいて、逆恨みから親父を殺そうとした。
本当に「秋村翔太」という人物はどうしようもない。
でも、そんな秋村翔太が親父と話し合って、変わろうとするならば、ひまりだって前を向けるはずだ。だって――誰かを大切に思う心は、同じなのだから。
いつからだって人は変われる。
ひまりはそう知っている。
窓の外はどこを見ても真っ白で、交通機関が麻痺するほどの豪雪だった。遠くの山は降り注ぐ雪が隠している。ひまりが知る中でも、最も雪が降った日に違いない。
家の中は、クリスマスツリーや靴下などが飾られており、クリスマスカラーに染まっていた。内山さんと灯花が帰ってきたら、ケーキでも食べるつもりなのだろう。
別に家の中までそんな空気を醸し出さなくてもいいのに。
ひまりは朝食をとった後、二階の自室に籠った。
自室で本を読んでいたのだが、どうやら眠ってしまっていたらしい。
目を覚ました時には、ひまりは机に本を置いたまま突っ伏していた。口から垂れていたよだれを袖で拭って、椅子から立ち上がる。
まだ曖昧な意識の中、覗くようにカーテンを開き、外の様子を確認する。
一見朝と何も変わっていないように見えるが、よく見れば数センチほど積雪が増していた。内山さんは仕事から帰ってこられるのだろうか。
左には秋村家がある。今夜起こる出来事を考えてしまって、すぐに視線を室内に戻す。
机に置いてあるペットボトルで、寝起きの喉を潤した後、また座って読書を再開する。
視線を室内に戻した際、丁度、秋村翔太が家から出てくるところだったが、ひまりはそれを見ることはなかった。
読書に集中していると、気づかないうちに日は暮れていた。
きっと日が落ちてから結構な時間が経過しているのだろう。窓の向こうに見える町は活動を辞めたように穏やかで、それが帰宅の時間を過ぎたことを示していた。
読書にも疲れ、特にやることが無くなったため、何となくリビングへと向かう。騒がしい灯花の声が、廊下まで聞こえた。そしてリビングの戸を開いた。
「あっ、ダメ!」
灯花が焦ったようにひまりのもとへと走ってきて、「あっちいって!」と言う。何をしたいか、リビングの状況を見れば明らかだった。
リビングはクリスマスで染まっており、テーブルにはピザやローストビーフ、七面鳥など、クリスマスの定番のメニューが並べられていた。
内山さんはキッチンで食材の盛り付けをしており、母親はそれをテーブルに運んでいる。
ひまりを二階に押し返そうとする灯花に、母親が近づいてきた。
「いいじゃない。バレちゃったんだし。一緒にやった方が楽しいよ。」
灯花は考えるように黙り込んだ後、「確かにそうだね」と言って、ひまりをリビングへと引き入れた。随分と聞き分けがいい。もっと子供らしくてもいいのにと思ったが、思い返してみれば幼い頃のひまりは、今の灯花よりももっと大人ぶった行動をしていた。本当に母親を頼ってこなかったのだと実感した。
リビングに入室したはいいものの、手持ち無沙汰だった。食卓に並べている様子を見ていると、母親が白い箱を運んでいた。それに見覚えがあった。
母親はそれをテーブルに置くと、箱から中身を取りだした。
クリスマスケーキだった。イチゴの乗った五号のホールショートケーキ。中央には砂糖菓子で作られたサンタクロースが、笑顔で「Merry Christmas」と書かれたクッキーを持っている。
定番の型だからだろうか、二十四年前に見たクリスマスケーキと酷似していた。
クリスマス。豪雪の夜。ホールのショートケーキ……。
いいや、知らないふりをしよう。
ひまりは一足先に椅子に座って、準備が完了するのを待った。
五分ほどして、全ての準備が終わった。
こうして家族が揃って食事をすることなんて滅多にない。そのため懐かしさよりも、むず痒さを覚えた。そしてここに凛と美桜がいたならば、なんて想像をしてしまう。
乗り気ではないものの、折角ここまで盛大にしようとしてくれている。途中で二階に戻るなんてことはしない。厚意を無駄にしたくなかった。
目の前に広がっているのは、これまでの人生の中で最も豪勢な食事だ。それはクリスマスだからではなくて、ひまりを元気づけるためだろう。
「こんなに用意してくれて、ありがとう」
少し申し訳なさを含ませて、家族に言った。
「ひまりのためじゃなくて、楽しい時間のためよ」
母親のその言葉は嘘であることは分かりきっていたが、訂正や指摘はせずに、黙って受け入れる。
そうしてクリスマスパーティーは始まった。
他愛のない話をしながら、普段なら食べないものを頂く。チキンを食べて胃もたれをして、
内山さんの自慢話を聞いて、母親の高校時代の話を聞いて、灯花の学校の話を聞く。
凛と美桜がいなくなってから、幸福を感じることは一度もなかったけれど、今の瞬間に、少しだけ幸福を感じた。
そしてトイレに行こうと、椅子から立ち上がってその時だった。
――カラスの鳴き声が聞こえた。
ひまりの意識は、その方向へと向けられる。
――次に救急車のサイレンが聞こえた。
それは他人の話だ。関係ない。
――最後に呼応するように、近所の犬が吠えた。
……やっぱり、関係ない。関係ないけど、関係ある話だ。
その光景を思い出すと、その場に留まっていられなかった。身体が勝手に動き出す。
あぁ、やっぱり。どうしようもない後悔がこの胸に残っているから、こんなにも苦しんできたのだと、胸の痛みが告げている。
後悔は、後から悔やむから、そして取り返しがつかないから、後悔なのだ。
ひまりはリビングを急いで出ると、トイレのある左には曲がらず、そのまま玄関へと向かった。
「ひまり?」と心配する母親の声が聞こえたが、今はそれどころではない。
靴は履かずにそのまま家の外に出る。必死のあまり、ひまりは寒さを感じなかった。しばらく運動していなかったため、筋力が落ちていた。瞬発的な力を使っただけで、身体に疲労感が回っている。
休みたい、でも時間が無い。
たった数十メートル向かいの家。背丈の半分以上も積もった雪のせいで、思ったように足が進まない。どんどん息が荒くなる。白い息がリズミカルに空気中に消えていく。
重たい雪をかき分けて、やっとの思いで秋村家の敷地に入った。雪掻きがされていて、まるでひまりのことを誘っているようにも見えた。
そして二十四年ぶりに、その玄関の扉を勢いよく開いた。
濡れた足のまま、家に入り込む。どこにリビングがあるか分かる。間に合え。早く、早く。あとたった数メートルがやけに遠く感じる。そしてリビングが見えた。光が漏れていて、人がいることが分かる。ひまりは手元にあった靴ベラを拾って、リビングに入る。
それはまさに、秋村翔太が親父を手にかけようとする瞬間だった。
靴ベラを持って、二人の間に割り込もうとした。
しかし足元に散らばった生クリームで足を滑らせて、ひまりの身体は制御できなくなる。
左肩に痛みを感じた。その痛みも知っているものだったので、服に血が滲んでいても、焦ることはなかった。
何が起こったか分からなかったが、どうやら肩の傷と尻の打撲で、親父を殺す瞬間は止められたらしい。
翔太は困惑した表情で、ひまりを見つめている。
「なんでお前がいるんだよ」
左肩を抑えながら、ひまりはゆっくりと立ち上がった。
「よく考えて、あなたは本当に親父を殺したいの?」
は? と言って、お前には関係ないと言うような話をする。
「だいたい、こんな人間、いなくてもいいだろ――!」
「本当にそう思ってるのなら、この後、後悔して自殺をしたりなんかしない。その罪を一生背負って生きていかなきゃいけなくなる。後悔に苛まれて、人と接することができなくなる。これまで以上に引きこもることになる」
ひまりは後ろで尻もちをついている親父に手を差し伸べて、身体を起こさせた。
「ひまりちゃんがどうして?」
「私は――俺は、二十四年間、ずっと考え続けた。あの時、どうして殺したのかって。それのせいで、折角の二度目の人生はめちゃくちゃだし、周りに迷惑かけてばっかりだし、本当に最悪だった。でも、どうしようもないクズはお互い様だったんだよ、俺も、親父も。だからこそ、話し合うべきだった。家にいて、一度も話し合ったことはないだろ?」
「あんな恵まれて産まれてきたお前に、何が分かるんだよ?」
彼の気持ちが痛いほど分かる。彼は自分だから。自分は彼だから。
その苦しみをずっと抱えてきたんだろう?
「全部だ。全部分かる。苦しみも、後悔も、怒りも、悲しみも、過去でさえ、全部よく知ってる。だからこそ、言う。一度でいいから、話し合ってくれないか。少しでもいいから」
秋村翔太の目を見て言った。
沈黙が降りる。どれほど経っただろうか、屋根から雪が滑り落ちる音がした。
伝えたいことを伝えた。
彼の感情は静まっているように見える。あの時は一時の感情で殺めてしまったのだ。これからもう一度、修羅場が起こることはないだろう。
話し合いの場にひまりがいては、邪魔になる。
だからひまりは、そのまま立ち去ろうとした。
「待って、ひまりちゃん」
親父の声がした。
「……翔太なのかい?」
ひまりは黙って、背中を向けたまま、足を止めた。
「もしそうなら、謝りたい。十年間、本当にすまなかった!」
躊躇いなく言った、背中を向けているが、親父が頭を下げていることくらいは分かる。
人に頭を下げる姿なんて見たことが無かった。だから驚いた。そもそも親父について何も知らなかった。頭を下げる人間かどうかすら。
でも、彼はもう私の親ではない。彼は秋村翔太の父で、私にとっては向かいの家の、昔関わりがあった他人でしかない。
「私は齋藤ひまりです。謝るのは私じゃないですよ」
微笑みかけて、ケーキが散乱したキッチンを後にしようとする。そして最後に言う。
「話し合えば、必ずやり直せますから」
思いは同じなのだ。
左肩の傷は思ったよりも痛い。抑えていた右の手のひらは、真っ赤に染まっている。でも、気分は悪くない。
親になって、ようやく親を理解できた。
ずっと親父は見捨てていたのだと思っていた。しかし、距離感を掴みあぐねているだけだったのだと気づいた。親という存在が完璧ではないことは、ひまりは一番知っていたはずだった。
理想を押し付けて、自分が不遇である理由にして、変われない理由にした。それでいて、逆恨みから親父を殺そうとした。
本当に「秋村翔太」という人物はどうしようもない。
でも、そんな秋村翔太が親父と話し合って、変わろうとするならば、ひまりだって前を向けるはずだ。だって――誰かを大切に思う心は、同じなのだから。
いつからだって人は変われる。
ひまりはそう知っている。