二○二〇年、七月。ひまりと凛は同棲を始めた。
同年、十一月。――ひまりは『齋藤ひまり』になった――
「真っ暗だね」
「うん、真っ暗だ」
凛はひまりの言葉を繰り返すように言った。
二人で正座をして並び、窓の外を見る。
そこには光を失った町並みがあった。
二○二一年、七月二十二日。今日は凛の誕生日だった。
海の日であり、大学は休みだった。今日一日は二人でデートをして回る予定だった。しかし列島に巨大な台風が接近し、窓の外は強風と大雨に見舞われている。結果、ひまりたちは家の中に閉じ込められていた。
常につけているテレビも、時折ノイズが入る。
外はいつになっても薄暗く、時間の感覚を失いそうだった。
二人で特に何をするわけでもなく、時間を過ごす。
やがて薄暗かった外は更に暗くなり、窓枠を揺らすような風と屋根に打ち付ける雨音だけが残った。遠くで地面を揺らすような雷が鳴っている。光が見えてから数秒ほどして音が伝わる。どこか不安にさせるような気候ではあるが、凛と過ごしていれば雷だって怖くない。
その時、一瞬昼間の明るさを思わせるような光が落ちた。
それを機に、テレビは音を発さなくなり、部屋は暗闇に包まれた。瞬時に停電が起きたのだと理解する。立ち上がって外を眺めてみると、町は一様に光を失っていた。
非日常の停電に、ひまりはほんの少しだけ興奮した。
まるで自分たちだけが世界に取り残されてしまったようで、不謹慎かもしれないけれど、なんだかロマンチックにも感じた。
しばらく二人で他愛のない話をして、停電の復旧を待っていたが、たった今スマホに届いた市からのメールによると、明日の朝までは復旧が見込めないらしい。まいったなと、凛は頭を抱えた。
それでもまだ寝るには早すぎる時間であるため、取り留めのない会話をして時間を潰す。
やがて話すことも無くなり、二人の間には沈黙が降りた。
そんな時間が長く続いたため、ひまりは少し哲学的な問いを投げかけてみる。
「ねぇ、人生の幸福の形って何だと思う?」
「どうだろうなぁ?」
凛は外の暗闇と豪雨を見つめて呟いた。
「でも、人生の幸せっていうなら、俺は家族が欲しいな。家族で水族館とか遊園地とか、色んなところに行ってみたい」
「……子供が欲しいの?」
ひまりは凛に問う。
「子供が欲しい」
感情を隠そうとして言ったその言葉は、普段の声よりもずっと震えていて、そこに恥ずかしさを含んでいた。一瞬、雷に照らされた凛の表情は心なしか紅潮しているように見えた。
なんだか彼がいつもより愛おしく思えた。そんな彼だからこそ、私は一緒にいたいと思ったのだと、再認識する。
そして自分が恥ずかしいことを言ったことに気づき、頬に血が昇っていった。しかし停電の闇に紛れて、凛にはひまりの羞恥は届かない。
子供、か……。
そういえば今日はずっと家に籠って何もしなかったけれど、凛の誕生日だった。プレゼントは既に渡したけれど、別に一つと決まっているわけではない。幾つ渡したって問題ではないだろう。
だから、覚悟を決めて言った。
「いいよ、子供、作ろっか」
狭い部屋に、ひまりの震えた声が響いた。
恥ずかしさをぎゅっと凝縮したような声は、きっと凛にも伝わっている。それともこの恥ずかしさは、凛から伝染したものだろうか。
凛は外を眺めたまま、顔を合わせようとはしてくれない。
しばらく彼の返答を待った。
屋根に打ち付ける雨が少し弱まった頃、凛はようやく口を開いた。
「うん、分かった」
いつもよりも何倍もか細い声が、凛ではない誰かのように思えた。いつもひまりを引っ張ってくれた凛の姿からはとても想像できない。緊張しているのだろう。
不意に、やりとりの中に家族を感じた。
これからこのお腹の奥に家族ができるかもしれない。
私たちは大人になり、親になる。
生前の自分は、成長と退行を拒んだ。大人になることが嫌で、怖くて、だからといって子供ではいられなかった。
しかし人生をやり直した今ならば、大人になりたいと思える。
その手をひまりの身体に伸ばしてくれることを期待したのだが、どうやた彼は肝心のところで甲斐性なしになってしまったようだ。
期待してしまったこの恥ずかしさと、待たされたじれったさを誤魔化すように、彼の首元に手を伸ばした。
凛が顔を向けた。
目と目が合う。
どこか虚ろな瞳は、つまり向こうも期待しているということ。
いつもは凛が格好良く見えているのに、今だけは可愛らしく見えた。
首に手を這わせて、それから顔を近づける。
唇に触れた。
夏だからだろうか。少し乾燥していた。
しかし確かに彼の唇だった。
十秒ほど唇を重ねて、それから顔を離す。
ひまりたちのキスは世間一般的には「下手」な部類に入るのかもしれない。しかしそれが逆にひまりたちの初々しさを象徴していた。
もう一度目を合わせる。今度は微笑んで、彼の方から唇を近づけた。
あぁ、彼の温もりを感じる。
愛を感じる。
彼を感じる。
『人生の幸福の形』の問いの答えは、未だによく分からないけれど、しかし今この瞬間が幸福であることには違いない。
もしかすると、人生の幸福の形とは特に答えのないものなのかもしれない。
幸福とは、人それぞれなのだから。
同年、十一月。――ひまりは『齋藤ひまり』になった――
「真っ暗だね」
「うん、真っ暗だ」
凛はひまりの言葉を繰り返すように言った。
二人で正座をして並び、窓の外を見る。
そこには光を失った町並みがあった。
二○二一年、七月二十二日。今日は凛の誕生日だった。
海の日であり、大学は休みだった。今日一日は二人でデートをして回る予定だった。しかし列島に巨大な台風が接近し、窓の外は強風と大雨に見舞われている。結果、ひまりたちは家の中に閉じ込められていた。
常につけているテレビも、時折ノイズが入る。
外はいつになっても薄暗く、時間の感覚を失いそうだった。
二人で特に何をするわけでもなく、時間を過ごす。
やがて薄暗かった外は更に暗くなり、窓枠を揺らすような風と屋根に打ち付ける雨音だけが残った。遠くで地面を揺らすような雷が鳴っている。光が見えてから数秒ほどして音が伝わる。どこか不安にさせるような気候ではあるが、凛と過ごしていれば雷だって怖くない。
その時、一瞬昼間の明るさを思わせるような光が落ちた。
それを機に、テレビは音を発さなくなり、部屋は暗闇に包まれた。瞬時に停電が起きたのだと理解する。立ち上がって外を眺めてみると、町は一様に光を失っていた。
非日常の停電に、ひまりはほんの少しだけ興奮した。
まるで自分たちだけが世界に取り残されてしまったようで、不謹慎かもしれないけれど、なんだかロマンチックにも感じた。
しばらく二人で他愛のない話をして、停電の復旧を待っていたが、たった今スマホに届いた市からのメールによると、明日の朝までは復旧が見込めないらしい。まいったなと、凛は頭を抱えた。
それでもまだ寝るには早すぎる時間であるため、取り留めのない会話をして時間を潰す。
やがて話すことも無くなり、二人の間には沈黙が降りた。
そんな時間が長く続いたため、ひまりは少し哲学的な問いを投げかけてみる。
「ねぇ、人生の幸福の形って何だと思う?」
「どうだろうなぁ?」
凛は外の暗闇と豪雨を見つめて呟いた。
「でも、人生の幸せっていうなら、俺は家族が欲しいな。家族で水族館とか遊園地とか、色んなところに行ってみたい」
「……子供が欲しいの?」
ひまりは凛に問う。
「子供が欲しい」
感情を隠そうとして言ったその言葉は、普段の声よりもずっと震えていて、そこに恥ずかしさを含んでいた。一瞬、雷に照らされた凛の表情は心なしか紅潮しているように見えた。
なんだか彼がいつもより愛おしく思えた。そんな彼だからこそ、私は一緒にいたいと思ったのだと、再認識する。
そして自分が恥ずかしいことを言ったことに気づき、頬に血が昇っていった。しかし停電の闇に紛れて、凛にはひまりの羞恥は届かない。
子供、か……。
そういえば今日はずっと家に籠って何もしなかったけれど、凛の誕生日だった。プレゼントは既に渡したけれど、別に一つと決まっているわけではない。幾つ渡したって問題ではないだろう。
だから、覚悟を決めて言った。
「いいよ、子供、作ろっか」
狭い部屋に、ひまりの震えた声が響いた。
恥ずかしさをぎゅっと凝縮したような声は、きっと凛にも伝わっている。それともこの恥ずかしさは、凛から伝染したものだろうか。
凛は外を眺めたまま、顔を合わせようとはしてくれない。
しばらく彼の返答を待った。
屋根に打ち付ける雨が少し弱まった頃、凛はようやく口を開いた。
「うん、分かった」
いつもよりも何倍もか細い声が、凛ではない誰かのように思えた。いつもひまりを引っ張ってくれた凛の姿からはとても想像できない。緊張しているのだろう。
不意に、やりとりの中に家族を感じた。
これからこのお腹の奥に家族ができるかもしれない。
私たちは大人になり、親になる。
生前の自分は、成長と退行を拒んだ。大人になることが嫌で、怖くて、だからといって子供ではいられなかった。
しかし人生をやり直した今ならば、大人になりたいと思える。
その手をひまりの身体に伸ばしてくれることを期待したのだが、どうやた彼は肝心のところで甲斐性なしになってしまったようだ。
期待してしまったこの恥ずかしさと、待たされたじれったさを誤魔化すように、彼の首元に手を伸ばした。
凛が顔を向けた。
目と目が合う。
どこか虚ろな瞳は、つまり向こうも期待しているということ。
いつもは凛が格好良く見えているのに、今だけは可愛らしく見えた。
首に手を這わせて、それから顔を近づける。
唇に触れた。
夏だからだろうか。少し乾燥していた。
しかし確かに彼の唇だった。
十秒ほど唇を重ねて、それから顔を離す。
ひまりたちのキスは世間一般的には「下手」な部類に入るのかもしれない。しかしそれが逆にひまりたちの初々しさを象徴していた。
もう一度目を合わせる。今度は微笑んで、彼の方から唇を近づけた。
あぁ、彼の温もりを感じる。
愛を感じる。
彼を感じる。
『人生の幸福の形』の問いの答えは、未だによく分からないけれど、しかし今この瞬間が幸福であることには違いない。
もしかすると、人生の幸福の形とは特に答えのないものなのかもしれない。
幸福とは、人それぞれなのだから。