「おはようございます」
 元気のいい挨拶とともに、事務室の扉を開く。
 ひまりの挨拶に反応するように、挨拶が返ってくる。元気だったり気だるげだったり、多種多様だ。
 ひまりは自分のロッカーを開け、鞄を収納し、ハンガーにコートをかける。春になったとはいえ、帰宅する頃には外は冷えている。コートはまだまだ必要だ。コートの下には制服を着ており、着替える必要はない。そのまま自分のデスクへと向かい、腰を掛ける。
「おはようございます」
 隣に座っていた瑞穂先生が改めて挨拶をした。ひまりも同じように返す。
「仕事には慣れた?」
「まぁまぁですね」
「そっか」と、瑞穂先生はコーヒーをひまりに手渡しながら言った。
 瑞穂先生は、新卒採用でまだ右も左も分からないひまりに対して色々なことを教えてくれる優しい先生だ。そのためひまりも瑞穂先生のことを好意的に思っている。
 時間は午前七時過ぎ。まだ子供たちの来る時間ではない。
 しかし先生には朝早くからやることが多い。清掃から掲示物の作成や、プリントの作成など、事務的なものから実用的なものまでを全て保育園の先生がこなす。
 よく保育業界はブラックだと聞くが、実際に自らも入ってみて、本当にその通りだと思う。しかしやりがいがある。好きだからこそやっていけるのだろう。
 ひまりが保育士になろうと思ったのは、灯花の影響だ。
 高校三年の時、進路を定めなければならなくなった。今までの人生は引きこもってばかりで、将来のことは考えたことはあっても、具体的な進路を考えたことはなかった。
 困ったことに専門学校の生徒が進学が決定し始める八月になっても、進学か就職か、おおよその進路先すら決まらなかった。
 時間は流れて、皆は進路を決めていく。内山さんの勧めもあって、一応進学することにはしたのだが、将来の指針がおおよそでも決まっていなければどうしようもなく、ひまりは一向に受験に専念することができなかった。
 とはいえ、所詮ひまりの学力では受験できる大学は限られており、今から勉強をして間に合うほど、大学受験は甘くない。
 そうして進路に悩んでいたとき、その悩みを忘れたくて灯花とじゃれて遊んでいた。ふと、この子は将来こんな風に悩むのだろうかと思った。その時、ひまりの中で何かがはまった感覚があった。
 自分のような人生を辿ってほしくない。かつての自分のようにどうしようもない寂しさを抱える子がいても、家族ではない誰かが支えてあげればいいのではと思った。
 高校や中学、小学校の教員を目指さなかったのは、学力のためだ。
 ひまりが進路を決めたのは、十二月。その頃にはもう大学進学志望の中でも、クラスで数人が推薦によって進路を決めていた。
 しかし何となく進路を決めたわけではなく、心の底から保育士になりたいと思ったため、自分でも驚くくらいに受験勉強に打ち込めた。
 たった数か月ではあるが、毎日が勉強漬けになった。その結果、最後の最後、後期入試で合格できた。
 そんな誰よりも濃密な時間を経ての今がある。
 瑞穂先生はそんなひまりの経歴を聞いて、今の時代にこんなにもやる気のある人に出会えて嬉しいと、ひまりを可愛がってくれるようになった。
「そういえばさ、大学生の彼とはいい感じ?」
 瑞穂先生はにやにやと口角を上げて訊いた。
 その問いに釣られてもう一人の中年の先生も、棚の向こうから顔を覗かせる。
「特に変わってないです。週に数回、休日とかに会う程度ですよ」
 するとさらに隣のデスクの先生が、会話に入るように「それはハラスメントじゃないですかー?」と言う。
 確かに瑞穂先生のしていることは、世間でいう一種のハラスメントにあたるのかもしれない。近年の風潮的には良くないことだろう。しかし友人がほとんどいないひまりにとって、寂しいことではあるが、唯一の惚気る機会になっている。
 本人が大丈夫と言えば大丈夫なのだ。
「私が好んでやっていることなんで大丈夫ですよ」
 しかし彼女は「いや、ハラスメントはハラスメントなんです。大体の人がそう言うんです」と、ひまりの言うことを頑なに信じようとしない。
 社会にはこういう人もいるのだと、いい勉強になる。
 決して口に出すことはないが、ひまりは彼女のことが嫌いだ。秘密は得意なので、きっと漏らすことはないだろう。
 すると更に年上の先生が現れて、仕切るように手を叩いた。
「おはようございます!」皆と同じように、ひまりも挨拶を返す。
 今日も一日が始まる。