母親はいつものことながら、ひまりが学校に行かなくなったことを無理に咎めようとはしなかった。それは父親である内山さんも同じだった。
 きっと母親が裏で手を回してくれたのだろう。おかげで学校のことや、外に出ることに関して考えなくて済んだ。気が楽だった。
 つくづくいい家庭に恵まれたと思う。
 「高木ひまり」は栄光の道を進んでいたが、あの時の自分は違った。たった数メートルの違いで、まるで天と地のように正反対の人生を歩んで、自分は劣等感に苛まれた。そうして学校に通うことが出来なくなった。
 状況だけならあの時と同じだが、しかし理由が違う。
 何か欠けたものを求めて閉じこもっていたときよりも、人が怖くて閉じこもっている今の方が幾分かましだ。
 きっと自分は一生この症状と付き合っていくのだろう。船山に触れられて、「人殺し」と言われて、気が付いた。やはりあの光景がトラウマになっているのだと。あの瞬間に、一瞬だけだが横たわる血まみれの親父の姿がフラッシュバックした。
 今、道路を挟んだ向こうの家では秋村翔太が引きこもっているだろう。過去の自分と比較してみて、少しは成長できたように思える。
 しかし引きこもっていることには違いない。
 他人から見れば理由なんて関係なく、目に見える「引きこもり」という情報だけで「高木ひまり」の人物像を塗り固めていく。
 自分の知る「高木ひまり」は引きこもらなかったし、もっと可愛かったし、運動も一番だったし、誰よりも頭が良かった。
 でも船山と付き合っていた時期があったのだから、少なからず悩みはあったのだと思う。「高木ひまり」という人物は、恵まれていたからこその苦悩があったのかもしれない。
 苦労の種は違えど、苦労していたことに気づき、今更ながら親近感を覚えた。
 本当に今更。

      *

 もしかしたら家から出られるのではないかと思った。
 以前、引きこもっていた時は玄関の扉を見る度に、心臓が跳ねた。それでも一度は恐怖を押し殺し、外に出ることが出来た。
 なら、今も同じ過程を踏めば外に出ることが出来るのではないか。
 ふと、そう思った。
 
 灯花と母親は昼寝をしていた。
 昼下がりの家は異様に静かで、彼女らの寝息が家のどこにいても聞こえた。しかしそれは荒いいびきのようなものではなく、穏やかな息遣いそのもの。静かすぎるこの家が、音に対して過敏にさせた。
 今しかない。ひまりは思い立って、玄関の前に立つ。
 その扉はまるで城門の如く巨大に見えて、また異様な雰囲気を放っていた。
 つい一週間前まではそこから外界との出入りをしていた。しかし今は自分を遠ざける、敵意を含んだ何かに見える。扉の向こうには悪いものがあるから近寄るなと言われているようだった。
 しかしひまりは、その先を知っている。
 先に行かなければならないことを知っている。家族のため、そして自分のため。
 外の世界はひまりにだけ牙を剥く。自分を理解してくれる人は外にはおらず、家族とは離れて生きていくため、外の世界は孤独だ。どうしようもなく苦しい。一人ぼっちだ。
 それでも耐えて生きてきた過去の自分を知っている。
 自分には経験があるのだ。その扉の向こうに踏み出すだけで、一歩近づける。昔の自分に戻るのではなく、未来の自分に近づくのだ。
 靴下のまま、土間に降りた。そしてドアノブに手を掛けた。
 不思議と手は震えなかった。以前とは何かが変わっていると分かり、勇気が湧いた。そしてドアノブを下げて、そのまま力強く前に押した。
 世界が広がった。
 実際にやってみれば、なんて容易いことだったのだろう。どうして家に閉じこもっていたかが分からないほど、世界が澄んで見えた。
 秋の冷たい空気を目一杯吸い込んでみる。久しぶりの新鮮な空気は味がした。裸足のままさらに外に出てみる。
 目の前を、高校生が横切った。
 ひまりの頭の中には船山が浮かび上がり、親父がクリームと血にまみれて横たわっている光景を連想させた。 
 いつかの景色と同じだ。
 あぁ、分かった。外の世界が怖いのではなく、学生という存在が船山を連想させ、そこから更にあの日を思い出させるからなのだ。
 また、自分が人殺しと言われている気がした。
 次の瞬間にはひまりは家の中に戻っていた。呼吸は酷く荒れていた。まるでマラソン終わりのランナーのように汗をかき、はぁはぁとリズミカルに身体を膨らませている。
 込み上げる胃液を抑えつつ、トイレへ向かった。
 自分はどうしても社会に適合できない人間だと、叩きつけられた気がした。