この一年で、ひまりの人生は大きく変わった。
母親と内山さんは結婚し、つい先日には灯花も産まれた。この状況は「高木ひまり」の人生とは大きくかけ離れているが、それでも今の生活は生前に比べたらずっといい。やはり人生というものは、環境が左右するのだろう。
いつも一人だった家が賑やかになったということもあるだろうが、母親と内山さんが幸せそうな顔をしているから、自分も幸せに感じるのだと思う。しかし実際のところ、今の自分は幸せなのだろうか。きっと自分は彼らの姿を見て、幸福を頂いているだけだ。
一歩一歩、ひまりなりの人生を進んでいけばいい。
母親は三十六歳で結婚して子供も産んだ。まだ中学生の自分に変わるチャンスがない訳がない。少しずつ、前へと進んでいこう。少しずつ。
その日は一か月検診と呼ばれる、赤ちゃんが生まれてから初めての通院の日で、母親と灯花は家に居なかった。内山さんは仕事で、ひまりは久方ぶりの一人の時間を過ごしていた。
リビングのソファで、今までそうしていたように寝転がって本を読んでいたが、どうにも落ち着かなかった。どうやら自分は思っていたよりも、灯花の存在に元気を貰っていたらしい。今が物凄く寂しく感じた。
そして、母親は出産を機に仕事を辞めるらしい。内山さんと話し合って決めた事だからひまりは何も文句はなかった。内山さんにも「ひまりちゃんが進学できるくらいのお金は十分にある」と言った。優秀だと聞いていたが、見せてもらった収入も物凄い額だった。それは生前の親父と同じくらいの金額であり、年収にすれば四桁を優に超える。
自分の将来の選択肢が大幅に広がった一方で、今の自分は選ぶ段階にいない。いつまでも引きこもっているわけにはいかないのだ。未来の自分のために、そして家族に心配をかけないように、負担を掛けないように、学校に行かなくてはならない。
ひまりはソファから身体を起こした。
何事も初めは小さな一歩から。まずは家を出てみることから始めよう。
ひまりは本にしおりを挟んで、寝間着を脱ぎ、シャツ一枚のまま自室へと向かった。そして私服に着替えるためにタンスを開いた。いつも家にいてばかりのため、寝間着以外の服装に着替えるのは久しぶりだった。
姿見鏡を前にして、モデルの真似事をしてみる。一年ぶりくらいに着た黒いパーカーとデニムパンツ。中学生は成長盛りだ。ひまりも身体は大きくなっており、一年前には丁度良かったパンツが、今では入らなかった。
留め具が閉まらなかったため、恐らくは太ったのだろう。それを認めたくなくて、身長が伸びたせいにしておく。
幾つか着てみたが結局、自分に丁度いいパンツやスカートがなかったため、母親の物を勝手に持ち出してきた。それを着て再び姿見鏡の前に立つ。おしゃれに疎いため、この服装がどんなものかは分からなかったが、少なくともひまりにはそれなりにおしゃれに見えた。
黒のパーカーにクリーム色のラフなパンツ。どれもオーバーサイズだが、逆にそれが流行の最先端を走るモデルのように見えなくもない。腰に手を当てて、ポーズを取ってみる。
ふと冷静になってみると、誰も見ていないのに急に恥ずかしさが込み上げてきた。生まれ変わってからというものの、おしゃれと言うものには手を付けてこなかった。しかし折角顔が整っているのだから、一度くらいはおしゃれをしてみたかったのだ。
今まではおしゃれなんて引きこもりの夢物語だったが、将来を考えて引きこもりを引退しようとしている今、それは現実のものとなりつつあった。
踊る気持ちそのまま、ひまりはスキップをしながら階段を下り、リビングへと戻った。
ただ少し、家の周りの道路を歩いてみるだけでいい。
距離にして百メートルはないだろう。しかしその百メートルまでの道のりが、何よりも遠い。
着替えたひまりは顔を入念に洗い、長く伸びた髪を櫛でとかした。何年かぶりに外に出ようというのだ。折角なら寝間着姿ではなく、少しくらいはおしゃれをしてもいいだろう。
そうして身なりを整えたひまりは、ついに玄関の前へと立つ。いつも「ただいま」を言うこの場所は、「いってきます」を言う場所でもある。
靴を履くのも数年ぶりだった。玄関に自分の靴が無かったため、内山さんがいつも履いているサンダルを借りることにする。
廊下から靴の並ぶ土間へと降りた。
目の前にある扉が、どこまでも遠く感じた。そしてその奥にはきっと未来が広がっている。
しかし足が震えて、動こうとしない。ドアノブに伸ばそうとする手は、勝手に体脇へと戻っていく。この首筋を伝う汗は、梅雨を間近に控えたためではないだろう。
しかし不登校は克服しなければならない。それが義務であると考えると、身体も仕方がないと言うように緊張を解いた。
その腕をゆっくりと、一秒に数センチずつ伸ばしていく。
筋力トレーニングのように緩やかに上昇していく右腕は、疲労からか緊張からか、再び震えだした。肩の前の方の筋肉が焼けるように痛い。でも今、腕をおろしてしまったら、二度とこの扉を開くことが出来なくなる気がして、何かに縋るようにその手はドアノブへと伸びていく。
私はきっと生まれ変わってから初めて藻掻いている。
思えばずっと逃げてきた。人との接触が恐ろしくなって、そ塞ぎこむように家を聖域にした。でもそれは、生まれ変わる前も同じだったではないか。
生まれ変わってからではない。生まれ変わる前から、三十三年の命を通じて、今初めて自分に抵抗しようとしている。
折角生まれ変わったのだ。変わらなければ、意味がないだろう。
もう、こんな自分は嫌なんだ。
手が届いた。ガチャリと音を立てて、ドアノブが下がった。あとは前に力を掛けるだけ。それで自分は前へ進める。
しばらくそうしていた。そのころには汗も乾き、心が落ち着いていた。不思議と身体の震えが止まり、誰かが背中を押してくれたように足が前に出た。
扉は開いた。
世界は閃光に包まれた後、次第に色付いていく。
その先にはいつも窓越しで見ていた景色が広がっていて、まるで夢が現実に現われたかのような感覚を覚えた。目の前に広がっているのは、道路で、民家で、青い空で、ただの日常だ。
ひまりはそれが怖かったのだ。そこを歩く人間が怖かったのだ。
でも今は平日の午後。
誰も通らないその通りは、ひまりには好都合だった。ドアノブから手を離し、さらに足を一歩踏み出してみる。よく知っている景色を自分で歩くことに喜びを感じた。
まるで怪獣が街を踏み荒らすかの如く、小さく緩やかな歩幅で、遅くとも確かに進んでいく。すると屋根の影から身体が出た。太陽がひまりの不健康な肌に突き刺さった。
六月の日差しでもひまりには十分痛かったが、それすらも喜べた。何しろ自力で家を出ることが出来たのだ。大きな進歩だろう。
目の前の世界に見惚れていると、目の前を自転車が通った。
途端、身体が拒絶を示した。身体の奥の方で何かが暴れ出した感覚に襲われ、慌てて家の中へと戻る。
症状は治っていなかった。
その足取りは、今までの遅速を反対にしたように素早く、あれだけ苦労して開けた扉は、いとも簡単に閉じられた。
大きく息を切らして、廊下に横たわる。下半身は土間に伸ばして、揃えられていた靴はひまりによって散らされていた。
呼吸が苦しくて仕方がない。
家から出ようという気はもう二度と湧いてこないだろう。
やはり人殺しの自分なんかが夢を見ていい世界ではないのだ。まるで外の世界から拒絶されたかのように、一人、玄関で横たわっていた。
荒い息遣いだけが残る。
三分ほどして母親と灯花が帰ってくるまで、ずっとそうしていた。
母親と内山さんは結婚し、つい先日には灯花も産まれた。この状況は「高木ひまり」の人生とは大きくかけ離れているが、それでも今の生活は生前に比べたらずっといい。やはり人生というものは、環境が左右するのだろう。
いつも一人だった家が賑やかになったということもあるだろうが、母親と内山さんが幸せそうな顔をしているから、自分も幸せに感じるのだと思う。しかし実際のところ、今の自分は幸せなのだろうか。きっと自分は彼らの姿を見て、幸福を頂いているだけだ。
一歩一歩、ひまりなりの人生を進んでいけばいい。
母親は三十六歳で結婚して子供も産んだ。まだ中学生の自分に変わるチャンスがない訳がない。少しずつ、前へと進んでいこう。少しずつ。
その日は一か月検診と呼ばれる、赤ちゃんが生まれてから初めての通院の日で、母親と灯花は家に居なかった。内山さんは仕事で、ひまりは久方ぶりの一人の時間を過ごしていた。
リビングのソファで、今までそうしていたように寝転がって本を読んでいたが、どうにも落ち着かなかった。どうやら自分は思っていたよりも、灯花の存在に元気を貰っていたらしい。今が物凄く寂しく感じた。
そして、母親は出産を機に仕事を辞めるらしい。内山さんと話し合って決めた事だからひまりは何も文句はなかった。内山さんにも「ひまりちゃんが進学できるくらいのお金は十分にある」と言った。優秀だと聞いていたが、見せてもらった収入も物凄い額だった。それは生前の親父と同じくらいの金額であり、年収にすれば四桁を優に超える。
自分の将来の選択肢が大幅に広がった一方で、今の自分は選ぶ段階にいない。いつまでも引きこもっているわけにはいかないのだ。未来の自分のために、そして家族に心配をかけないように、負担を掛けないように、学校に行かなくてはならない。
ひまりはソファから身体を起こした。
何事も初めは小さな一歩から。まずは家を出てみることから始めよう。
ひまりは本にしおりを挟んで、寝間着を脱ぎ、シャツ一枚のまま自室へと向かった。そして私服に着替えるためにタンスを開いた。いつも家にいてばかりのため、寝間着以外の服装に着替えるのは久しぶりだった。
姿見鏡を前にして、モデルの真似事をしてみる。一年ぶりくらいに着た黒いパーカーとデニムパンツ。中学生は成長盛りだ。ひまりも身体は大きくなっており、一年前には丁度良かったパンツが、今では入らなかった。
留め具が閉まらなかったため、恐らくは太ったのだろう。それを認めたくなくて、身長が伸びたせいにしておく。
幾つか着てみたが結局、自分に丁度いいパンツやスカートがなかったため、母親の物を勝手に持ち出してきた。それを着て再び姿見鏡の前に立つ。おしゃれに疎いため、この服装がどんなものかは分からなかったが、少なくともひまりにはそれなりにおしゃれに見えた。
黒のパーカーにクリーム色のラフなパンツ。どれもオーバーサイズだが、逆にそれが流行の最先端を走るモデルのように見えなくもない。腰に手を当てて、ポーズを取ってみる。
ふと冷静になってみると、誰も見ていないのに急に恥ずかしさが込み上げてきた。生まれ変わってからというものの、おしゃれと言うものには手を付けてこなかった。しかし折角顔が整っているのだから、一度くらいはおしゃれをしてみたかったのだ。
今まではおしゃれなんて引きこもりの夢物語だったが、将来を考えて引きこもりを引退しようとしている今、それは現実のものとなりつつあった。
踊る気持ちそのまま、ひまりはスキップをしながら階段を下り、リビングへと戻った。
ただ少し、家の周りの道路を歩いてみるだけでいい。
距離にして百メートルはないだろう。しかしその百メートルまでの道のりが、何よりも遠い。
着替えたひまりは顔を入念に洗い、長く伸びた髪を櫛でとかした。何年かぶりに外に出ようというのだ。折角なら寝間着姿ではなく、少しくらいはおしゃれをしてもいいだろう。
そうして身なりを整えたひまりは、ついに玄関の前へと立つ。いつも「ただいま」を言うこの場所は、「いってきます」を言う場所でもある。
靴を履くのも数年ぶりだった。玄関に自分の靴が無かったため、内山さんがいつも履いているサンダルを借りることにする。
廊下から靴の並ぶ土間へと降りた。
目の前にある扉が、どこまでも遠く感じた。そしてその奥にはきっと未来が広がっている。
しかし足が震えて、動こうとしない。ドアノブに伸ばそうとする手は、勝手に体脇へと戻っていく。この首筋を伝う汗は、梅雨を間近に控えたためではないだろう。
しかし不登校は克服しなければならない。それが義務であると考えると、身体も仕方がないと言うように緊張を解いた。
その腕をゆっくりと、一秒に数センチずつ伸ばしていく。
筋力トレーニングのように緩やかに上昇していく右腕は、疲労からか緊張からか、再び震えだした。肩の前の方の筋肉が焼けるように痛い。でも今、腕をおろしてしまったら、二度とこの扉を開くことが出来なくなる気がして、何かに縋るようにその手はドアノブへと伸びていく。
私はきっと生まれ変わってから初めて藻掻いている。
思えばずっと逃げてきた。人との接触が恐ろしくなって、そ塞ぎこむように家を聖域にした。でもそれは、生まれ変わる前も同じだったではないか。
生まれ変わってからではない。生まれ変わる前から、三十三年の命を通じて、今初めて自分に抵抗しようとしている。
折角生まれ変わったのだ。変わらなければ、意味がないだろう。
もう、こんな自分は嫌なんだ。
手が届いた。ガチャリと音を立てて、ドアノブが下がった。あとは前に力を掛けるだけ。それで自分は前へ進める。
しばらくそうしていた。そのころには汗も乾き、心が落ち着いていた。不思議と身体の震えが止まり、誰かが背中を押してくれたように足が前に出た。
扉は開いた。
世界は閃光に包まれた後、次第に色付いていく。
その先にはいつも窓越しで見ていた景色が広がっていて、まるで夢が現実に現われたかのような感覚を覚えた。目の前に広がっているのは、道路で、民家で、青い空で、ただの日常だ。
ひまりはそれが怖かったのだ。そこを歩く人間が怖かったのだ。
でも今は平日の午後。
誰も通らないその通りは、ひまりには好都合だった。ドアノブから手を離し、さらに足を一歩踏み出してみる。よく知っている景色を自分で歩くことに喜びを感じた。
まるで怪獣が街を踏み荒らすかの如く、小さく緩やかな歩幅で、遅くとも確かに進んでいく。すると屋根の影から身体が出た。太陽がひまりの不健康な肌に突き刺さった。
六月の日差しでもひまりには十分痛かったが、それすらも喜べた。何しろ自力で家を出ることが出来たのだ。大きな進歩だろう。
目の前の世界に見惚れていると、目の前を自転車が通った。
途端、身体が拒絶を示した。身体の奥の方で何かが暴れ出した感覚に襲われ、慌てて家の中へと戻る。
症状は治っていなかった。
その足取りは、今までの遅速を反対にしたように素早く、あれだけ苦労して開けた扉は、いとも簡単に閉じられた。
大きく息を切らして、廊下に横たわる。下半身は土間に伸ばして、揃えられていた靴はひまりによって散らされていた。
呼吸が苦しくて仕方がない。
家から出ようという気はもう二度と湧いてこないだろう。
やはり人殺しの自分なんかが夢を見ていい世界ではないのだ。まるで外の世界から拒絶されたかのように、一人、玄関で横たわっていた。
荒い息遣いだけが残る。
三分ほどして母親と灯花が帰ってくるまで、ずっとそうしていた。