貴妃未満ですが、一途な皇帝陛下に愛されちゃってます

 ふらつく紅華を支えて、天明は用意しておいた馬車に乗せる。握った紅華の手に視線を落とした天明は、すさまじい渋面になった。

「あいつ……せめて蹴り飛ばしてくればよかった」

 細い手首には、縛られていたあとがすりむけて真っ赤になっていた。自分でほどこうと無理やり引っ張ったせいだ。

「晴明陛下はそんなこといたしませんよ」

「俺ならする」

「それでも、欄悠を切らないでくれたのですね」

 さきほど天明が言ったように、皇帝の命を狙ったとなれば、問答無用で切り捨てられても文句は言えない。たとえ自分を裏切った男でも、紅華は、目の前で欄悠が殺される場面など見たくなかった。

「それは、晴明の仕事だ。あれでも、お前の元婚約者だろう? お前に恨まれるようなことは、すべて晴明がやればいい」

 ぶっきらぼうに言った天明に、紅華は微笑む。あの状況でも、そんな紅華の気持ちを気遣ってくれた天明の心が嬉しかった。

「間に合わなくて、悪かった」

「いえ? 私はこの通り、無事ですよ」

「痛かっただろう」

 天明が、そっと紅華の手を包む。

「本当なら、傷一つだってつけたくなかったんだ」

 そういう天明の方が、よほど辛そうな声をしていた。その天明を見上げる紅華の心は、不思議なほど凪いでいた。

(私、やっぱりこの人が好きなんだわ)

 同情なんかではない。あれほどに天明に腹を立てたのは、その心を占めていた睡蓮に対する嫉妬だと紅華は気づいた。薄々、気付いていたのだ。

 いつからこんな想いを抱くようになったのか。紅華は、天明をまじまじを見つめた。そしてふと気づく。その頬にも腕にも、殴られたような痕やかすり傷があちこちにあることを。それを見て、さらに紅華の胸は熱くなった。

(天明様……)

 紅華は、せまい馬車の中でなるべく天明から距離を取る。

「紅華?」

 自分に背を向けた紅華を、天明は覗き込もうとする。

「こっちこないでください」

「どうした? 気分でも悪いのか?」

「最悪です」

 それを聞いて天明の血の気がひく。

「あいつになにかされたのか? わかった。このまま医者に行こう。それまでがまんできるか?」

「できません。お医者様になど、治せません」

 拗ねたような口調に天明は首をひねる。

「……どうした?」

「どうもしません」

「だが……」

「私のことなど、もう放っておいてください」

 なにか気分、いや機嫌の悪そうなことはわかるが、天明にはどうしたらいいのかわからない。

「何を言っているんだ。一体……」

「だって」

 うつむく紅華の声が、細くなっていく。

「天明様は、私より睡蓮の方がいいのでしょ?」

 天明の目が点になった。

「……は?」

「晴明様とお話されていたではありませんか。睡蓮を、愛していると……」

「………………ああっ!?」

 紅華が何を気にしているか思い当たった天明が声をあげた。

「違う! あれはもう幼い頃の話で……」

「本当に?」

 ちら、とわずかに降り返った紅華に、天明はめずらしくあたふたとする。

「本当に!」

「そんなこと言って、しょっちゅう翡翠宮に来ていたのも、実は睡蓮に会いたくて」

「違う! 俺は、お前に会いたかったんだ!」

 慌てる天明は、また背をむけてしまった紅華の肩が震えていることに気づいて声を詰まらせた。

「紅華……睡蓮に惚れてたのなんて、本当に子供のころの話だ。今はまったくそんなこと思ってない。俺が愛しているのは、睡蓮じゃない。……紅華、お前なんだ」

「私……?」

「ああ」

「本当ですか?」

「もちろん。お前を……愛している」

「天明様!」

 振り返った紅華は、満面の笑顔だった。再び天明の目が点になる。

「紅華? お前、泣いて……」

「誰がですか?」

 けろりと言いながら紅華は、天明に抱きついた。

「おい?」

「そんなにぼろぼろになってまで助けに来てくださった方のお気持ちを、疑う訳ないじゃないですか」

 天明は、たった一人であの別邸に乗り込んできた。他の衛兵たちが追いつけないほどに、急いで馬をかけさせたのだ。実際、紅華たちがのった馬車の隣には、天明の乗ってきたらしい馬が立っていた。

 衛兵が辿り着くまで待つ余裕がないほど紅華の身を案じていたのは、乱闘で傷だらけになった天明の様子を見れば見当がつく。

 一杯食わされたことに気づいた天明は、大きく息を吐いて紅華の体に腕をまわすと抱きしめた。

「人が悪すぎるぞ、紅華……」

「意地悪な天明様には、これくらいでちょうどいいのです」

「なんでこんなことを?」

「聞きたかったのですよ。天明様の、お心が」

「まったく……さっきまで青い顔してたくせに……」

 ぶつぶつ言っていた天明は、紅華を抱きしめる腕にかなりの力を込めた。

「天明様……ちょっと、苦し……」

「紅華」

「はい?」

「このまま実家に帰れ。お前は、貴妃を辞退したと晴明には報告する」

 ひゅ、と紅華の喉がなった。

「な、ぜ……ですか?」

 紅華に回していた腕をほどいて、天明は真正面から紅華を見つめる。その顔に笑みは乗っていなかった。

「お前まで巻き込む気はなかった。俺たちにはこんなこと日常茶飯事だが、お前には同じ生活を送らせたくない。だから、もう後宮には戻るな。もし戻ればきっとまた……」

「だって、今、愛しているって……!」

「だからだ」

 ため息混じりのかすれた声で、天明が言った。

「お前が大切だから、危険な場所にお前を置いておきたくない。一生あの後宮から出られない亡霊の俺には、お前にしてやれることなんて……何一つないんだ」

 それを聞いて、紅華は思い切り顔をしかめる。

「……そうですか。そうやって睡蓮の事も早々にあきらめたんですね」

 天明は答えなかった。き、と紅華は鋭い目で天明を見返す。

「お断りします」

「紅華」

 駄々っ子に言い聞かせるような天明の声を聞いて、紅華は、ぐ、と拳に力をこめた。

「欲しいものがあるのです。それは、後宮でしか手に入らないので、私は後宮を去る気はありません」

「欲しいもの……何だ?」

「皇帝陛下です」

 天明が、剣呑に目を細める。

「……晴明と睡蓮の気持ちを知っていて、それを言うのか」

 紅華は、強い天明の視線を臆することなく受け止めた。

「私は、後宮で光となります」

「光?」

「影ができるには、必ず光が必要なのです。ですから、影を守る光となって、その影と共に一生を生きていきたいのです」

 一瞬の後、その意味を悟った天明の目が大きく開かれる。

「紅華……」

「いけませんか?」

 仰ぎ見てくる紅華に、天明が苦笑した。

「なるほど。『皇帝陛下の妃』、か」

「いけませんか?」

「……とにかく、いったん宮城へ向かおう」

 紅華から視線をそらして、天明はようやくそれだけを言った。

(意気地なし)

 紅華は心の中でひとりごちた。

「天明様」

「なんだ」

「助けて下さって、ありがとうございました」

 ちらりと視線を向けた天明は、何も言わずにまた窓の外を向いてしまった。

  ☆

「紅華様!」

 後宮に戻ると、睡蓮が紅華に飛びついてきた。

「ごめんなさい、睡蓮。心配をかけたわね」

「いいえ! ご無事で、本当に何よりでした」

 そう言ったとたん、安心したのか睡蓮の目から涙があふれた。泣きじゃくる睡蓮をなだめながら、三人は紅華の部屋へと戻る。部屋では、晴明も待っていた。

「紅華殿」

「陛下、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「迷惑をかけたのは、こちらの方だ。危ない目に合わせてしまって申し訳ない。二人とも、無事でよかった」

 安堵する晴明は、涙のとまらない睡蓮に寄り添ってその背をさすってやる。睦まじい二人の姿を見ながら、紅華は姿勢を正した。

「陛下、お願いがあります」

「なんだい?」

「どうか、私をこのまま後宮においてください」

 は、と睡蓮が顔をあげる。

「これからも、私は貴妃として……いえ、淑妃でも賢妃でもかまいません。どうか、皇帝陛下のご寵愛を求めてもよい立場を、私にください」

 泣きそうな、それでいて笑いたいような表情になった睡蓮とは逆に、晴明は、嬉しそうに顔をほころばせた。

「そうか。決めたんだね」

「はい」

「構わないよ。このまま貴妃として後宮に残って、皇帝を支えておくれ」

「はい」

 そう言うと晴明は、うつむいてしまった睡蓮に向かって手を伸ばした。

「おいで。睡蓮」

「え?」

 顔をあげた睡蓮は、おだやかに呼んだ晴明を仰ぎ見て瞠目した。

 優しそうな笑顔はいつもの事だが、その目には今まで見たことのない強い光が宿っている。

「陛下……あの、どこへ?」

「これから何があっても、僕を信じて」

 困惑したまままじまじと晴明を見つめていた睡蓮は、状況がわからないながらも、こくり、と頷く。

「じゃあ、行ってくるよ、天明」

「ああ。しっかりな」

 しっかりと手をつないで二人が出て行くと、紅華は天明に聞いた。

「陛下は、どこへ睡蓮を?」

「多分、宰相のところだ」

「宰相?」

「お前が決めたんだ。晴明だって、ここは男として決めなければいけないところだろう」

「では」

「きっと、睡蓮を後宮に入れる話だ。とりあえず妃が二人いれば、しばらくは議会も静かだろう。……で、お前は本当にいいのか?」

「何がですか?」

「このまま、後宮の妃として残って本当にいいのか? さっきも言ったように、後宮にあるからには命を狙われることだってある。今ならまだ間に合うんだ。実家に戻る気はないのか?」

 紅華は、一度目を閉じて大きく深呼吸した。そして落ち着いてから目をあけると、正面から天明を見つめた。

 運が目の前にきたら、迷わず掴むこと。父の言葉が頭をよぎる。

「天明様が後宮から出られないのなら、私も一生後宮から出ません。たとえ後宮から出られなくても、天明様にできること……ちゃんと、あるんです。ですから、天明様も……私と一緒に、覚悟を決めてください」

 しばらくの間、何かを考え込むように黙って紅華を見つめていた天明は、ぽつりとこぼした。

「何故だ?」

「何故?」

「何故、お前は妃のままでいたいのだ?」

「だからそれは、皇帝陛下のお側で……」

「何故?」

 畳み掛けるように言われて困惑した紅華だが、天明の目が何かを期待するように光っているのを見て、ようやく彼が何を言わせたいのかに気づいた。

「そ、そんなの……! 決まっているじゃないですか」

「さあ? 俺にはわからん。それを聞くまでは覚悟なんかできないな」

 にやにやしている天明をにらみつけたまま、紅華はふくれっつらになる。

「やっぱり天明様は意地悪です」

「俺にばっかり言わせるからだ」

「あれは勝手に天明様が言ったんじゃないですか!」

「お前がはめたからだろう。……俺だって、聞きたいんだよ。お前の口から」

 言いながら、天明は紅華の腰に手をまわして引き寄せる。片手であごをとられ、うつむくことを許されない。間近で見つめあう天明は、それはそれは楽しそうな顔をしていた。

「ん? 紅華?」

 とんでもなく優しい表情と声で言われたら、紅華も本音を言わないわけにはいかない。

「あ……」

「うん」

「あ……」

「あ?」

「愛、して……おります」

「知っている」

 天明は嬉しそうに答えて、真っ赤な顔の紅華に唇を重ねた。

 誰かが紅華の部屋の扉を叩いた。

「どうぞ」

「紅華様」

 扉があいて顔を出したのは、睡蓮だった。

「こんにちは。お加減はいかがですか?」

「ええ、ありがとう。それより睡蓮こそ、呼んでくれたらこっちから行ったのに。足元、気をつけて」

 紅華は、大きなお腹を押さえながら入ってきた睡蓮を気遣うように椅子をすすめた。睡蓮は、礼を言ってその椅子に座る。

「もう産み月なので、なるべく動いた方がいいのだそうです。それに、紅華様の方が今は大事な時期でしょう? つわりはもう、おさまりましたか?」 

 紅華も、その前の椅子に座ってため息をついた。

「ええ、ようやく。睡蓮はほとんどなかったわよね。あれを見ていたから、つわりってもっと楽なものかと思っていたわ」

「私の場合は食べていれば大丈夫だったので、逆に食べ過ぎないようにするのが大変でした」

「どっちにしても、出産って大変なのねえ。それはそうと睡蓮、私相手にそんな言葉遣いはいいっていったじゃない。あなたは皇后なんだから」

「あ……つい、くせで」

 恥ずかしそうに睡蓮が頬を染めた。話している二人の前に、ことりとお茶が置かれる。

「産まれたらもっと大変ですのよ」

 紅華つきの女官、白露が笑いながら言った。

 白露は、睡蓮の後に紅華付きとなった女官で、自身も3人の子供を産んでいる年配の女性だ。ずっと天明の世話を務めていたが、睡蓮が皇后として後宮入りしたことでその後任を引き受けることとなった。

「お二人とも、ご自分でお育てになるのでございましょう? 生まれたての赤ん坊なんて、一日中泣いているかお乳を飲んでいるかむつきを変えているか。いずれにしろ、大変ではありますよ」

「あまり脅かさないでちょうだい、白露。あなたも手伝ってくれる約束でしょう?」

 げんなりした顔で紅華が言った。

「ほほほ、もちろんです。私だけではありません。お子たちがお生まれになったら、きっと他の女官たちだってこぞって面倒を見たがりますわ。楽しみですわね」

 その時、また扉がたたかれた。白露が開けると、女官が一人立っている。その女官が白露に何事かをささやくと、白露が驚いたように振り向いた。

「皇后様、貴妃様」

「「え?」」



 女官の後に続いて現れたのは、白露ほどの年配の女性だった。紅華と睡蓮は、奥の長椅子を空けてその女性を待つ。

「まあ、お二人とも、大事な体なのだからどうぞお座りになって」

 おっとりと言って微笑むのは、皇太后である。

「ようこそおいでくださいました、皇太后様」

 紅華が言って、皇太后に椅子をすすめる。皇太后が女官を帰して椅子に腰を下ろすと、二人も卓を囲む形で座った。

「沙皇后様がいらっしゃっていることを知らずに来てしまって、ごめんなさい。お二人の時間を邪魔してしまいましたね」

「いいえ、邪魔などと。にぎやかになって、嬉しいですわ」

 紅華の言葉に、睡蓮も微笑んで頷く。ほ、としたように皇太后も笑った。

 二人は、この穏やかな義母が好きだった。

「よかった。実はわたくし、蔡貴妃様だけでなく沙皇后様ともゆっくりとお話をしたいと思っていたのです。お二人に……感謝を」

「感謝……ですか?」

 紅華と睡蓮は顔を見合わせる。

「私の子どもたちを、愛してくれてありがとう」

 は、と二人は顔をこわばらせた。

 紅華が貴妃に、睡蓮が正式に皇后となって後宮入りしてもう一年になる。その二人が次々に身ごもったことで、晴明の世継ぎは安定、と世間では思われていた。

 どちらの父親も『皇帝陛下』には違いないのだが、その秘密を知るものは少ない。

「申し訳ありません」

 突然、白露がその場に伏せた。

「皇太后さまにお話したのは、私です」

「白露」

 驚いた紅華は、あわてて白露のもとに座り込む。

「顔をあげて。怒ってはいないから」

「本当なら、決して口にしてはならない秘密です。ですが、天明様を我が子晴明様と同様に愛して育てられた皇太后さまには、どうしても、どうしても、知っていただきたく……」

「話してくれて嬉しかったわ、白露」

「皇太后さま」

 白露を落ち着かせた紅華は、また椅子に座りなおす。

「あの子を、愛してくれてありがとう、紅華様」

 紅華は、おだやかなその顔を見返す。

「あの子はね、幼いころから、父である皇帝陛下を尊敬して、いつか自分も陛下のように国民のために働くんだ、と事あるごとに口にしておりましたの」

「天明様が、ですか?」

 のらりくらりと生きてきた天明にそんな時期があったとは、にわかには紅華は信じられない。

「ええ。天明が変わってしまったのは、自分が本当はいない子だと知った時……あの離れの宮で一生を終えなければならないと知った時です。絶望に落ちた天明に自分と入れ替わるいたずらを言い出したのは晴明でした。自分のふりをすれば宮から出ることもできる、と。長じるにつれて度々命の危険を感じた晴明は、もう自分のふりはやめろと天明に何度も言ったのですが、むしろ天明はすすんで晴明の影武者を引き受けるようになりました。時には、囮になるような危険な真似まで……優しいあの子がどんな思いでそんなことをするのか。その気持ちは痛いほどにわかりました」

「それだけが自分の存在価値だと、天明様が言っていたことがあります」

 どこか寂しく言っていた天明を思い出して、紅華は少しだけうつむいた。あの頃の天明にとって、未来は存在しないものだった。

 けれど、紅華が後宮から誘拐されたあの事件の後、天明は変わった。

 事件に関わった多くの官吏が次々に捕縛され、その家は家財没収で追放された。欄悠は死刑こそまぬがれたものの、着の身着のままで陽可国を追い出され、その行方はわからない。

 宮中は前皇帝陛下の喪中の中でさらに混乱に陥った。それを見事に建て直した晴明の実力を、今の宮中に疑うものはいない。

 時折晴明と入れ替わることはままあるが、いままでのように自分から危険に飛び込むような真似はしなくなった。今の天明は、未来をしっかりと見据えて晴明を支えて生きていくことを選んだのだ。

 わずかに憂いてしまった紅華を見て、皇太后は顔をほころばせる。

「あの子が、晴明以外の人にも愛情を抱ける日がくるなんて……そして、その想いが実を結ぶ日が来るなんて、これほど母として嬉しいことはありません。ありがとう、紅華様。そして、睡蓮様も」

「はい」

「晴明は、皇帝としての自分の存在意義を、必要以上に重く受け止めています。幼いころから一緒だったあなたでしたら、きっと晴明の痛みや苦しみ、喜びも分かち合える存在となれるでしょう。どうか、あの子の良き支えとなってあげてくださいね」

「はい。私は、晴明陛下に愛されて、今とても幸せです。陛下にも同じように幸せと思っていただけるように心から尽くしていくつもりですが、まだまだ未熟です。これからも、皇太后さまの良きお導きを」

「睡蓮……ありがとう」

 うっすらと涙ぐんだ二人が手を取り合っていると、みたび扉が叩かれいきなり開いた。

「紅華、こないだ言ってたお茶を……げ」

「げ、とはなんですか。ご挨拶なさってください」

 瞬時に教育係に戻った白露が、逃げかけた天明を捕まえて部屋に連れ込んだ。

「女同士でなんの集まりですか、母上」

「お茶をしにきただけですよ。あなたも一緒にどうですか?」

「いや、俺は……これを紅華に」

 天明は、持っていた袋を紅華に差し出す。

「白露に聞いたつわりに効くという茶だ。気分がすっきりするらしい」

「ありがとうございます。わざわざ取り寄せてくれたのですね、天明様」

 笑んでその袋を受け取った紅華を、皇太后は嬉しそうに見つめる。

「天明、紅華様を大事にね」

 少し驚いたような顔をした天明は、ばつがわるそうに視線をそらした。

「わかっております。……赤ん坊が生まれたら、どうか抱いてやってください」

「もちろんよ。楽しみだわ。でも先に睡蓮様の方が……睡蓮様?」

 緊張した声で問うた皇太后に驚いて、みんなが睡蓮を振りむいた。唇をかみしめる睡蓮の額には、汗が浮かんでいる。

「申し訳ありません。今朝から少しお腹が張るような感じがして……」

「まあ。痛みがあるの?」

「でも、先週も何度か痛みましたけれど、たいしたことはありませんでしたから」

「白露、すぐ典医に連絡を」

「皇太后様?」

 急ぎ足で出て行った白露を見送って、紅華は不安そうに振り返る。

「もしかして……」

「おそらくは。いよいよですわ、睡蓮様」

「ええっ?! こ、ここで生まれるのですか?!」

「そんなにすぐには生まれませんよ。これから一昼夜かけて、赤子がゆっくり降りてくるのです」

「一昼夜……」

 睡蓮と紅華があおざめる。確かにそれは聞いていたが、いざその時がくると、恐ろしいような気持ちになってきた。そんな二人に、皇太后は微笑みかける。

「大丈夫。私たちがついていますからね。さあ、産室に移りましょう」

「はい」

 よろよろと立ち上がった睡蓮は、皇太后に連れられて出て行った。

「天明様……」

 辛そうな睡蓮の様子に半年後の自分の姿を重ねて、紅華は、ぎゅ、と天明の袖をつかむ。その紅華を座らせて、天明も隣に座るとその体に自分の腕を回す。

「大丈夫。きっと無事に産まれる。俺たちの子供も」

「はい」

「お前には辛い思いをさせるな。だが、俺もついているし、睡蓮も白露も、母上もいる。みんなで乗り越えよう」

「はい。天明様」

「ん?」

「生きて、くださいましね」

 かすかに目を瞠った天明は、愛おし気に目を細めて紅華を見つめる。

「ああ。これからも『皇帝陛下』ではあり続けるつもりだが、死んでもいいとはもう思わない。守るものが増えたんだ。せいぜい、死に抗って生きてやるさ」

「頼みますよ。おじいちゃんになってもおばあちゃんになっても、一緒に生きていきましょう」

「楽しみだな」

 笑った天明は、力を籠めすぎないように紅華を抱きしめた。



 宮城に明るい知らせが飛び交うことになるのは、次の朝の事だった。そしてまた、半年後にも。陽可国には、しばらく明るい知らせが続くことだろう。





  【終】
 天明は、自分の宮で長椅子に寝そべって書を読んでいた。

 読んでいたといっても、頭にはいるわけでもなく、ぼんやりと目が字を追っているだけだ。

 今夜は、皇帝の婚礼が大々的に行われている。晴明と、その皇后となった睡蓮が、今頃たくさんの人々に囲まれて祝福されているに違いない。祝福する人々の中には、正式に貴妃となった紅華も含まれている。

 けれど天明が宮中の儀式に出ることは決してない。こうしていつも通りに黒曜宮でおとなしくしているだけだ。

 夜もふけてきて眠らなければならないとは思うのだが、眠気はいっこうに訪れてはくれない。

 天明はむくりと起き上ると、扉をあけて中庭へと出る。満月に近い月が、明るく草木を照らしていた。さく、と足元で草を踏む音だけが耳に響く。

 今までもこんなことは当たり前だったのに、今夜の晴明はひどく珍しい感情に囚われていた。

(寂しい)

 絶対口にはしないけれど、そんな感情が自分の中に戻ってきたことが天明には驚きだった。そんな風に思うのは、どれくらいぶりだろう。

 自分は一人が当たり前で、今までもこれからもそうやって孤独に生きて死ぬものだと決めていた。なのに今の天明の心の中には、ぽっかりと黒い穴があいていることを認めざるを得ない。

 原因はわかっている。

 紅華だ。

 紅華が後宮へと来るまでは、晴明を守ることだけが自分の存在意義だと思っていた。けれど、紅華に出会って、自分を認められて、お互いに愛し合うようになって。

 一人が淋しいなんて感情は、あの日にとうに無くしたものだと思っていたのに。

「こ……」

 無意識のうちにつぶやきかけて、天明は我に返った。

(情けね)

 そんな自分を笑った時だった。

 きい、と微かな音がして、反射的に天明は振り返る。そして目を瞠った。

 牡丹の庭からの扉が開いている。そこにいたのは、華やかな衣装を着た紅華だった。

「あ、天明様!」

 向こうも天明に気づいて、満面の笑顔をその顔に浮かべた。

「よかったあ。もうお休みになってしまったかもしれないと、ひやひやしながらここまで来たんですよ」

 天明には、駆け寄ってくる紅華の周りだけが、まるで昼になったかのように明るく見えた。その笑顔を見ただけで、自分の中の寂寥が霧散するのがはっきりとわかる。

(重傷だな)

 天明は、微苦笑した。

「お前、婚礼の儀に出てたんじゃないのか?」

 きらびやかな衣をひらめかせて、紅華は天明の前に立った。

「もちろん出てましたよ。ちゃんとお二人にはお祝いの言葉を述べてまいりました」

「で、なんでここに? それに、その服……」

 紅華は、くるりと回って見せた。

「どうです? 素敵でしょう?」

 紅華が着ていたのは、金糸銀糸の刺繍を施した緋色の衣だった。後宮に来る際に紅華が着てきたそれは、本来なら、今夜は睡蓮だけに着ることが許される花嫁の衣装だ。貴妃といえど、紅華がこれをきて婚礼の席に出ることはできない。

「いや、そういうことではなく……」

「だって、私は『皇帝陛下』の妻ですよ? 今夜は皇帝の婚礼ですもの。私の衣装は、これでいいんです」

 それを聞いて天明は、は、とした。

「……似合いませんか?」

 反応の鈍い天明に、紅華は不満そうに口をとがらせる。拗ねてしまったその表情を見て、天明は、柔らかい笑みを浮かべる。

「似合っている。素晴らしく綺麗だ」

「そうでしょう? こんなに綺麗な服は……」

「違う」

 天明に言葉を遮られて、紅華がいぶかし気に天明に視線を向けた。

「綺麗なのは、お前だよ。陽可国一美しい花嫁だ」

 そう言って笑った天明に、紅華が、か、と頬を染めた。天明は紅華の手をとる。

「わざわざ俺のために着替えてきてくれたのか」

 紅華は赤い顔をしたまま、こくりと頷いた。

 これは、紅華がたった一人のためだけに着る花嫁衣装だ。
「この衣装を着るのは、大好きな人の元に喜びにあふれて向かう時と思っていました。その夢が叶って、私、とても嬉しいです」

「そうか。綺麗だ。本当に。俺は……こんなにも幸せになっていいのだろうか」

「天明様……」

 こんな日が来るとは、天明は思っていなかった。未来を望むことに慣れていない天明は、差し出された幸せを手放しに受け取ることができない。

 きゅ、と紅華は天明の手を握り返して、めずらしく心細げなその顔を見上げた。

「幸せになりましょう。私と……みんなと、一緒に」

「紅華」

「あなたの幸せを、みんなが望んでいます。晴明様も、睡蓮も、皇太后さまも……そして、誰よりも私が。誰か一人が欠けても、それは本当の幸せではありません。だから、みんなで幸せになりましょう」

 言葉を詰まらせた天明に、紅華はそっと寄り添う。

「今夜は、戻りません」

「ん?」

「だって私たちは夫婦になったんですから……今夜は、共に」

 その意味を悟った天明は、なぜか泣きたくなって自分に添った細い体をそっと抱きしめた。

(幸せ、か。俺には縁のないものだと思っていた)

 天明は、言葉には出さずとも腕の中のぬくもりに誓う。

(紅華を、誰よりも幸せに。それが、これからの俺の生きる意味だ)

「いいのか?」

「はい」

 紅華の返答には、欠片の迷いもなかった。いつも通り、紅華は紅華のままに。

(そうだ。これが、俺の惚れた女だ)

 天明も少しだけいつもの調子を取り戻して、にやりと笑ってみせる。

「結婚初夜、か」

 紅華の、顔どころか首筋までが赤く染まった。

「わ、わざわざ言わなくていいです!」

「抱いていいんだろ?」

「だから!」

「はいはい。本当に、紅華は可愛いな」

 細かく結い上げた美しい黒髪に、天明が口づける。

「……面白がっていますね?」

「さあ?」

 紅華は頬を膨らませて天明を睨むが、天明はその頬にもまた口づける。愛しげに髪をなでられれば、紅華もいつまでも拗ね続けられるものではない。

 しばらく視線をさまよわせていた紅華が、おそるおそるいった。

「あの……一つ、お願いしたいことがあるのですが」

「なんだ?」

「この服……」

 紅華は、少し体を離して自分の姿を見下ろす。

「これ正装ですから、複雑すぎて私一人では脱げないのです。あの……大変申し訳ないんですけど、脱ぐのを手伝ってもらえますか?」

 着替えを手伝うのは、侍女の仕事だ。そんなことを皇帝にさせてしまうことを紅華は申し訳なく思う。

 恥ずかしそうに上目遣いになった紅華に、天明は、ついに声をあげて笑った。

「願ってもない」

 そう言って天明は、明るい気持ちで紅華の手を引いて黒曜宮へと向かった。




【終】

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