家のものとは違う。パリッとしたシーツに、広々とした寝心地のいいベッド。まるで高級ホテルみたいだ。ずっと薄い布団を使っていたので逆にどうも落ちつかない。肌触りのよいシャツはもしかすると暁のものなのか。体が熱く息苦しさを感じて大きく息を吐くと、部屋のドアが開く気配を感じた。

「とりあえず薬を飲んでおけ。人間なら必要だろ」

 現れたのは暁で、手には市販薬と水の入ったコップを持っている。そんな暁を見上げながら咲耶は弱々しく返す。

「大、丈夫。いらない」

 咲耶の答えに、暁はあからさまに不機嫌な顔になった。先ほどのこともあり少しだけ怯んだ咲耶だが、たどたどしく補足する。

「今、まで……体調崩しても自力でなんとかしてきたから」

 病院なんてめったに連れていってもらえず、薬さえ与えてもらえなかった。だから咲耶にとってこうして横になるのが一番の回復方法だ。
 暁はさらに咲耶のそばに近寄り、サイドテーブルに薬を置くと、咲耶を抱き起こしにかかる。

「いいから飲んでおけ」

「私が病気の方がいいんじゃない?」

 ひとまず上半身を起こされたが、なんとも気まずい気持ちもあってわざとおどけてみせる。咲耶を不幸にしたいなら、弱っている今の状態が彼にとってはいいのではないか。

「死なれるのは御免だ」

 ところが暁から端的に返された言葉に咲耶は目を見張った。

「人間はすぐに死ぬ」

 そこにはなんの感情も込められておらず、あまりにも冷たい言い方に一瞬、戸惑う。だから、というわけではない。咲耶は渋々暁から薬を受け取った。白い錠剤を水で喉の奥に流し込み、再び倒れ込むように横になる。

「ありがとう」

 ぽつりと呟き、目を閉じた。世話が焼けると愚痴をこぼされたが、むしろ世話自体もう長い間、焼いてもらっていない。自分でなんとかしないと。
 幼い頃、熱を出して寝ていたらいつも以上に心細くなり、そばにいてほしいとよく母にねだった。

『大丈夫、お母さん、そばにいるからね』

 優しく頭を撫でながら微笑む母をすぐ近くで感じ、申し訳ないと思いつつ忙しい母を独占できて咲耶は嬉しかった。このときばかりは体調を崩すのも悪くないと思う。たくさん大事にされて愛されていると実感する。
 けれど母が亡くなり、公子の家に引き取られてからは、ひたすらひとりで横になって体調が回復するのを待つしかなかった。いつかは良くなる。そう信じて目をつむるが、言い知れない寂しさがいつも心の中を蝕んでいった。

『咲耶』

 忘れない。母の笑顔も声もいつまでも鮮明だ。忘れるわけにはいかない。父については幼くてほとんど記憶にない。だから自分が覚えておかないと。

「おかあ……さ」

「あいにく、俺はお前の母親じゃないな」

 頬に冷たいものが滑って枕を濡らしたと感じるのと同時に咲耶は大きく目を見開いた。

「な、え?」

 自分を見下ろしている暁が目に飛び込んできて、なにが現実でなにが夢なのかすぐにはっきりさせられない。そっと暁の長い指が咲耶の目尻に沿わされ、涙を拭う。彼は楽しそうに笑っていた。

「なかなかいいものを見させてもらった」

 彼の発言で我に返る。どうやら昔の夢を見ていたらしい。理解した途端、咲耶は勢いよく横を向いて暁に背を向けた。

「な、なんでここにいるの?」

 恥ずかしさが相まり尋ねるのが責める口調になってしまった。
 そもそも自分はどれくらい寝ていたのか、暁はいつからそばにいたのか、気になる点は山ほどあるが、今は目の前の事態だ。わずかに後悔しつつ手の甲で乱暴に涙を拭う。続けて自分の体を抱きしめるようにして身を縮め、さらにあふれそうになる涙を必死に堪えた。

 できればひとりにして欲しいのが本音だ。しかしその咲耶の意向に逆らうように暁はベッドに手を衝き、おもむろに掛布団の中に入ってくる。さすがに彼の行動に驚き、背中を浮かせてそちらを見ようとした咲耶だが、その前に暁が背後から咲耶を抱きしめた。
 彼の行動に目を白黒されていると、暁は咲耶の耳元でゆっくり語りだす。

「せっかくの貴重なお前の泣き顔だ。堪能させてもらおうかと」

「悪趣味!」

 ぬけぬけと物申す暁に咲耶が抗議の声をあげた。回された腕を振りほどきたいのに敵わない。むしろ腕の力が強められ、咲耶の心臓が跳ね上がる。

「そうだ。俺は悪神だからな。お前のそういう顔が見たいんだ」

 暁の言葉に、咲耶は懸命に目に力を入れて涙を我慢する。母と暁を間違うなんて自分はどうかしている。心の中で叱責していると不意打ちで肩を掴まれ、強引に暁の方を向かされた。意図せず彼の腕の中にすっぽりと収まり、咲耶は体を硬直させる。

「だから遠慮しなくていい。素直に俺を喜ばせてみろよ」

「最っ低」

 意地悪そうに告げられ、咲耶は不快感をあらわにする。

「褒め言葉として受け取っておく」

 しかし暁にはまったく響いていない。暁の前では絶対に泣かないと咲耶は改めて強く決意した。自分の顔を隠すように咲耶はさらに暁に身を寄せる。

「そういうわけで、俺はお前をひとりで泣かせるような真似はさせない」

 ところが続けられた言葉は、咲耶の心の中に石を投げ込まれたように水紋を広げる。感情が大きく揺れ、波が広がるみたいに視界がじんわりを滲んだ。目を瞬かせると目尻に溜まった涙がついにこぼれ落ちる。それを皮切りに堪えていた涙があふれ出し、顔を上げられない咲耶は、結果的に暁に密着してやりすごすことになった。

 こんなのは彼の思うつぼだ。わかっているのに、言葉とは裏腹に咲耶の頭を撫でる暁の手は優しくて拒めない。寂しさと幼い頃の記憶が一緒になって、涙とともにあふれ出す。自分はきっと今、体調的にも精神的にも弱っている。だから不可抗力だ。

 咲耶は必死で言い訳を並べる。

「泣きたいときは泣けばいい」

 それは彼の欲を満たすためなのか。意地悪なのか優しいのかまったく判断できない。複雑な想いに駆られていると、ふとある可能性が過ぎった。

「ねぇ、もしかして寝ているとき……頭を撫でてくれていた?」

 暁を母と間違えたのは、起きる前に懐かしい手のひらの感触があったからなのかもしれない。だとするなら、暁は寝込んでいる咲耶を見てなにを思ったのか。
 おずおずと顔を上げた咲耶に暁は不敵に微笑む。

「さぁ、どうだろうな?」

 彼の回答に咲耶はむっと眉を寄せる。しかしこの男が素直に答えるわけがない。口を尖らせると不意に唇を重ねられた。柔らかい感触と温もりに咲耶もぎこちなく目を閉じて受け入れる。

「うつっても知らないから」

 唇が離れ、照れも入ってすげなく返す。けれど暁は歯牙にもかけない。

「俺はそんなやわじゃない」

 そう言って暁は再び咲耶を抱きしめた。

「良くなりたいならもう少し寝ておけ」

 どこまでも偉そうで、憎たらしい。けれどこの温もりを手放したくない。伝わる体温や手のひらの感触に安堵しているのも事実だ。

『人間はすぐに死ぬ』
 先ほどの彼の言葉が頭を過ぎる。あのときは無感情に思えたが、かすかな寂しさが漂っていたのかもしれない。

「私は……簡単には死なないから」

 誓うように告げると、回されている腕の力が強められた。

「そうであってほしいな」

 咲耶から暁の顔は見えないので、彼がどんな表情でそう答えたのかはわからない。けれど確かめる必要はない。
 咲耶はおもむろに目を閉じる。今度は昔の夢は見ずに、ぐっすりと眠れた。