葛藤する咲耶の隣では佐知子は言い知れぬ高揚感に包まれていた。
父から中村を紹介されたとき、佐知子は一瞬で生理的に彼を受け付けなかった。しみと皺だらけの顔は父親より祖父世代に見える。ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべたしまりのない表情に不快感を覚え、話すのさえ苦痛だった。経営者としての腕だけは確からしいが、自己顕示欲と常に相手より上に立っていたい性格から異性などおそらく知らないだろう。そんな男の妻に咲耶はどうかと母の公子が提案したとき佐知子は両手を挙げて賛成した。せいぜい苦労すればいい。これで長年の溜飲を下げられる。
飲み物を注文したタイミングで公子がバックから書類を取り出した。
「中村社長。忘れないうちに先にこちらを記入いただけますか? 咲耶の分は書いてありますので」
中村の前に広げられたのは婚姻届だった。咲耶自身は書いた覚えはなく目を見開く。中村は嬉々として胸元からペンを取り出した。
その姿を前に咲耶は口を開く。
「ごめんなさい、やっぱり私」
「咲耶」
扉が勢いよく開く音とここにいる誰のものでもない自分を呼ぶ声。中村の手が止まり、咲耶も口をつぐんだ。その場にいた全員の注目が、突然現れた第三者に向けられる。
扉のところにはスーツを着た青年が息せき切った状態で立っていた。すらりと背が高く、面々を見下ろす切れ長の目は漆黒で眼差しは力強い。艶のある黒髪に、整った輪郭。端整な顔立ちは目を引く。
一体何者なのか。混乱する咲耶の元に男はさっさと歩を進めると、腰を落として彼女の頬に手を添えた。
「こんな男と結婚なんて馬鹿な真似はよせ。俺がやっと見つけたんだ。他の男のものになんてさせない」
真剣な面持ちの向こうにうっすら見える不敵な笑み。男の顔を見つめ咲耶は気づく。
「な、ん……」
人間の姿をしているが、彼は間違いなく昨日咲耶の前に突然現れ、“悪神”だと名乗った暁だ。
「な、なんだ。お前は! 突然」
場を壊され、中村が体を震わせ激昂する。しかし暁は歯牙にもかけず逆に笑顔を向けた。
「ああ、失礼。名乗るのが遅くなりました。私は悪七暁。残念ですが咲耶は諦めてください。彼女を忘れることができず、俺の方がずっと昔から彼女を想い続けてきたんです」
それはどういう意味でなのか。すらすらと暁から出てくる言葉を咲耶は複雑に思いながらも受け止める。
「ふざけるな。俺を誰だと思っている!? 俺はここらへんでは顔の利く中村不動産を経営しているんだぞ!」
机を鳴らす中村に対し、今までほぼ会話に参加していなかった公子の夫が呆然と口を開く。
「悪七って、まさか……」
「ええ。私はAkushici.Inc.の人間です」
暁の回答に中村が鳩が豆鉄砲を食ったようになる。Akushichi.Inc.は咲耶も知っている世界的に有名な大企業だ。金融業をメインに不動産、通信、エネルギー産業と手広くその名を知らない者はいない。
暁は悪神ではないのか。どういうことなのか。理解できず暁を見つめると、彼は余裕たっぷりに微笑み咲耶を立たせ再び彼女に顔を寄せる。
「もう絶対に手放さない。約束する。だから俺を選ぶんだ」
咲耶は瞬きひとつできず動けない。昨日もそうだった。暁の目は体も思考もなにもかも止めてしまう。
さらに暁から顔を近づけられ、なにかに促されるように目を閉じると唇を重ねられた。ふと我に返り咲耶が離れようとする前に、暁が口づけを終わらせ咲耶を抱きしめたまま外野を見下ろす。
「文句がないようでしたらこのまま」
「待ちなさい!」
暁の言葉を佐知子が遮った。彼女も立ち上がり暁と咲耶を睨みつける。
「そんなの認められるわけないでしょ。突然現れてあなたなに? この子が頼んだの? 咲耶が悪七の人間と知り合いなわけないじゃない!」
「そうよ。こんな茶番、いい加減にして。咲耶、あんたわかってるの? 今まで育ててもらっておいて、こんな真似をして。この縁談を断ったらあんたを絶対に許さないわよ!」
佐知子に続くように公子も立ち上がり、咲耶を責め立てる。女性二人の迫力に圧倒され、中村も公子の夫も呆然とするしかなかった。
わずかに場に沈黙が流れた後、咲耶は体の向きを変え、静かに公子たちに向かって深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。今まで家に置いてもらっていたことには感謝しています。でも私は不幸じゃない。だから同情して結婚してもらう気はありません」
続けて咲耶は中村の方に向いて頭を下げる。予想外の咲耶の行動に公子と佐知子もすぐに言葉が続かなかった。
中村が書こうとしていた婚姻届を暁がひょいっと手に取った。
「彼女は俺のものだ。誰にも渡さない」
冷たい笑みを浮かべ、残された者たちに吐き捨てると咲耶の肩を抱いてさっさとその場を後にする。
父から中村を紹介されたとき、佐知子は一瞬で生理的に彼を受け付けなかった。しみと皺だらけの顔は父親より祖父世代に見える。ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべたしまりのない表情に不快感を覚え、話すのさえ苦痛だった。経営者としての腕だけは確からしいが、自己顕示欲と常に相手より上に立っていたい性格から異性などおそらく知らないだろう。そんな男の妻に咲耶はどうかと母の公子が提案したとき佐知子は両手を挙げて賛成した。せいぜい苦労すればいい。これで長年の溜飲を下げられる。
飲み物を注文したタイミングで公子がバックから書類を取り出した。
「中村社長。忘れないうちに先にこちらを記入いただけますか? 咲耶の分は書いてありますので」
中村の前に広げられたのは婚姻届だった。咲耶自身は書いた覚えはなく目を見開く。中村は嬉々として胸元からペンを取り出した。
その姿を前に咲耶は口を開く。
「ごめんなさい、やっぱり私」
「咲耶」
扉が勢いよく開く音とここにいる誰のものでもない自分を呼ぶ声。中村の手が止まり、咲耶も口をつぐんだ。その場にいた全員の注目が、突然現れた第三者に向けられる。
扉のところにはスーツを着た青年が息せき切った状態で立っていた。すらりと背が高く、面々を見下ろす切れ長の目は漆黒で眼差しは力強い。艶のある黒髪に、整った輪郭。端整な顔立ちは目を引く。
一体何者なのか。混乱する咲耶の元に男はさっさと歩を進めると、腰を落として彼女の頬に手を添えた。
「こんな男と結婚なんて馬鹿な真似はよせ。俺がやっと見つけたんだ。他の男のものになんてさせない」
真剣な面持ちの向こうにうっすら見える不敵な笑み。男の顔を見つめ咲耶は気づく。
「な、ん……」
人間の姿をしているが、彼は間違いなく昨日咲耶の前に突然現れ、“悪神”だと名乗った暁だ。
「な、なんだ。お前は! 突然」
場を壊され、中村が体を震わせ激昂する。しかし暁は歯牙にもかけず逆に笑顔を向けた。
「ああ、失礼。名乗るのが遅くなりました。私は悪七暁。残念ですが咲耶は諦めてください。彼女を忘れることができず、俺の方がずっと昔から彼女を想い続けてきたんです」
それはどういう意味でなのか。すらすらと暁から出てくる言葉を咲耶は複雑に思いながらも受け止める。
「ふざけるな。俺を誰だと思っている!? 俺はここらへんでは顔の利く中村不動産を経営しているんだぞ!」
机を鳴らす中村に対し、今までほぼ会話に参加していなかった公子の夫が呆然と口を開く。
「悪七って、まさか……」
「ええ。私はAkushici.Inc.の人間です」
暁の回答に中村が鳩が豆鉄砲を食ったようになる。Akushichi.Inc.は咲耶も知っている世界的に有名な大企業だ。金融業をメインに不動産、通信、エネルギー産業と手広くその名を知らない者はいない。
暁は悪神ではないのか。どういうことなのか。理解できず暁を見つめると、彼は余裕たっぷりに微笑み咲耶を立たせ再び彼女に顔を寄せる。
「もう絶対に手放さない。約束する。だから俺を選ぶんだ」
咲耶は瞬きひとつできず動けない。昨日もそうだった。暁の目は体も思考もなにもかも止めてしまう。
さらに暁から顔を近づけられ、なにかに促されるように目を閉じると唇を重ねられた。ふと我に返り咲耶が離れようとする前に、暁が口づけを終わらせ咲耶を抱きしめたまま外野を見下ろす。
「文句がないようでしたらこのまま」
「待ちなさい!」
暁の言葉を佐知子が遮った。彼女も立ち上がり暁と咲耶を睨みつける。
「そんなの認められるわけないでしょ。突然現れてあなたなに? この子が頼んだの? 咲耶が悪七の人間と知り合いなわけないじゃない!」
「そうよ。こんな茶番、いい加減にして。咲耶、あんたわかってるの? 今まで育ててもらっておいて、こんな真似をして。この縁談を断ったらあんたを絶対に許さないわよ!」
佐知子に続くように公子も立ち上がり、咲耶を責め立てる。女性二人の迫力に圧倒され、中村も公子の夫も呆然とするしかなかった。
わずかに場に沈黙が流れた後、咲耶は体の向きを変え、静かに公子たちに向かって深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。今まで家に置いてもらっていたことには感謝しています。でも私は不幸じゃない。だから同情して結婚してもらう気はありません」
続けて咲耶は中村の方に向いて頭を下げる。予想外の咲耶の行動に公子と佐知子もすぐに言葉が続かなかった。
中村が書こうとしていた婚姻届を暁がひょいっと手に取った。
「彼女は俺のものだ。誰にも渡さない」
冷たい笑みを浮かべ、残された者たちに吐き捨てると咲耶の肩を抱いてさっさとその場を後にする。