ふっと意識が覚醒したとき、見慣れた自室の天井が目に入る。ああ、夢だったのかと思い顔を横に向け、咲耶は文字通り布団から飛び起きた。

「なっ、あなた、なんで?」

「おいおい、本当にここに住んでいるのか? 犬小屋のほうがまだマシだろう。古くて狭くて、おまけに暗い。今にも倒壊しそうじゃないか」

 部屋に視線を飛ばしながらずけずけと物言う男に、咲耶はふらつく頭を押さえた。たしかに背の高いこの男とっては窮屈に感じるかもしれないが、今はそこではない。どこまでが夢でどこまでが現実か。なぜかびしょ濡れになっていた髪と服は乾いている。この男の仕業なのか。彼は何者でどうやって自分をここに運んだのか。

 次々に浮かぶ疑問を口にしたい衝動を抑え、静かに尋ねる。

「あなた、誰? 伯母さんの知り合い?」

 咲耶の問いかけに男は皮肉めいた笑みを浮かべる。

「知らないな。此花(このはな)家でも俺が興味あるのはお前だけだ」

 名字を言われ、咲耶はさらに混乱する。自分はまったくこの男を知らないのに。その隙に男は咲耶に近づき、腰を落として咲耶と目を合わせる。
 咲耶の体がびくりと震え、まるで金縛りにあったかのように動かない。次の瞬間、肩を掴まれ乱暴にうしろに倒された。続けて首にひやりとした感触があり息が止まる。

「その力を排除し、今度こそお前は俺が不幸のどん底に突き落としてやる」

 生きてきて、様々な感情を向けられてきた。哀れみ、蔑み、疎まれ、見下され……けれどこの男が自分にぶつけてくるものは、今までにない強い怒りにも似た激情だ。

「忘れていても、魂が覚えている。俺を封じた女の魂だ」

 知らない、わからない。

 首を締められているわけではないのに、呼吸ができない。苦しさで顔を歪める咲耶に男は笑いながら言い放つ。

「とはいえ状況から察するに、それなりに不幸な境遇みたいだな。いい気味だ」

 そこで咲耶は男を睨みつけた。真っ直ぐなら眼差しが自分を捉え、男は目を見開く。

「私は……不幸じゃない」

 切れ切れになりながらもそこには強い意志が込められている。男は咲耶の首に掛けていた手を離した。空気が喉を通り一気に肺に送り込まれ、咲耶は咳き込んで庇うように自分の首に手を当てた。
 涙目になりつつ上半身を起こし、男への警戒を強める。男は眉間に皺を寄せ、ため息混じりに前髪を掻き上げる。その様子を見て、咲耶は再度尋ねた。

「あなた、何者なの?」

 答えてもらえないかと思ったが、男は不機嫌そうな表情を崩さないままぶっきらぼうに口を開く。

「俺は(きょう)。かつてお前に力の大部分を封印された悪神だ」

「悪神?」

 初めて聞く言葉に思わず咲耶はおうむ返しをした。そんな咲耶に対し暁は小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

「そうだ。高天原の連中とは違う。人々に災いをなし、世を乱すと恐れられている最高神のひとりさ」

 説明されて、はいそうですかとにわかに頷くのは難しい。訝しげな咲耶に暁は続ける。

「此花の人間は不思議な力を持つ者が何代かにひとり現れ、俺の邪魔ばかりをしてきた」

「私は確かに此花家の人間だけれど、不思議な力なんて……」

 なにもない。今まで普通に生きてきた。人ではない存在と接触するのも今回が初めてだ。

「そうだな。俺も急にお前の気配を感じてすぐには信じられなかった」

「もしかして、お守り!?」

 咲耶は慌てて身の回りを手探りする。物心ついたときから、母に渡されていたお守りを肌身離さずつけていた。それがあのとき、紐が変な切れ方をしたのだ。ただの偶然か。

「なるほど。結界が解けたわけか」

 納得する面持ちの暁に対して、咲耶はいまだ状況が理解できない。お守りはポケットに入れてあった。それをまじまじと見つめる。

「私、どうなるの?」

「さぁな。俺はお前を不幸のどん底に突き落として、その綺麗な顔が歪むのが見られればそれでいい」

 ひとり言のような呟きに、どこまで本気かわからない暁の切り返しがある。暁は咲耶の頤に手を伸ばし、強引に自分の方へ向かせた。

「家族、恋人、友人……お前の大事にしているものをひとつずつ奪ってやる」

 冷酷な声と容赦ない視線。脅しではないのが伝わってくるが、咲耶は目を見開いたままだった。ややあって彼女の形のいい唇が動く。

「もう全部……奪われているから」

 今度は暁が大きく目を見張る。

「お父さんは私が五歳のときに事故で、お母さんは私が十歳になる前に病気で亡くなったの」

 そこから父の姉である伯母の家に引き取られたが、生活は散々なものだった。