徳叉迦にサンドイッチを包んでもらい、咲耶は車の後部座席でちまちまと食べる。隣に座る暁をちらりとうかがうと、彼は仕事関係なのかタブレットに目を通していた。
たしかに少ないとはいえ公子の家の離れに、咲耶の私物は置きっぱなしだ。とはいえ量もそこまでないので、なんなら咲耶ひとりで取りに入っても持ち出せる。
わざわざ忙しい時間の合間を縫って、暁がついてこなくてもかまわない。
そう口にするかどうか迷って、結局咲耶はなにも言わなかった。
それにしても暁の家があのマンションの一室なのかと思ったら、三フロア丸ごと彼のプライベートエリアで、さらには建物自体がAkushici.Inc.の、つまりか暁のものだと知り、咲耶は信じられない気持ちでいっぱいになった。
職場は建物の階下にあり、なんともスケールが違い過ぎて目眩を起こしそうになる。ややあって車は公子の家のそばに着いた。
咲耶は改めて門の前に立ち、息を呑む。一昨日とは打って変わって春の陽気が心地いいが咲耶は妙に緊張していた。昨日、家を出たのに帰って来たのがなんだかものすごく久しぶりに感じる。
こういうとき離れなのは便利だ。公子や佐知子と顔を合わせずにすむ。古い鍵で扉を開け、電気をつけると中の様子に愕然とした。
部屋はがらんとしており、その代わり咲耶の服や本などあらゆるものは隅っこにガラクタのように乱暴に積み上げられている。おそらく公子の仕業か。
咲耶は慌てて山になっているところからあるものを探す。
「写真」
母や父と写っている写真を、いくつか写真立てに入れて大事に飾ってあった。さすがに捨てられてはいないはずだ。ややあって見つけた写真立てには放り投げられたからか顔の部分にひびが入っている。
「入れ物が割れているだけで中身は無事だ」
なんとも言えない気持ちに襲われていると、すぐ後ろから声がかかった。咲耶を見下ろしている暁と視線が交わり、彼は腰を落とすと咲耶からひょいっと写真立てを取る。
「持っていくのは写真だけでかまわないな?」
「う、うん」
おかげで感傷的になりそうな気分が吹き飛ぶ。咲耶は気持ちを切り替え、機械的に荷物の仕分けを始めた。母の遺骨まで無造作に放り投げられていて、さすがに悔しさで唇を噛みしめる。
もしかして、こういう状況を暁は予想して付き添うと申し出たのかもしれない。相変わらず部屋に対する小言を言う暁を無視して咲耶は手を動かす。
そのとき暁が急に黙り込み、部屋のある一点を睨みつけた。
「どうしたの?」
咲耶の問いにも暁は答えない。
「誰だ?」
暁の呟きはさっと空気に溶ける。咲耶としては訳がわからない。
「巫女姫さま」
どこからともなく声がして、咲耶は辺りを見回した。次の瞬間、ふたりの前に突然青年が現れる。咲耶と同い年か、それくらいか。
若草色の着物を身に纏い、茶色い柔らかそうな髪に人懐っこそうなダークブラウンの瞳が咲耶を捉えた。目が合った途端、青年は咲耶に対し土下座し、あまりの彼の突拍子もない行動に咲耶は度肝を抜かれる。
「先日は私のせいで雨の中、大変申し訳ありませんでした。どうしても本当の姿をさらすことができず……あのあと風邪など召されたのではなないでしょうか? お体、ご無事ですか?」
「あ、あの」
状況が理解できない。どうして自分は初めて会った青年に土下座されているのか。混乱する咲耶を無視して青年はそっと顔を上げ、幸せいっぱいの表情で咲耶を見た。
「あのとき雨に打たれる私を心配してくださった巫女姫さまの優しさに改めて心打たれました。力がお戻りになられたのですね。ですがこうしてまた巫女姫さまの前に姿を現せられたこと、狗神士郎心より嬉しく思います」
「巫女姫って私のこと?」
話を進める士郎に咲耶は尋ねる。
「はい。此花の巫女姫さま。犬の姿でいた私にも変わらぬご慈悲、感激いたしました」
その発言で彼の正体について思い当たる節が咲耶にあった。確信はないが、もしかすると彼は……
「あのときのワンちゃん?」
暁と出会ったとき、雨の中で一匹の逃げ惑う子犬を追いかけていた。士郎は嬉しそうに笑う。
「ええ」
「なんだ、狗神か」
つまらなさそうに暁が吐き捨てると、士郎は立ち上がり咲耶を庇うようにして暁との間に割って入った。
「お前、悪神! まさか……あのとき感じた大きな力はお前のものだったんだな。なぜお前が巫女姫さまと……」
訝し気な顔で暁を睨みつけていた士郎がふと閃いた顔になる。
「そうか、そうなんですね。この悪神のせいでこんなにも狭くて古くて暗い建物に囚われていたなんて! ご安心ください、私が必ずや巫女姫さまをお守りしますから」
咲耶に同意を求める形で話をまとめたが、なにやら彼はとんでもない勘違いをしている。しかし士郎は口を挟む暇さえ与えない。
「それにしても悪神め。このような場所に巫女姫さまを追いやるなんて、鬼畜以外の何者でもない。人間どころか犬でも住まないぞ、こんなボロ小屋!」
「お前の大事な巫女姫さまが泣きそうな顔をしているぞ」
暁の冷静なツッコミに士郎は眉根を寄せた。
「お前がいつまでもこんなところに巫女姫さまを閉じ込めておくからだろ」
どうやら話がかみ合いそうにもない。やれやれと暁は肩をすくめるが、士郎としては暁のそんな態度も気に入らない。
「そもそもどうして悪神がここにいる?」
士郎の問いかけに暁はふっと微笑む。続けて彼は咲耶のそばによると彼女を立たせその肩を抱いた。
「なぜかって? お前の大事な巫女姫は俺のものになったんだ。彼女は俺の妻なんだ」
「ま、まだ籍は入れてないでしょ!?」
慌てて咲耶は訂正する。しかし肝心の士郎はなんの反応も示さない。おそるおそる士郎をうかがうと、彼は電池が切れた人形のように目の色をなくしたたずんでいる。
「う、そだ」
かすかに士郎の唇が動き、声が漏れる。次に士郎は勢いよく咲耶に迫った。
「嘘ですよね、巫女姫さま!? なにかこいつに弱みを握られて脅されているんでしょ? そうなんですよね? そうだと言ってくださいーーーー」
今にも泣き出しそうな表情で懇願され、咲耶は言葉に詰まってたじろぐ。そのとき暁が咲耶を見せつけるように腕の中に閉じ込めた。
「昨日、ベッドの中ではこいつから寄ってきて、むしろ俺がなかなか離してもらえなかったけどな」
「ちょ、ちょっと言い方!」
慌てて咲耶が訂正しようとしたが、士郎は頭を抱えてその場に座り込む。
「やめろぉぉぉぉ、穢れる! 巫女姫さまが穢れる!! 認めない、結婚なんて認めないからな!」
「なんでお前に認めてもらう必要があるんだ」
あきれた口調で暁が返すと、士郎は咲耶に跪く形で彼女を見上げた。
「私はあんな口から出まかせばかりの悪神と違って、巫女姫さまのためなら、なんだってできます。巫女姫さまの狗になってもかまいません。なんなら顔を踏まれる覚悟だって……」
それは犬の意味を大きく勘違いしているのではないか。思わず引きそうになった咲耶だが、その代わり暁が足を振り上げる。それに対し、士郎は鋭い目つきになり身軽にその場をさっと離れた。
「なんだ、せっかくお望み通り踏んでやろうと思ったのに」
「ふざけるな、私の顔を踏んでいいのは巫女姫さまだけだ!」
律儀に返す士郎に咲耶は「踏みません」と小さく返した。一体、なんなのか。自分はどういう立場にいるのか理解が追いつかないのは、頭の良し悪しは関係ないと思いたい。
お父さん、お母さん。どうやら私、当分孤独とは縁遠い生活を送りそうです。
けれどこの部屋でこんなに賑やかに過ごすのは初めてかもしれない。きっと最初で最後だ。咲耶はため息をつき、ふたりの男に片づけを手伝うよう凛とした声で促した。
たしかに少ないとはいえ公子の家の離れに、咲耶の私物は置きっぱなしだ。とはいえ量もそこまでないので、なんなら咲耶ひとりで取りに入っても持ち出せる。
わざわざ忙しい時間の合間を縫って、暁がついてこなくてもかまわない。
そう口にするかどうか迷って、結局咲耶はなにも言わなかった。
それにしても暁の家があのマンションの一室なのかと思ったら、三フロア丸ごと彼のプライベートエリアで、さらには建物自体がAkushici.Inc.の、つまりか暁のものだと知り、咲耶は信じられない気持ちでいっぱいになった。
職場は建物の階下にあり、なんともスケールが違い過ぎて目眩を起こしそうになる。ややあって車は公子の家のそばに着いた。
咲耶は改めて門の前に立ち、息を呑む。一昨日とは打って変わって春の陽気が心地いいが咲耶は妙に緊張していた。昨日、家を出たのに帰って来たのがなんだかものすごく久しぶりに感じる。
こういうとき離れなのは便利だ。公子や佐知子と顔を合わせずにすむ。古い鍵で扉を開け、電気をつけると中の様子に愕然とした。
部屋はがらんとしており、その代わり咲耶の服や本などあらゆるものは隅っこにガラクタのように乱暴に積み上げられている。おそらく公子の仕業か。
咲耶は慌てて山になっているところからあるものを探す。
「写真」
母や父と写っている写真を、いくつか写真立てに入れて大事に飾ってあった。さすがに捨てられてはいないはずだ。ややあって見つけた写真立てには放り投げられたからか顔の部分にひびが入っている。
「入れ物が割れているだけで中身は無事だ」
なんとも言えない気持ちに襲われていると、すぐ後ろから声がかかった。咲耶を見下ろしている暁と視線が交わり、彼は腰を落とすと咲耶からひょいっと写真立てを取る。
「持っていくのは写真だけでかまわないな?」
「う、うん」
おかげで感傷的になりそうな気分が吹き飛ぶ。咲耶は気持ちを切り替え、機械的に荷物の仕分けを始めた。母の遺骨まで無造作に放り投げられていて、さすがに悔しさで唇を噛みしめる。
もしかして、こういう状況を暁は予想して付き添うと申し出たのかもしれない。相変わらず部屋に対する小言を言う暁を無視して咲耶は手を動かす。
そのとき暁が急に黙り込み、部屋のある一点を睨みつけた。
「どうしたの?」
咲耶の問いにも暁は答えない。
「誰だ?」
暁の呟きはさっと空気に溶ける。咲耶としては訳がわからない。
「巫女姫さま」
どこからともなく声がして、咲耶は辺りを見回した。次の瞬間、ふたりの前に突然青年が現れる。咲耶と同い年か、それくらいか。
若草色の着物を身に纏い、茶色い柔らかそうな髪に人懐っこそうなダークブラウンの瞳が咲耶を捉えた。目が合った途端、青年は咲耶に対し土下座し、あまりの彼の突拍子もない行動に咲耶は度肝を抜かれる。
「先日は私のせいで雨の中、大変申し訳ありませんでした。どうしても本当の姿をさらすことができず……あのあと風邪など召されたのではなないでしょうか? お体、ご無事ですか?」
「あ、あの」
状況が理解できない。どうして自分は初めて会った青年に土下座されているのか。混乱する咲耶を無視して青年はそっと顔を上げ、幸せいっぱいの表情で咲耶を見た。
「あのとき雨に打たれる私を心配してくださった巫女姫さまの優しさに改めて心打たれました。力がお戻りになられたのですね。ですがこうしてまた巫女姫さまの前に姿を現せられたこと、狗神士郎心より嬉しく思います」
「巫女姫って私のこと?」
話を進める士郎に咲耶は尋ねる。
「はい。此花の巫女姫さま。犬の姿でいた私にも変わらぬご慈悲、感激いたしました」
その発言で彼の正体について思い当たる節が咲耶にあった。確信はないが、もしかすると彼は……
「あのときのワンちゃん?」
暁と出会ったとき、雨の中で一匹の逃げ惑う子犬を追いかけていた。士郎は嬉しそうに笑う。
「ええ」
「なんだ、狗神か」
つまらなさそうに暁が吐き捨てると、士郎は立ち上がり咲耶を庇うようにして暁との間に割って入った。
「お前、悪神! まさか……あのとき感じた大きな力はお前のものだったんだな。なぜお前が巫女姫さまと……」
訝し気な顔で暁を睨みつけていた士郎がふと閃いた顔になる。
「そうか、そうなんですね。この悪神のせいでこんなにも狭くて古くて暗い建物に囚われていたなんて! ご安心ください、私が必ずや巫女姫さまをお守りしますから」
咲耶に同意を求める形で話をまとめたが、なにやら彼はとんでもない勘違いをしている。しかし士郎は口を挟む暇さえ与えない。
「それにしても悪神め。このような場所に巫女姫さまを追いやるなんて、鬼畜以外の何者でもない。人間どころか犬でも住まないぞ、こんなボロ小屋!」
「お前の大事な巫女姫さまが泣きそうな顔をしているぞ」
暁の冷静なツッコミに士郎は眉根を寄せた。
「お前がいつまでもこんなところに巫女姫さまを閉じ込めておくからだろ」
どうやら話がかみ合いそうにもない。やれやれと暁は肩をすくめるが、士郎としては暁のそんな態度も気に入らない。
「そもそもどうして悪神がここにいる?」
士郎の問いかけに暁はふっと微笑む。続けて彼は咲耶のそばによると彼女を立たせその肩を抱いた。
「なぜかって? お前の大事な巫女姫は俺のものになったんだ。彼女は俺の妻なんだ」
「ま、まだ籍は入れてないでしょ!?」
慌てて咲耶は訂正する。しかし肝心の士郎はなんの反応も示さない。おそるおそる士郎をうかがうと、彼は電池が切れた人形のように目の色をなくしたたずんでいる。
「う、そだ」
かすかに士郎の唇が動き、声が漏れる。次に士郎は勢いよく咲耶に迫った。
「嘘ですよね、巫女姫さま!? なにかこいつに弱みを握られて脅されているんでしょ? そうなんですよね? そうだと言ってくださいーーーー」
今にも泣き出しそうな表情で懇願され、咲耶は言葉に詰まってたじろぐ。そのとき暁が咲耶を見せつけるように腕の中に閉じ込めた。
「昨日、ベッドの中ではこいつから寄ってきて、むしろ俺がなかなか離してもらえなかったけどな」
「ちょ、ちょっと言い方!」
慌てて咲耶が訂正しようとしたが、士郎は頭を抱えてその場に座り込む。
「やめろぉぉぉぉ、穢れる! 巫女姫さまが穢れる!! 認めない、結婚なんて認めないからな!」
「なんでお前に認めてもらう必要があるんだ」
あきれた口調で暁が返すと、士郎は咲耶に跪く形で彼女を見上げた。
「私はあんな口から出まかせばかりの悪神と違って、巫女姫さまのためなら、なんだってできます。巫女姫さまの狗になってもかまいません。なんなら顔を踏まれる覚悟だって……」
それは犬の意味を大きく勘違いしているのではないか。思わず引きそうになった咲耶だが、その代わり暁が足を振り上げる。それに対し、士郎は鋭い目つきになり身軽にその場をさっと離れた。
「なんだ、せっかくお望み通り踏んでやろうと思ったのに」
「ふざけるな、私の顔を踏んでいいのは巫女姫さまだけだ!」
律儀に返す士郎に咲耶は「踏みません」と小さく返した。一体、なんなのか。自分はどういう立場にいるのか理解が追いつかないのは、頭の良し悪しは関係ないと思いたい。
お父さん、お母さん。どうやら私、当分孤独とは縁遠い生活を送りそうです。
けれどこの部屋でこんなに賑やかに過ごすのは初めてかもしれない。きっと最初で最後だ。咲耶はため息をつき、ふたりの男に片づけを手伝うよう凛とした声で促した。