次に咲耶が目覚めたとき、暁の姿はそばになかった。相当な時間、眠っていたのが感覚でわかる。喉はカラカラで汗を掻いたが、そのおかげで熱が下がり体はすっきりしていた。
 ひとまずベッドから下りようとしたら部屋にノック音が響いた。返事を迷っている間にドアが開き、黒いワンピースに白いエプロンをまとった若い女性が、ホテルでよく見るサービスワゴンを押しながら姿を現した。

「あら、お目覚めになりました?」

「あ、あの」

 二十代後半か三十代前半か、やや吊り上がった左目の下には泣きぼくろがあり、まとめられた髪の先は赤に近い紫色に染められていて、印象に残りやすい外見だ。

「初めまして、徳叉迦(とくしゃか)です。暁さまのお申し付けで参りました。ご気分はどうです?」
「大丈夫です」

 反射的に咲耶が答えると徳叉迦はにこりと微笑み、咲耶のそばまでやってくる。

「なにかと女性の手がいるだろうと呼ばれたんです。まずはお召し物を着替えになりますか? お風呂も用意していますよ。召し上がりたいものがあったら遠慮せずおっしゃってくださいね」

 圧倒される咲耶をよそに徳叉迦はてきぱきと話を進めていく。ひとまず水をもらおうと希望を口にしたら、冷たい水がグラスに注がれ手渡された。日付が変わり、太陽は高い位置にある。どうやらほぼ丸一日眠っていたらしい。
 咲耶が着ていた着物はすべてクリーニングに出したと聞かされ、脱ぎ捨てていた現状も合わさり申し訳なくなる。しかし徳叉迦はまったく気にしていない。

 さらには体調が悪くないのなら、とシャワーを勧められ咲耶はおとなしく従う。汗も掻いたし、髪も洗って化粧も落としたいのが本音だ。
 案内されたバスルームは、テレビの中でしか見たことがないような白と金を基調とする広くて高級感あふれる造りで、咲耶は思わず息を呑んだ。
 どこまでも暁と自分は歩んできた世界が違い過ぎる。悔しいが、暁が咲耶の部屋を犬小屋だと馬鹿にしたのが理解できた。

 ゆっくり入る精神的な余裕もなく、咲耶はさっさとバスルームを後にした。真新しい服が何着か用意されていて咲耶は花柄のブラウスと白のフレアスカートを選び、部屋に顔を出す。どういうわけかサイズがぴったりだ。

「あの、お風呂いただきました。ありがとうございます」

 テーブルに食事の準備をしている徳叉迦に声をかけると彼女はくるりと振り返った。

「いいえ。不便はありませんでしたか?」
「はい」

 素直に頷き、テーブルにつく。慣れない状況に、咲耶の心臓は早鐘を打ち出していた。そこで暁はどうしたのかと尋ねた。すると徳叉迦はわざとらしく肩をすくめる。

「あの人は仕事です。あれでAkushici.Inc.の偉い手ですからね」
「そう、なんですか」

 そんなに忙しい身でありながら自分のそばにいてくれたらしい。あれから暁は自分のベッドに戻ったのか、ちゃんと寝られたのか。

「それにしても……」

 そこで我に返り、咲耶は徳叉迦の方に顔を向けた。

「どうやってあの悪神を落としたんです? やっぱりなにか脅されちゃいました?」

 急に俗っぽい質問を投げかけられ、咲耶は目を見張った。徳叉迦の笑顔はあきらかに先ほどのものとは違う。心底楽しそうだという表情だ。

「改めまして、私のことはどうぞ〝徳ちゃん〟と気軽にお呼びください。〝叉迦ちゃん〟はなにかとまぎらわしいですし、〝龍ちゃん〟は他の面子とかぶるんですよね。あ、でも〝徳さん〟はやめてください。ちょっと助さん格さんみたいなイメージになってしまうので」

「徳叉迦」

 立て板に水で喋りつづける徳叉迦に圧倒されていると、彼女の暴走を止めるかのように低い声が割って入る。その声は咲耶もよく知るものだった。

「あら、暁さん、おかえりですか? ずいぶんと早くありません?」

「お前は言われたことだけをしていればいいんだ」

 冷たく言い放つ暁はスーツ姿で仕事仕様だった。言われた徳叉迦は怯むどころか飄々と咲耶に話題を振る。

「まぁ、咲耶さん、聞きました? この悪神はこういう神様なんですよ。他者なんてどうでもよくて血も涙もない。結婚を考え直すのなら今のうちです」

 どうやら最初の恭しい態度が猫をかぶっていただけで、徳叉迦は暁の部下でもなければ使用人でもないらしい。

「そんなに私が気に入らないなら阿那婆(あなば)にでも言えばよかったじゃないでか」

 その証拠に駄目押しするかのような徳叉迦に対し、暁は眉をひそめたがそれ以上は言い返さなかった。続けて彼の視線は咲耶に向けられる。

「体調はどうだ?」
「すっかりよくなったよ。ありがとう」

 目が合い、咲耶の胸が一瞬高鳴る。それを慌てて自身で打ち消した。下手に意識するだけ無駄だ。

「なら今からお前の荷物を取りに行く。さっさと支度しろ」
「へ?」

 問答無用と言わんばかりの暁に、咲耶はつい間抜けな声をあげた。