悪神――人々に災いをなし、世を乱す神。邪神、暴神などとも言われる。
他の神々とは一線を画する立場にあり、その力は強力で地位は高く確固たるものだった。神々にとってなくてはならない存在。
なぜなら悩み、嘆き、不幸に苛まれるからこそ人々は懸命に祈りを捧げ崇め奉るのだ。悪神以外の神に。
「ねぇ、大丈夫だから出ておいで」
雨が降り出し、咲耶は眉をひそめながら濡れるのもかまわず声をかけ手を伸ばす。
先ほどまで晴れわたっていた空にはあっという間に暗雲が立ち込め、雨を降らせた。桜雨――これでまた桜が散る。今年は全国的に暖冬で、三月半ばにはこの辺りの桜は見頃を迎えていた。
つい先日、卒業式で咲き誇っていた桜は、大学の入学式の際には葉桜になっているかもしれない。そんな同級生たちの楽しそうな声を遠くに聞いていた。大学に進学しない自分には関係ない話だ。卒業を祝ってくれる家族もいない。
ただ高校生活自体は悪いものじゃなかった。唯一許された自由な時間だったから。
みるみるうちに長い黒髪も衣服も水を吸って重たくなっていく。
古い神社の社には鍵がかかっているが、小さな穴が開いていて、咲耶はそこから中に必死に手を伸ばしていた。拾ったばかりの子犬が逃げ込んだのだ。
元気ならかまわないが、かなり衰弱していた。三月とはいえ夜になると気温は下がる。ましてやこの雨だ。ほうっておいたら死んでしまうかもしれない。
結婚前日に、なにをしているんだろ。
内心でため息をつき後悔する。もしかする下手に拾ったりして手を出さない方がよかったのかもしれない。このままこの中であの小さな命が消えたらと思うと身震いする。
それだけは阻止しないと。
捕まえるのは無理だと諦め、せめてなにか食べ物でも持ってこようと考える。そのときなにかがプツリと切れる感覚があった。
「あ」
慌てて手を伸ばすのをやめて首元を確認する。いつもあったソレがないと気づき、さっと血の気が引いた。足元を確認すると濡れた地面に落ちたお守りを見つけ、さっと拾い上げる。
「最悪」
肌身離さず身に着けていたお守りの紐が切れた。母が残してくれた大事なもので、今まで幾度となく自分で紐を取り替えたりしたがこんな事態は初めてだ。
なにかを暗示しているのか。沈みそうになる思考を慌てて振り払う。
ひとまず一度帰ろうと体の向きを変えようとした瞬間、世界が歪む。足を滑らせたのだと思う前に暗い空が映り、頭を打つのを覚悟して目を閉じた。
しかし予想していた痛みも衝撃も感じず、咲耶はおそるおそる目を開ける。
「なかなかいい様じゃないか」
どこから現れたのか、低く通る男の声が耳に届く。ぼんやりと自分の頭を支え見下ろしているのは若い男性だった。
「あなた……だれ? 死神?」
どうしてそう尋ねたのか。直感的に目の前の存在が人間ではないと思ったからだ。全身真っ黒な衣服に身を包み、対する肌は透き通るように白く、まるで生気がない。
咲耶を映す漆黒の瞳の奥は金が揺らめき、蠱惑的な外貌は目を引くばかりだ。
口角を上げているが、目はまったく笑っていない。親切心で自分を助けたわけではないのはわかった。さっきからこの男から向けられる視線に込められているのは、刺さるような敵意と憎悪だ。
「死なせやしないさ。お前は俺が――」
その続きは聞こえない。さっきから頭が割れそうな痛みと、耳をつんざくような土砂降りの雨が意識をおぼろげにさせる。咲耶の世界は黒く染まった。
他の神々とは一線を画する立場にあり、その力は強力で地位は高く確固たるものだった。神々にとってなくてはならない存在。
なぜなら悩み、嘆き、不幸に苛まれるからこそ人々は懸命に祈りを捧げ崇め奉るのだ。悪神以外の神に。
「ねぇ、大丈夫だから出ておいで」
雨が降り出し、咲耶は眉をひそめながら濡れるのもかまわず声をかけ手を伸ばす。
先ほどまで晴れわたっていた空にはあっという間に暗雲が立ち込め、雨を降らせた。桜雨――これでまた桜が散る。今年は全国的に暖冬で、三月半ばにはこの辺りの桜は見頃を迎えていた。
つい先日、卒業式で咲き誇っていた桜は、大学の入学式の際には葉桜になっているかもしれない。そんな同級生たちの楽しそうな声を遠くに聞いていた。大学に進学しない自分には関係ない話だ。卒業を祝ってくれる家族もいない。
ただ高校生活自体は悪いものじゃなかった。唯一許された自由な時間だったから。
みるみるうちに長い黒髪も衣服も水を吸って重たくなっていく。
古い神社の社には鍵がかかっているが、小さな穴が開いていて、咲耶はそこから中に必死に手を伸ばしていた。拾ったばかりの子犬が逃げ込んだのだ。
元気ならかまわないが、かなり衰弱していた。三月とはいえ夜になると気温は下がる。ましてやこの雨だ。ほうっておいたら死んでしまうかもしれない。
結婚前日に、なにをしているんだろ。
内心でため息をつき後悔する。もしかする下手に拾ったりして手を出さない方がよかったのかもしれない。このままこの中であの小さな命が消えたらと思うと身震いする。
それだけは阻止しないと。
捕まえるのは無理だと諦め、せめてなにか食べ物でも持ってこようと考える。そのときなにかがプツリと切れる感覚があった。
「あ」
慌てて手を伸ばすのをやめて首元を確認する。いつもあったソレがないと気づき、さっと血の気が引いた。足元を確認すると濡れた地面に落ちたお守りを見つけ、さっと拾い上げる。
「最悪」
肌身離さず身に着けていたお守りの紐が切れた。母が残してくれた大事なもので、今まで幾度となく自分で紐を取り替えたりしたがこんな事態は初めてだ。
なにかを暗示しているのか。沈みそうになる思考を慌てて振り払う。
ひとまず一度帰ろうと体の向きを変えようとした瞬間、世界が歪む。足を滑らせたのだと思う前に暗い空が映り、頭を打つのを覚悟して目を閉じた。
しかし予想していた痛みも衝撃も感じず、咲耶はおそるおそる目を開ける。
「なかなかいい様じゃないか」
どこから現れたのか、低く通る男の声が耳に届く。ぼんやりと自分の頭を支え見下ろしているのは若い男性だった。
「あなた……だれ? 死神?」
どうしてそう尋ねたのか。直感的に目の前の存在が人間ではないと思ったからだ。全身真っ黒な衣服に身を包み、対する肌は透き通るように白く、まるで生気がない。
咲耶を映す漆黒の瞳の奥は金が揺らめき、蠱惑的な外貌は目を引くばかりだ。
口角を上げているが、目はまったく笑っていない。親切心で自分を助けたわけではないのはわかった。さっきからこの男から向けられる視線に込められているのは、刺さるような敵意と憎悪だ。
「死なせやしないさ。お前は俺が――」
その続きは聞こえない。さっきから頭が割れそうな痛みと、耳をつんざくような土砂降りの雨が意識をおぼろげにさせる。咲耶の世界は黒く染まった。