悪神――人々に災いをなし、世を乱す神。邪神、暴神などとも言われる。
 他の神々とは一線を画する立場にあり、その力は強力で地位は高く確固たるものだった。神々にとってなくてはならない存在。
 なぜなら悩み、嘆き、不幸に苛まれるからこそ人々は懸命に祈りを捧げ崇め奉るのだ。悪神以外の神に。

「ねぇ、大丈夫だから出ておいで」

 雨が降り出し、咲耶(さくや)は眉をひそめながら濡れるのもかまわず声をかけ手を伸ばす。
 先ほどまで晴れわたっていた空にはあっという間に暗雲が立ち込め、雨を降らせた。桜雨――これでまた桜が散る。今年は全国的に暖冬で、三月半ばにはこの辺りの桜は見頃を迎えていた。

 つい先日、卒業式で咲き誇っていた桜は、大学の入学式の際には葉桜になっているかもしれない。そんな同級生たちの楽しそうな声を遠くに聞いていた。大学に進学しない自分には関係ない話だ。卒業を祝ってくれる家族もいない。
 ただ高校生活自体は悪いものじゃなかった。唯一許された自由な時間だったから。

 みるみるうちに長い黒髪も衣服も水を吸って重たくなっていく。
 古い神社の社には鍵がかかっているが、小さな穴が開いていて、咲耶はそこから中に必死に手を伸ばしていた。拾ったばかりの子犬が逃げ込んだのだ。
 元気ならかまわないが、かなり衰弱していた。三月とはいえ夜になると気温は下がる。ましてやこの雨だ。ほうっておいたら死んでしまうかもしれない。 

 結婚前日に、なにをしているんだろ。

 内心でため息をつき後悔する。もしかする下手に拾ったりして手を出さない方がよかったのかもしれない。このままこの中であの小さな命が消えたらと思うと身震いする。

 それだけは阻止しないと。

 捕まえるのは無理だと諦め、せめてなにか食べ物でも持ってこようと考える。そのときなにかがプツリと切れる感覚があった。

「あ」

 慌てて手を伸ばすのをやめて首元を確認する。いつもあったソレがないと気づき、さっと血の気が引いた。足元を確認すると濡れた地面に落ちたお守りを見つけ、さっと拾い上げる。

「最悪」

 肌身離さず身に着けていたお守りの紐が切れた。母が残してくれた大事なもので、今まで幾度となく自分で紐を取り替えたりしたがこんな事態は初めてだ。
 なにかを暗示しているのか。沈みそうになる思考を慌てて振り払う。

 ひとまず一度帰ろうと体の向きを変えようとした瞬間、世界が歪む。足を滑らせたのだと思う前に暗い空が映り、頭を打つのを覚悟して目を閉じた。
 しかし予想していた痛みも衝撃も感じず、咲耶はおそるおそる目を開ける。

「なかなかいい様じゃないか」

 どこから現れたのか、低く通る男の声が耳に届く。ぼんやりと自分の頭を支え見下ろしているのは若い男性だった。

「あなた……だれ? 死神?」

 どうしてそう尋ねたのか。直感的に目の前の存在が人間ではないと思ったからだ。全身真っ黒な衣服に身を包み、対する肌は透き通るように白く、まるで生気がない。

 咲耶を映す漆黒の瞳の奥は金が揺らめき、蠱惑的な外貌は目を引くばかりだ。
 口角を上げているが、目はまったく笑っていない。親切心で自分を助けたわけではないのはわかった。さっきからこの男から向けられる視線に込められているのは、刺さるような敵意と憎悪だ。

「死なせやしないさ。お前は俺が――」

 その続きは聞こえない。さっきから頭が割れそうな痛みと、耳をつんざくような土砂降りの雨が意識をおぼろげにさせる。咲耶の世界は黒く染まった。
 ふっと意識が覚醒したとき、見慣れた自室の天井が目に入る。ああ、夢だったのかと思い顔を横に向け、咲耶は文字通り布団から飛び起きた。

「なっ、あなた、なんで?」

「おいおい、本当にここに住んでいるのか? 犬小屋のほうがまだマシだろう。古くて狭くて、おまけに暗い。今にも倒壊しそうじゃないか」

 部屋に視線を飛ばしながらずけずけと物言う男に、咲耶はふらつく頭を押さえた。たしかに背の高いこの男とっては窮屈に感じるかもしれないが、今はそこではない。どこまでが夢でどこまでが現実か。なぜかびしょ濡れになっていた髪と服は乾いている。この男の仕業なのか。彼は何者でどうやって自分をここに運んだのか。

 次々に浮かぶ疑問を口にしたい衝動を抑え、静かに尋ねる。

「あなた、誰? 伯母さんの知り合い?」

 咲耶の問いかけに男は皮肉めいた笑みを浮かべる。

「知らないな。此花(このはな)家でも俺が興味あるのはお前だけだ」

 名字を言われ、咲耶はさらに混乱する。自分はまったくこの男を知らないのに。その隙に男は咲耶に近づき、腰を落として咲耶と目を合わせる。
 咲耶の体がびくりと震え、まるで金縛りにあったかのように動かない。次の瞬間、肩を掴まれ乱暴にうしろに倒された。続けて首にひやりとした感触があり息が止まる。

「その力を排除し、今度こそお前は俺が不幸のどん底に突き落としてやる」

 生きてきて、様々な感情を向けられてきた。哀れみ、蔑み、疎まれ、見下され……けれどこの男が自分にぶつけてくるものは、今までにない強い怒りにも似た激情だ。

「忘れていても、魂が覚えている。俺を封じた女の魂だ」

 知らない、わからない。

 首を締められているわけではないのに、呼吸ができない。苦しさで顔を歪める咲耶に男は笑いながら言い放つ。

「とはいえ状況から察するに、それなりに不幸な境遇みたいだな。いい気味だ」

 そこで咲耶は男を睨みつけた。真っ直ぐなら眼差しが自分を捉え、男は目を見開く。

「私は……不幸じゃない」

 切れ切れになりながらもそこには強い意志が込められている。男は咲耶の首に掛けていた手を離した。空気が喉を通り一気に肺に送り込まれ、咲耶は咳き込んで庇うように自分の首に手を当てた。
 涙目になりつつ上半身を起こし、男への警戒を強める。男は眉間に皺を寄せ、ため息混じりに前髪を掻き上げる。その様子を見て、咲耶は再度尋ねた。

「あなた、何者なの?」

 答えてもらえないかと思ったが、男は不機嫌そうな表情を崩さないままぶっきらぼうに口を開く。

「俺は(きょう)。かつてお前に力の大部分を封印された悪神だ」

「悪神?」

 初めて聞く言葉に思わず咲耶はおうむ返しをした。そんな咲耶に対し暁は小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。

「そうだ。高天原の連中とは違う。人々に災いをなし、世を乱すと恐れられている最高神のひとりさ」

 説明されて、はいそうですかとにわかに頷くのは難しい。訝しげな咲耶に暁は続ける。

「此花の人間は不思議な力を持つ者が何代かにひとり現れ、俺の邪魔ばかりをしてきた」

「私は確かに此花家の人間だけれど、不思議な力なんて……」

 なにもない。今まで普通に生きてきた。人ではない存在と接触するのも今回が初めてだ。

「そうだな。俺も急にお前の気配を感じてすぐには信じられなかった」

「もしかして、お守り!?」

 咲耶は慌てて身の回りを手探りする。物心ついたときから、母に渡されていたお守りを肌身離さずつけていた。それがあのとき、紐が変な切れ方をしたのだ。ただの偶然か。

「なるほど。結界が解けたわけか」

 納得する面持ちの暁に対して、咲耶はいまだ状況が理解できない。お守りはポケットに入れてあった。それをまじまじと見つめる。

「私、どうなるの?」

「さぁな。俺はお前を不幸のどん底に突き落として、その綺麗な顔が歪むのが見られればそれでいい」

 ひとり言のような呟きに、どこまで本気かわからない暁の切り返しがある。暁は咲耶の頤に手を伸ばし、強引に自分の方へ向かせた。

「家族、恋人、友人……お前の大事にしているものをひとつずつ奪ってやる」

 冷酷な声と容赦ない視線。脅しではないのが伝わってくるが、咲耶は目を見開いたままだった。ややあって彼女の形のいい唇が動く。

「もう全部……奪われているから」

 今度は暁が大きく目を見張る。

「お父さんは私が五歳のときに事故で、お母さんは私が十歳になる前に病気で亡くなったの」

 そこから父の姉である伯母の家に引き取られたが、生活は散々なものだった。
 伯母である公子(きみこ)の夫は建設会社の社長を務め、いわば彼女は社長夫人の座に収まっている。裕福な家庭で咲耶と同い年の娘、佐知子(さちこ)がいたが、公子と佐知子は親子であからさまに咲耶を見下し、つらく当たった。
 公子は咲耶以前に咲耶の母、咲良(さくら)が嫌いだったのだ。

 咲耶の両親は、父の身内の反対を押し切って結婚した。今の咲耶と同じで母には身寄りがなく、代々続く由緒ある家柄だと自負する此花家の跡取りであった咲耶の父との結婚を最後まで反対したのは公子だった。
 しかしなんとか周囲を説得し、ふたりは結婚。仲睦まじい家庭を築き、娘も生まれた。徐々に反対していた両親も咲良の存在を認めていった。それが公子としては気に食わない。
 また、親戚がいつも集まるたびに手放しで咲良と咲耶の容姿を褒め、気が利く優しい性格をもてはやしたのも腹立たしかった。

 咲良はサラサラの黒髪とぱっちりとした二重瞼、色白でどこか儚げな印象を抱かせる正統派の美人だった。それはしっかりと娘である咲耶に受け継がれている。
 佐知子としては、同い年で美人な咲耶が妬ましかった。
 そして弟である咲耶の父が事故で亡くなったとき、公子にとって咲良と咲耶は決定的に憎むべき相手となった。八つ当たりと言っても過言ではない。

 そのあと母を亡くした咲耶をどうするかという話になり、親戚からの勧めと世間体だけで咲耶を引き取った。両親を亡くし途方に暮れている咲耶を多くの人々が心配するのさえ気に食わず、唯一、此花家の本家の血筋でその名を継いでいるのさえ腹が立った。
 自身の弟より咲良の面影をより濃く残している咲耶を大事にできるわけがない。その感情は佐知子にも受け継がれ、母娘で妙な結束力も合わさり咲耶に対する扱いはひどくなる一方だった。ついにこの離れに追いやられるほどには。
 咲耶としては、伯母一家は家族でもなんでもない。出かけるときはひとり置いていかれ、食卓も共に囲んだ記憶もない。いつも最低限のものしか与えられず、優秀な咲耶は高校も特待生制度を使って進学した。

 わりと上流階級の裕福層の子どもたちが通う学校で、場違いなのは理解していたが、ひたすら勉学に励んだ。そうやって慎ましく過ごしていると、それなりに友人もできてくる。咲耶の容姿から告白されることもあった。
 しかし同じ学校に通う佐知子が咲耶の根も葉もない噂を拡散し、咲耶から友人や異性を遠ざけた。佐知子の嘘に気づいている者もいたが片や建設会社の社長令嬢、片や特待生制度を利用した身寄りのない娘となると周りの態度は決まっていた。
 高校は大学に進学するために通う。経験を得て勉強に励むのだけを目的に咲耶は孤独な高校生活を送った。
「で、大学進学と同時に、こんなところとは、おさらばってわけか」

「大学には行かない」

 話を聞いていた暁が総括すると、咲耶は間髪を入れずに返した。

「結婚するの、明日」

 さらに咲耶が続けた内容は完全に予想外のもので、暁はわずかに眉をつり上げる。

「その顔から察するに、お前自身が望んだ結婚じゃなさそうだな」

「そう。どこかの不動産会社の社長さんらしいよ。私より二十歳以上も年上の」

 どこか他人事のように咲耶は話す。その表情は悲哀を通り越してなにかを諦めたものだった。相手は伯母の夫と仕事の関係で付き合いのある男だ。名前を中村(なかむら)と言う。

 中村はそれなりに大きい会社を経営しているが、容姿にも性格にも難があり異性とはまったく無縁な人生を送ってきた。周囲には年齢もあり絶えず結婚願望も伝えていたが、社長と言う立場を差し引いても紹介される女性はほぼおらず、四十歳になる彼は焦っていた。
 中村自身はともかく会社は魅力的だ。夫の会社との繋がりを強固にするため、公子は夫と共に中村と会った際に、咲耶の存在をほのめかしたのだ。

 両親を亡くし、うしろ盾のなにもない彼女をぜひ救ってやってほしいとお願いする形で。それは中村の自尊心を満たし、若く美人な妻が手に入ると彼はふたつ返事で喜んだ。
 その事情をすべて後から聞かされた咲耶はもちろん反抗した。結婚なんて冗談じゃない、ましてやそんな男性と。大学を出て就職し自立するのが咲耶の願いであり、亡くなった両親への孝行だと思っている。
 大学も奨学金や特待生制度を使って進学するつもりだった。咲耶の成績なら授業料全額免除も可能だ。迷惑はかけないと説得する咲耶を公子は鼻で笑った。

「ここまで育ててやった恩を返せ、だって。この縁談を断るなら、お母さんが入院したときの費用を含め、今まで私にかかったお金を今すぐすべて返せって言われて……」

 咲耶は公子の台詞を思い出し、自嘲的な笑みを浮かべ呟いた。
 そんなのは無理に決まっている。お金なら大学に進学して、就職してから少しずつ返すと話した。しかし公子は納得せず、さらに条件を出してくる。

「この縁談を受けたら、お母さんを此花家の一員として認めて、お父さんと同じお墓に入れてくれるって言うから」

 母の遺骨は父と同じ墓には入れてもらえず、咲耶が持っている。両親の写真と母の遺骨に毎日、手を合わせるのが日課だがこのままではいけないと思っていた。
 そもそも大学の進学や奨学金など、諸々の書類には保護者の同意が必要だ。それらをすべて認めないと言われ、どうしようもなくなった。

 一通り話し終え、沈黙が降りてくる。なぜ得体のしれないこの男に身の上話をしたのか。今まで誰にも語ったことはなかったのに。
 不思議な気持ちに包まれながらも、どこかすっきりしている自分もいた。

「あなたが今の私を見て不幸だと思うのなら、よかったわね、としか」

 咲耶はわざとらしく肩をすくめ、暁を見遣る。彼は眉をひそめたままだった。

「それでもお前は自分が不幸ではないと言い張るのか」

 呆れたように暁が漏らし、それを受けて咲耶はふと真面目な顔になる。

「“今あるものを大切にして、前を向いて感謝しながら生きていく”母からの大事な教えなの」

 父が亡くなってから短くはあったが、母とふたりで生きてきた。悲しくはあったが不幸ではない。母が亡くなってからも――。

「もしかしたら相手の人が意外にいい人で、おしどり夫婦になれる可能性だってあるかもしれないし」

 わざと茶目っ気混じりに、結論づける。未来への希望を捨ててはいけない。生きていたらきっといいことがある。そうやって咲耶はこれまでも乗り越えてきた。

「くだらないな。そうなるよう祈っているのか?」

「悪神様に?」

 間を置かずに切り返され、暁は一瞬言葉に詰まる。その隙に咲耶は彼に笑顔を向けた。

「ありがとう、話を聞いてくれて。なんかすっきりした」

 すっかり毒気を抜かれた暁は立ち上がり、咲耶から一歩下がった。

「手足を引きちぎられてもお前はそうやって笑ってそうだな」

「なに、神様なのにそんな野蛮な真似をするわけ?」

 さらりと告げられた内容に反射的に返しながら、咲耶は自身を抱きしめた。さすがに肉体的苦痛は受け入れられない。

「神なんて気ままで残酷なやつばかりだぞ」

 否定はせず、暁は咲耶を見下ろして妖しく笑う。

「ま、精々自分は不幸ではないと強がるんだな」

 それだけ言い残すと彼の姿は咲耶の目の前から忽然と消えた。目の前で起きた出来事を今なら受け入れられる。彼が人ではないのはどうやら本当らしい。
 咲耶はどっと気が抜け、再び布団に突っ伏した。

 明日は早起きして髪のセットと着物の着付けをされる予定だ。公子が咲耶のためになにかを手配して、それなりのものを用意するのは最初で最後だろう。
 ぎゅっと握りこぶしを作って目をつむる。次にいつもの癖で首元のお守りに触れようとしたが、そこにはないと気づいた。

 私は……不幸じゃない。

 心許ない気持ちになりつつ母と写真でしかほぼ記憶にない父の姿を思い浮かべ、咲耶は必死に自分に言い聞かせた。
 翌日、咲耶の調子はどうも悪かった。艶やかな黒髪は着物に合わせて大胆にまとめ上げられ、花の飾りが添えてある。着物は桜色で、様々な吉祥文様が描かれた値の張るものだ。公子が用意したのか、中村か。咲耶にとっては、どちらでもいい。ただメイクといい着物の柄といいまるで咲耶の趣味ではなく派手すぎだ。

 ホテルの中にある美容室で着付けとヘアメイクを済ませ、咲耶は何度もため息をつく。寒気が止まらずもしかすると熱が上がってきたかもしれない。とはいえ、今の自分の体調を伝えたところで、公子も先方も今日の段取りを変更したりしないだろう。かえって罵られそうな予感がするのでじっと耐えるだけだ。

 昨日雨に打たれたのがよくなかったのかもしれない。なにより突然現れた暁と名乗る悪神に不幸にすると宣言されてしまった。どう考えてもすがすがしい気持ちにはなれないだろう。

 まさかこの体調の悪さも彼の仕業……じゃないよね。

 そのとき控え室にノック音が響いた。返事をする前にドアが開き、現れたのは咲耶の従姉である佐知子だ。

「あら、素敵。咲耶、結婚おめでとう」

 まったく気持ちがこもっていない祝辞を無表情で受けとる。誰が主役なのかと言わんばかりに真っ赤なドレスを身にまとった佐知子はニヤリと口角を上げた。

「よかったじゃない。あなたみたいに身寄りがない子を妻にしたいだなんて中村社長は懐が広いわね。咲耶にはもったいない人よ」

「なら代わって差し上げましょうか?」というのは声に出さなかった。頭がフラフラして声を出すのも面倒だ。どうやら手筈が整ったらしい。
 咲耶はゆっくりと立ち上がり、覚悟を決め控室を後にする。佐知子に続き向かったのは、ホテル内にある料亭の一室だ。そこで先方と食事をした後、婚姻届を出す予定になっている。お見合いと結婚がほぼ同時という段取りに、そこに咲耶の意思などまったく反映するつもりがないのがよくわかる。

「ちょっと顔色が悪いわよ。そんな顔で中村社長の前に出るつもり?」

 店員に案内された個室前までやってきて、佐知子がくるりと咲耶の方へ振り返った。こんなときでも佐知子が心配するのは咲耶自身の体調ではなく相手に与える印象だ。この結婚がうまくいけば中村不動産とつながりができて、父の会社にとって大きなプラスとなる。咲耶の幸せなどどうでもいい。むしろ不幸になってしまえとさえ思っている。ちょっと顔が整っているからって、昔から親戚もクラスメートも、周囲の注目は咲耶に向けられることが多かった。それが佐知子は気に食わない。従姉の立場が余計に嫉妬心を掻き立てる。けれどそれも今日で終わりだ。

 佐知子の指摘に、咲耶は大きくため息をつき背筋を伸ばして真っすぐに前を見据えた。
 それで納得したのか、佐知子は個室の扉を開けるよう従業員に指示をした。

「お待たせしました、中村社長」

 そこには中村社長と机を挟んで佐知子の両親が座っていた。窓から見える庭園は立派で、宴会ができそうなほどの広さがある。

「咲耶、挨拶しなさい」

「此花咲耶と申します」

 佐知子に促され、うやうやしく咲耶は頭を下げた。その姿に中村は鼻の穴を大きくし、興奮気味に声をあげる。

「これは、なんと。えらい別嬪さんやな」

 その顔を見た瞬間、咲耶の背中に嫌なものが走った。年齢は聞いていたが、中村はあと十才ほど上だと言われても違和感がない。背が低く小太りで、スーツを着ているというよりは、スーツに着られている印象だ。
 ひとまず中村の正面に咲耶は腰を下ろした。その途端、公子が饒舌に語りだす。

「見た目と若さだけですよ。この子は幼くして両親を亡くし、かわいそうだからって周りが甘やかして本当に世間知らずなんです。結婚していろいろと教えてやってください」

「それは不幸な人生を送ってきたんやね。同情するわ」

 咲耶は視線を落とした。心臓がバクバクと煩く、つい顔をしかめる。中村はそんな咲耶の様子を照れているのだと勘違いし、下卑た笑みを浮かべた。

「でも自分の不幸に酔ったらいかん。結婚してあげるけれど、それとこれとは別や」

 あくまでもこの結婚はしてあげる側であり、自分の方が立場が上だという意味を込め中村は告げた。さらに咲耶の隣に座っていた佐知子がわざとらしく咲耶に寄り添う。

「哀れな身の上なのに、中村社長に見初められて咲耶も幸せね」

 かわいそう、不幸、哀れ。

 投げかけられる言葉の数々に咲耶は唇を噛みしめる。胸の奥が焼けるように熱くて、湧き起こる感情が怒りなのか悔しさなのか、名前がつけられない

『今あるものを大切にして、前を向いて感謝しながら生きていくの。そうしたら幸せは向こうからやってくるから』

 父を亡くしてつらかったとき、母が入院したとき、母のこの言葉で前を向こうと頑張った。母を亡くして公子の家に引き取られてからも、両親に誇れるようにと咲耶なりに自分の人生を歩いてきた。

 私、本当にこのままでいいの? でも逆らったところで……。
 葛藤する咲耶の隣では佐知子は言い知れぬ高揚感に包まれていた。

 父から中村を紹介されたとき、佐知子は一瞬で生理的に彼を受け付けなかった。しみと皺だらけの顔は父親より祖父世代に見える。ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべたしまりのない表情に不快感を覚え、話すのさえ苦痛だった。経営者としての腕だけは確からしいが、自己顕示欲と常に相手より上に立っていたい性格から異性などおそらく知らないだろう。そんな男の妻に咲耶はどうかと母の公子が提案したとき佐知子は両手を挙げて賛成した。せいぜい苦労すればいい。これで長年の溜飲を下げられる。

 飲み物を注文したタイミングで公子がバックから書類を取り出した。

「中村社長。忘れないうちに先にこちらを記入いただけますか? 咲耶の分は書いてありますので」

 中村の前に広げられたのは婚姻届だった。咲耶自身は書いた覚えはなく目を見開く。中村は嬉々として胸元からペンを取り出した。

 その姿を前に咲耶は口を開く。

「ごめんなさい、やっぱり私」

「咲耶」

 扉が勢いよく開く音とここにいる誰のものでもない自分を呼ぶ声。中村の手が止まり、咲耶も口をつぐんだ。その場にいた全員の注目が、突然現れた第三者に向けられる。

 扉のところにはスーツを着た青年が息せき切った状態で立っていた。すらりと背が高く、面々を見下ろす切れ長の目は漆黒で眼差しは力強い。艶のある黒髪に、整った輪郭。端整な顔立ちは目を引く。

 一体何者なのか。混乱する咲耶の元に男はさっさと歩を進めると、腰を落として彼女の頬に手を添えた。

「こんな男と結婚なんて馬鹿な真似はよせ。俺がやっと見つけたんだ。他の男のものになんてさせない」

 真剣な面持ちの向こうにうっすら見える不敵な笑み。男の顔を見つめ咲耶は気づく。

「な、ん……」

 人間の姿をしているが、彼は間違いなく昨日咲耶の前に突然現れ、“悪神”だと名乗った暁だ。

「な、なんだ。お前は! 突然」

 場を壊され、中村が体を震わせ激昂する。しかし暁は歯牙にもかけず逆に笑顔を向けた。

「ああ、失礼。名乗るのが遅くなりました。私は悪七(あくしち)暁。残念ですが咲耶は諦めてください。彼女を忘れることができず、俺の方がずっと昔から彼女を想い続けてきたんです」

 それはどういう意味でなのか。すらすらと暁から出てくる言葉を咲耶は複雑に思いながらも受け止める。

「ふざけるな。俺を誰だと思っている!? 俺はここらへんでは顔の利く中村不動産を経営しているんだぞ!」

 机を鳴らす中村に対し、今までほぼ会話に参加していなかった公子の夫が呆然と口を開く。

「悪七って、まさか……」

「ええ。私はAkushici.Inc.の人間です」

 暁の回答に中村が鳩が豆鉄砲を食ったようになる。Akushichi.Inc.は咲耶も知っている世界的に有名な大企業だ。金融業をメインに不動産、通信、エネルギー産業と手広くその名を知らない者はいない。

 暁は悪神ではないのか。どういうことなのか。理解できず暁を見つめると、彼は余裕たっぷりに微笑み咲耶を立たせ再び彼女に顔を寄せる。

「もう絶対に手放さない。約束する。だから俺を選ぶんだ」

 咲耶は瞬きひとつできず動けない。昨日もそうだった。暁の目は体も思考もなにもかも止めてしまう。
 さらに暁から顔を近づけられ、なにかに促されるように目を閉じると唇を重ねられた。ふと我に返り咲耶が離れようとする前に、暁が口づけを終わらせ咲耶を抱きしめたまま外野を見下ろす。

「文句がないようでしたらこのまま」

「待ちなさい!」

 暁の言葉を佐知子が遮った。彼女も立ち上がり暁と咲耶を睨みつける。

「そんなの認められるわけないでしょ。突然現れてあなたなに? この子が頼んだの? 咲耶が悪七の人間と知り合いなわけないじゃない!」

「そうよ。こんな茶番、いい加減にして。咲耶、あんたわかってるの? 今まで育ててもらっておいて、こんな真似をして。この縁談を断ったらあんたを絶対に許さないわよ!」

 佐知子に続くように公子も立ち上がり、咲耶を責め立てる。女性二人の迫力に圧倒され、中村も公子の夫も呆然とするしかなかった。
 わずかに場に沈黙が流れた後、咲耶は体の向きを変え、静かに公子たちに向かって深々と頭を下げた。

「ごめんなさい。今まで家に置いてもらっていたことには感謝しています。でも私は不幸じゃない。だから同情して結婚してもらう気はありません」

 続けて咲耶は中村の方に向いて頭を下げる。予想外の咲耶の行動に公子と佐知子もすぐに言葉が続かなかった。
 中村が書こうとしていた婚姻届を暁がひょいっと手に取った。

「彼女は俺のものだ。誰にも渡さない」

 冷たい笑みを浮かべ、残された者たちに吐き捨てると咲耶の肩を抱いてさっさとその場を後にする。