――二〇一七年、九月十日、日曜日。
 生まれ育った町のバス停に着いた。
 バスから降りると、青空と町の景色が出迎える。新興住宅が増えてはいるけれど畑も多く、今住んでいる場所より圧倒的に田舎だ。まだ九時を過ぎたくらいだということもあるが、人はあまり歩いていない。
 久々に来たならもう少し懐かしさを感じることもできたが、それは前回丘へ行った時に済ませてしまった。これから行く場所はあの丘でも、私が住んでいた家でもない。
 今から行くのは、知里ちゃんの家だ。
 連絡先はわからないけれど、知里ちゃんが住んでいる家だけは何年経っても覚えていた。そうは言っても家にいる保証はなく、いたとしても門前払いされてしまう可能性だってある。それでも前に進むしかない。
 知里ちゃんの家へ向かうため、一歩を踏み出した。
 どんなに歩いてもあの頃の道であるが、あの頃の道ではない。やはりここ例外ではなく、新しい家が増えて景色が変わっていた。でも、一番変わったのは私の気持ちで、あの頃と違って緊張しながら歩いている。歩く速さも変わっており、昔よりも速く景色が通り過ぎていった。
 ここだ。知里ちゃんの家だ。
 日本家屋の高い塀と大きな門が、私の行く手を阻んでいるように感じてしまう。たが、表札には「田中」と書かれており、知里ちゃんの家で間違いない。昔のお屋敷のように見えるけれど、インターフォンがちゃんと付いていることも、門が自動でロックされていることも知っている。ここを押すと思うと手が震えてきた。でも、逃げたらなにも変わらない。昨日、勇気を出して一歩踏み出せたのだから、きっとできるはずだ。長野くんが近くにいなくても、昨日の言葉が背中を押してくれるはずだ。
 震える指でインターフォンを押した。
 インターフォンから電子音が鳴る。その後、辺りは静寂に包まれた。家が広すぎるため、出るのに少し時間がかかるのだ。一体、誰が出るのだろうか。そもそも、誰かいるのだろうか。
 しばらくすると、インターフォンについた小さなスピーカーから声が聞こえてきた。

「はい」

 おそらく、知里ちゃんのおじいちゃんである博栄さんだ。博栄さんは私のことを覚えているのだろうか。

「あの、日下部です。日下部ハルカです」

「ハルカちゃん? 久しぶり。どうぞ上がっておいで」

 私の要件も聞かずに博栄さんはインターフォンを切り、次に聞こえてきたのは解錠の電子音だ。
 昔と同じように門を開け、広い庭の中へと入る。
 たくさんある大きな木も、鯉が泳いでいる池もあの頃と変わらない。今見ると庭というより日本庭園と表現した方が正しいと思った。だけど、今日は景色を楽しみに来たわけではないので、真っ直ぐ家を目指す。玄関ドアの近くに着いた時だ。

「いらっしゃい。元気にしていたかな?」

 家のドアを博栄さんが開けてくれたのだ。
 白髪で髭を生やした貫禄がある姿は、最後に会った時から全然変わらない。博栄さんは元政治家で現役時代からこんな感じらしいが、高校生になった今になって見ると現代というよりは明治時代の政治家のように思える。
 私はその場で立ち止まった。

「おはようございます。覚えていてくれたんですね」

「昔は毎日のように遊びに来てくれたからね。ハルカちゃんはあの頃から全然変わらないねぇ」

 身なりに特別に気を使っているわけでもないので、確かに小学生とあまり変わらないのかもしれない。なんだか恥ずかしくなって苦笑いで誤魔化してしまった。

「こんなところで立ち話も良くないからこっちおいで」

「ありがとうございます」

 博栄さんが手招きをしてくれたので、小走りで家の中へと入る。私の家より三倍くらいは広い玄関に圧倒されてしまった。重要文化財のような歴史を感じさせつつも、最近リフォームしたのか現代的に洗練されているのだ。玄関が広いことは知っていたが、小学生の時よりもすごいことになっている。

「いつ見ても立派なお家ですね……」

「おやおや、今日はうちを見に来たのかい?」

 そうだ。知里ちゃんの家を見に来たわけではない。心臓が口から飛び出るのではないかと思うほど緊張したが、少し間をおいて呼吸を整える。

「ち、知里ちゃんに会いに来ました」

「そうか、そうか。今、呼んでくるからね」

 緊張している私とは違い軽く言うと、博栄さんは二階へと続く勾配がきつい階段をゆっくりと上って行った。そういえば二階は増築なので階段が急になってしまったと、知里ちゃんから教えてもらったことがある。この階段の先に知里ちゃんの部屋があり、慣れない私には上り下りがちょっと怖かった。
 そう、知里ちゃんは今も二階の部屋にいるのだ。
 だけど、本当に私と会ってくれるのだろうか。このまま、博栄さんだけが降りてきて帰されてしまうかもしれない。でも、もし会ってさえくれるなら、あの日のことを謝ろう。どんなに怒られても嫌われていても、謝るしかない。私はこのためにここまで来たのだ。

「えー!」

 上から大きな悲鳴が聞こえてきた。それがなんのか考える間も無く、慌ただしい足音が二階から聞こえてくる。足音はどんどん大きくなり、誰かがものすごい速さで階段を駆け下りて来たのだ。

「本当だ……ハルカっちだ……」

 七年ぶりだ。知里ちゃんが目の前にいる。
 その姿は大きく変わっていた。肩まである髪は綺麗に金色に染まっており、フリルやリボンが目立つモノトーンの服と黒い小さな鞄でコーディネートしている。安物の服と安物の手提げ鞄で来た私とは大違いだ。濃いメイクで涙袋が強調されていて、真っ赤な口紅が塗られている。知里ちゃんの全身をくまなく見たせいか、今日のファッションにぴったりな靴が何足か玄関に置いてあることにも気がついた。
 小学生だった時の知里ちゃんとは似ても似つかない姿であり、昨日街で見て怖いと思った派手な人達と同じタイプに思える。だけど、どんなに姿が変わっても昔の面影はちゃんとあった。知里ちゃんは知里ちゃんだ。
 やっと、謝ることができる。

「知里ちゃん、あの……」

「ハルカっちごめんね。私が悪かったよぉ!」

 知里ちゃんの目から大粒の涙が一筋流れたかと思うと滝のように溢れ出し、大声で泣き始めた。思いもよらない出来事に困惑したが、この状況を私がどうにかしなければならない。

「泣かなくていいよ。謝らなきゃいけないのは私の方だから」

「そんなこと……ないもん! 私が……私が……」

「大丈夫だから落ち着いて」

 知里ちゃんは喋ることも大変なくらい大泣きしている。二階から気まずそうに博栄さんが降りてきた。私と目が合ってしまうと、小声でごめんねと言って軽く会釈をし、家の奥へと早足で消えていった。
 この感じ、久しぶりだ。やっぱり、知里ちゃんは知里ちゃんだった。普段は明るくて気が強い女の子だけど、ちょっと泣き虫なところがある。懐かしい気持ちになりながら、知里ちゃんが泣き止むまでなだめ続けた。

「ありがとう……ハルカっち」

 涙でメイクは崩れて目も真っ赤だが、どうやら落ち着いてきたようだ。今ならきっと話をちゃんと聞いてもらえる。

「私は大したことしてないよ。そんなことより、今日は小学生の時のことを謝りに来たの」

「あれは私が悪いんだよ。私がテストで良い点取って調子に乗ったから……」

 喧嘩のきっかけは学校のテストだった。
 私が間違えた問題を知里ちゃんが正解していて、知里ちゃんが私のミスをからかってきたのだ。知里ちゃんにからかわれることはよくあったが、一番得意だと思っていた算数で間違えた自分に対する悔しさもあり、周りの子達が引くくらい怒ってしまった。知里ちゃんも泣き喚きながら言い返して大きな喧嘩になってしまい、この日を境に二人は口も聞かなくなったのだ。もうこんな悔しくて嫌な思いは二度としたくないと思い、勉強だけに集中して私は誰とも関わらなくなり、知里ちゃんは他の子達と関わるようになった。今思い返すと本当にくだらないことで絶縁してしまったと思う。

「私だってあんなに怒ることなかったと思う。本当にごめんなさい」

「そりゃ、怒って当然だよ」

 知里ちゃんの表情は暗い。でもこの思いを伝えれば、少しは明るくなってくれるかもしれない。

「私、知里ちゃんと喧嘩したことすごく後悔してるけど、良いこともあったんだ」

「え? いいこと?」

「うん。知里ちゃんと喧嘩したから勉強に火がついて、今行っている学校に受かったからね。そこで楽しくやってるんだよ。ある意味、知里ちゃんのおかげだし、あの時のことをちゃんと謝ってお礼を言いたかったの」

 以前の私だったらこんなことは考えられなかった。考えられるようになったのは、他でもない長野くんのおかげだ。長野くんがまた私を前向きにしてくれたのだ。だが、前向きにしたのは私だけではなかった。私の言葉を聞くと、安心した明るい表情に知里ちゃんは変わったのだ。まるで重い荷物を下ろしたかのようだ。

「私もずっと後悔していたけど、ハルカっちが楽しく過ごせているならそれで良かったよ」
「知里ちゃんも楽しく過ごせていそうで良かったよ」

「うん。毎日楽しいよ」

 知里ちゃんの毎日が充実してそうで心の底からうれしかった。服装から察するに、きっと今日はどこかへ出かけるのだろう。これからメイクをし直さなければいけないだろうし、あんまり長居しても迷惑になってしまう。名残惜しいけどそろそろ帰らないといけない。

「今日はお話できて良かったよ。これからお出かけだよね。もうそろそろ帰るよ」

「待って」

 知里ちゃんが私を引き止める。一瞬どうしたのかと思ったが、思い当たる節があった。まだ知里ちゃんと連絡先の交換をしていないのだ。友達が少ない私には交換する習慣がないので、すっかり忘れていた。

「連絡先交換する?」

「それはもちろんするんだけどさ。ハルカっちこれから予定ある?」

「ないけど……」

「本当に? それならもう少しうちでゆっくりしていこうよ」

「え? 私は良いけど、知里ちゃんはどっか行くんじゃないの?」

「じゃ、決まりだね!」

 私の質問には答えず、知里ちゃんは鞄からスマホを取り出してどこかへ電話をし始めた。

「もしもし。ごめん! 今日午後からにしよう。親友がうちに来たからさ」

「ちょっと知里ちゃん、なにやってるの! ダメだよ」

 なんと、私との時間を作るために予定を変更しようとしているのだ。親友と言ってくれたことはうれしいがそんなの絶対に良くない。私を無視して知里ちゃんは電話の相手と話を続ける。
「そうそう。前に言った喧嘩しちゃった親友。奇跡が起きて仲直りできたんだぁ」

 どうやら電話の相手には私のことを話していたみたいだ。知里ちゃんが私のことをずっと覚えていてくれたのがうれしくて、電話の相手には申し訳ないがもうなにも言えなくなってしまった。

「ごめんねぇ。じゃ、午後で」

 電話を切ると、知里ちゃんは笑顔を私に向けた。

「午前中いっぱいは大丈夫だから、うち上がっておいで」

「ありがとう。電話の相手にごめんなさいって伝えておいて」

「いいから、いいから。じゃ、私の部屋で話そう」

「う、うん。おじゃまします」

 靴を脱いで知里ちゃんの家に上がった。
 知里ちゃんが階段の方に歩き始めたので、その後をついていく。そのまま手すりを使わずに知里ちゃんは階段を上って行ったが、私は慣れていないので手すりをつたいながらゆっくりと進んだ。そのことに気が付き、知里ちゃんは階段の真ん中くらいで後ろを振り返る。

「ハルカっち大丈夫? 階段怖い?」

「ちょっとね。でも大丈夫だよ」

「小学生の時も怖がってたよね」

 知里ちゃんが笑って言うと、私も笑ってしまった。

「こんな昔のこと覚えていてくれてうれしいな」

「そりゃ、よく遊んだから忘れる方が無理だよ。階段から落ちないように気をつけてね」

「それは大丈夫だよ」

「じゃ、先に行くね」

 知里ちゃんは無駄に階段を駆け上がった。これでは落ちないか私の方が心配になってしまう。でも、そこが知里ちゃんらしい。遅れて階段を上り切ると、知里ちゃんは自分の部屋へと案内してくれた。

「部屋、散らかっていてごめんね。不意打ちだったからさ」

「いいよ。勝手に来たのは私だし、気にしてないから」

 確かに部屋は色々なもので散らかっている。それでも小学生の時よりはだいぶマシだ。一番酷い時は足の踏み場がなさすぎて二人で部屋の掃除をしたこともあった。

「良かったぁ。これから色々準備してくるから漫画でも読みながら待ってね」

「わかった」

 知里ちゃんが部屋から出た。
 立ちながら待つわけには行かないので床に座った時だ、やっと実感した。思わず口に出してしまう。

「私……知里ちゃんと仲直りできたよ……」

 色々覚悟を決めて来た割に、本当に呆気なかった。たったこれだけのことが七年もできずにいたのだ。たった一歩踏み出しただけでこんなに歩み寄ることができた。感情が溢れて目が潤んでくる。
 私まで泣いたらダメだよね。
 せっかくまた仲良くなれたのだから、今日一日は笑顔で過ごしたかった。気分転換をするために、無造作に置いてある漫画に手を伸ばす。漫画を読むのは小学生ぶりだ。読んでみると思ったよりも面白い。
 しばらく読んでいると、私のスマホが鞄の中で鳴った。どうやら新着のメッセージが届いたようだ。妙に急いで確認してみる。

【昨日はありがとうな。楽しかった。あのさ、来週の土曜日なんだけど映画行かない?】

 思った通り、長野くんからだった。
 また誘ってもらえるなんて考えていなかったので、驚きのあまり変な声が出てしまう。さらにこの日は私の誕生日だ。すぐに「行きたい」と打とうと思ったが、一応聞いてみることにした。最初に比べてだいぶ慣れた手つきで、返信を入力する。

【こちらこそありがとう。私も楽しかった。どんな映画?】

 すぐに既読になり、熊が笑っているスタンプが送られてきた。

【超ハートフルな映画!】

 映画の公式ホームページも一緒に送られて来たので見てみることにした。芸能人にあまり詳しくないので、知っている役者さんが誰も出演していない。それでも、確かにハートフルで面白そうだ。

【面白そう。観に行きたい】

【やったね! 難病カードと学割使えば五〇〇円で買えるから、チケット取っておくよ】

【ありがとう。土曜日は一日中空いてるから時間はいつでもいいよ】

【わかった。チケット取れたらまた連絡するね】

【はーい】

 長野くんとのやりとりは終わった。
 することがなくなったので、漫画の続きを読み始める。戻って来るのがちょっと遅いと思い始めた時、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。

「ハルカっち開けて」

「わかった」

「サンキュー」

 扉を開けると、五〇〇ミリリットルの黒いペットボトルが二つ乗ったお盆を持った知里ちゃんがいた。さっき泣いて崩れたメイクが直されており、時間が掛かったのはこのためだったようだ。

「ゼロカロリーコーラだ。私がこれ好きだって覚えていてくれたんだ。でもなんで家にあるの? 知里ちゃん、ゼロカロリーコーラは物足りないって言ってなかった?」

「そっちこそよくそんなこと覚えてるね。ほら、ゼロカロリーコーラってダイエットコーラとも言うよね? 中学生の時からダイエットしようと思って飲み始めたんだ」

 得意げに言う知里ちゃんが面白くて、思わずクスッと笑ってしまった。

「いやいや、これ飲んでも痩せないと思うよ?」

「細かいことはいいの! 飲もう!」

 知里ちゃんは部屋に入ると座ってお盆を床に置いたので、私も近くに座った。二人でコーラを取り、特に打ち合わせをしたわけでもないのに乾杯して飲んだ。ここから先は話が止まらなかった。
 まずは近況報告からだ。
 知里ちゃんは地元のトップ校に通っていると教えてくれた。どうやらそこの友達の影響で派手なファッションを好むようになったようだ。私は普通科に進級できたことを伝える。知里ちゃんは高校であった話をしてくれたが、私は話せるようなネタがないので聞くだけだった。それでも楽しい。
 次第に、二人は思い出で盛り上がっていく。
 忘れかけていたことも知里ちゃんと話すと思い出していき、話がどんどん弾んでいく。四年生までしか仲良くしていなかったのに話題は尽きない。昔の思い出話から派生して、話はどんどん広がっていく。連絡先を交換する時にスマホを見ると、かなりの時間が経ってしまったことに気が付いた。また知里ちゃんと時間を忘れて楽しくお話できることがなによりうれしい。
 話題は知里ちゃんが通った中学のことになった。
 中学生の時にあったことをおもしろおかしく話してくれたのだ。長野くんと話している時と同じように、ただひたすら聞いて笑った。
 同じ小学校だった人の話だけではなく、違い小学校の人の話も個人名を出しながら知里ちゃんは話す。でも長野くんも同じ中学だったはずなのに、なぜか話題に出てこなかった。長野くんの性格を考えるなら知里ちゃんと仲が良くてもおかしくないはずだ。
 それも気になったが、もっと気になることがあった。話から察するに、知里ちゃんは男女問わず後輩とも仲が良さそうだ。もしかしたらと思い、話が途切れた時に聞いてみた。

「ねぇ、知里ちゃん」

「ん?」

「タクマくんって名前の男の子知ってる? 多分後輩だと思うけど」

 知里ちゃんは腕を組み目線を上に向け、難しそうな顔で「うーん」と唸ってから言った。

「大葉琢磨ならわかるけど、あいつは同じ学年だよねぇ」

「うん。大葉くんなら私も知ってる。」

「後輩もそこそこ知っているけど、タクマって名前はあいつ以外知らないかな」

「そっか。ありがとう」

「タクマって子がどうかしたの?」

 知里ちゃんにまだあの頃の話をしていない。一口だけ残ったコーラを飲んでから、私は話し始めた。

「小四の時なんだけどさ、外で勉強の息抜きしている時に会ったの。泣いてたから話を聞いてあげたら、学校でいじめられてるって言っててさ。その子のこと、時々思い出すんだよね」

 タクマくんとはその日から一度も会っていない。それでも、いじめを苦に自殺していないか時々心配になっていたのだ。長野くんに聞いてみても良かったかもしれないが、タイミングを逃してから聞けていない。理由は自分でもわからないが、長野くんの前でタクマくんの話はしたくないと、なんとなく思ってしまっているのだ。だから知里ちゃんに聞いてみた。

「ハルカっちって本当に優しいよね」

「そうかなぁ。当然のことをしただけだと思うけど……」

「それを普通にできちゃうのがハルカっちのすごいところ。タクマくんってどんな顔の子だったの?」

「顔はちょっと覚えてないかな。一回しか会ってないからさ。でも、体型は覚えてるよ。背が低くて太ってた」

 一口だけ残ったコーラを、知里ちゃんも飲み干した。

「太った子なら後輩に何人かいたけど、名前までは思い出せないなぁ」

「そうだよね。ありがとう」

 タクマくんが長野くんと同じ芽木戸小学校出身なら、知里ちゃんと同じ中学校になる。知里ちゃんに聞けばなにかわかると思ったがなにも知らなかった。もしかしたら、タクマくんは全然違う小学校だったかもしれない。

「あ、でもがっかりしないで。うちの中学はどの学年も仲良しでいじめなんてなかったから、タクマくんがうちの学校の生徒ならきっと楽しく過ごせたと思うよ」

 どうやらすごく落胆した表情を私はしていたようだ。でも知里ちゃんの言葉を聞いて安心した。

「それなら良かった。元気にやっているといいね」

「そうだね。どんな子か知らないけどきっと元気にやってるよ」

 知里ちゃんや長野くんと同じ中学なら心配なさそうだ。例え違う中学だとしても、タクマくんは楽しく生きていると思うことにした。そんな保証はどこにもないが、祈るように思ったのだ。
 気になっていたことが落ち着き、ふと思った。そういえば、結構話してしまったが今何時なのだろうか。知里ちゃんの部屋にある時計を確認してみる。
 いけない。そろそろ帰らないと。
 まだまだ話し足りないが、結構いい時間だ。そういえば、知里ちゃんと遊ぶ時は、いつも遊び足りないと思っていた。高校生になった今でも全く変わっていない。

「新しいコーラ持ってくるね」

 知里ちゃんが時間をあんまり気にしていないのも同じだった。これだから遅刻はしないにせよ、なにかあるといつもギリギリの時間に着くのだ。

「そろそろ時間じゃないかな?」

「もう少し大丈夫だよ。せっかく久々に会ったんだからさ」

「でもお友達待たせちゃうよ?」

「友達じゃないし」

「え?」

 友達じゃないとはどう言うことなのだろうか。さっき、玄関で電話した感じから察するにかなり親しい間柄だということはわかる。なにもわかってない私に知里ちゃんはあっけらかんと言った。

「彼氏だよー」

 納得した。確かに彼氏なら友達ではないけれど、親しい間柄ではある。知里ちゃんは恋愛の方も順調のようで、うれしくて笑みが溢れた。

「素敵な人が見つかって良かったね。おめでとう」

「ありがとう。ハルカっちも彼氏とかいないの?」

「私は全然だよ」

 笑いながら答える私を見て、知里ちゃんはニヤニヤしながら言った。

「でも仲良い男の子くらいはいるんじゃないの?」

「え、えっと……」

 思わぬ質問にさっきまでの笑顔がどこかへ行ってしまった。なんだか顔が熱いし、知里ちゃんを直視するのもなぜか恥ずかしくて俯いてしまう。

「これはいるな」

 やはりお見通しのようだ。長野くんのことはまだ言っていないので、報告するいいチャンスだがなぜか心臓がバクバクしていた。でも言うしかない。

「うん。長野くんと仲良いよ。知里ちゃん、中学同じだよね?」

「え! 長野ってあの長野桐人? 嘘でしょ? なにがあったの?」

 声が大きくなった知里ちゃんを思わず見てしまった。元々感情を大きく表に出すタイプだが、それでも大きすぎるくらい目を丸くしている。なにをそんなに驚いているかわからず、困惑しながら言った。

「えっと……落とし物拾ってそれがきっかけで……」

 難病カードのことを言うことができないのでうまく濁したが、知里ちゃんに嘘を吐いたみたいで申し訳ない。それでも私を疑う素振りさえ見せず、知里ちゃんは目を輝かせながら言った。

「すごっ! こんなことあるんだね」

「うん。今日、ここに行こうと思ったの、長野くんのおかげでもあるんだよ。でも長野くんと仲良く出来たのは知里ちゃんがいてくれたからかな」

「わ、私?」

「うん。知里ちゃんと遊んだ経験があったから長野くんとも遊んでみたいと思えたというか……」

「なんか役に立ったみたいでうれしいな。今度、詳しく話聞かせてよ。うちの彼氏、長野くんと仲良かったし三人でご飯行こう。次の土曜日なんてどう?」

 知里ちゃんの性格を考えると長野くんを含めた四人で会おうと言ってきそうだが、なぜか三人で会おうと言った。もしかしたら知里ちゃんと長野くんは、あんまり仲良くなかったのかもしれない。そこには触れずに、確実に触れなくてはいけないところにだけ触れた。

「土曜日は予定あるんだ。ごめんね」

「なんだぁ。土曜日ならハルカっちの誕生日だったのにね」

 なんと、知里ちゃんは私の誕生日も覚えていたのだ。私も知里ちゃんの誕生日を覚えているが、自分だけではなくうれしかった。

「覚えていてくれてありがとう。日曜日も祝日の月曜日も空いてるけど、知里ちゃんはどう?」

「私は大丈夫だから、彼氏に聞いてみるよ。めちゃめちゃかっこいい男の子連れてくるから期待しておいてね!」

「うん!」

 知里ちゃんは彼氏のことが大好きなようだ。それだけで微笑ましい気持ちになってしまう。幸せそうで本当に良かった。次に会う時は知里ちゃんの彼氏にも会うことができると思うと、今から楽しみで眠れなくなってしまいそうだ。
 帰る準備をして二人で部屋を出た。
 廊下を歩き階段を前にすると、知里ちゃんは駆け出して、落ちるようなスピードで階段を下りた。一階にいる知里ちゃんがドヤ顔で私を見ている。「ハルカっちもやってみなよ」と言わんばかりのその姿が面白くて思わず吹き出しってしまったが、挑発には乗らずに手すりを使いなが一歩一歩下りることにした。
 なにごとにも最初の一歩があるのだ。今日という日の一歩は、長野くんが私を勇気づけてくれたから踏み出せた。次に会ったらお礼を言おう。
 階段を下り玄関まで行き靴を履いた。

「ハルカっち、今日は家まで来てくれてありがとう。これからはずっと友達だからね。もう、絶交なんて嫌だからね」

 知里ちゃんの目が潤み始めてきた。このままだとまた泣いてしまう。

「今泣いたらまたメイク取れちゃうよ? もちろん、私達はずっと友達だから泣かないで」

「な、泣いてないし」

 二人とも声を出して笑っていた。知里ちゃんの瞳はもう潤んでいないので、メイクを直さなくてすみそうだ。私達の笑い声に釣られたのか、襖が開けて玄関まで来た人がいた。

「あ、おじいちゃん」

 博栄さんがうれしそうにやって来たのだ。

「ハルカちゃん、もう帰るんだね。今日は来てくれてありがとう」

「こちらこそありがとうございます」

「またいつでも遊びに来てね」

 博栄さんに続けて知里ちゃんも言った。

「いつでも連絡ちょうだいね。私からもするし」

 そういえば博栄さんにまだお礼を言っていなかった。今日のことの発端になっているのは、実は博栄さんなのだ。

「知里ちゃん、ありがとうね。あと、博栄さんにお礼を言いたいことがあります」

「なにかね?」

「知っている人が難病カードを貰っていて、使わせていただきました」

「ほぉ。難病カードを」

「はい。おかげで楽しい時間が過ごせました。ありがとうございます」

 博栄さんに向かってしっかりと頭を下げる。
 難病カードの制度を作ったのは、政治家をやっていた時の博栄さんだった。小学生の時に知里ちゃんから聞いていた話を覚えていたのだ。私が顔を上げると博栄さんは懐かしそうな、でもどこか悲しそうな顔をしていた。

「難病カードを作るために政治家になったと言っても過言ではないよ。若い頃の話なんだけどね。一番仲が良かった友達がとある不治の病になったんだ。もう自分の寿命が長くないと知ってあいつは……自殺してしまったよ」

「そ、そんなことがあったんですね」

 思いもよらない博栄さんの過去に、気持ちが沈んでしまう。そんな私を察してか、博栄さんは優しい温かい声で言った。

「だから、あの時決めたんだよ。残り少ない時間を少しでも楽しく過ごせるものを作ろうってね。それが難病カードなんだ。ハルカちゃんもその人と大切な時間を過ごしてね」

 え。残り少ない時間ってどういうこと。
 博栄さんの言葉が心に深く突き刺さったが、これ以上は考えたくない。いや、考えても仕方ない。だって長野くんはあんなに元気だ。難病でも命に関わる病気であるはずがない。難病カードもきっとたくさん種類があるはずだ。そう思い込むことでどうにか精神を保ち言った。

「ありがとうございます。大切にしますね」

「そうしてくれたら、難病カードを作った者としてうれしいよ」

 すると今度は知里ちゃんが話し始めた。

「ハルカっち、色々大変なんだね。私、上手いこと言えないかもしれないけど、なにかあったら話聞くからね。なんでも言ってね」

 知里ちゃんの顔からは悲しみが溢れていた。一体なぜそんな顔をしているのだろうか。やっぱり長野くんは相当酷い病気なのだろうか。

「ありがとうね。じゃ、そろそろ帰るよ。また来週」

 まずは落ち着くために、早くこの場を離れることに決めたのだ。知里ちゃんも博栄さんも帰りのあいさつをしたが、耳に入って来なかった。帰りに庭を見ても良かったが、そんな余裕はなく、すぐに敷地内から出てバス停まで歩く。放心状態だったためか、行きよりも早く着いた気がした。
 混乱した頭で考える。
 難病カードのことをスマホで調べてしまえば答えはすぐに出るだろう。鞄からスマホを取り出してみる。だが、指が震えてうまく操作できなかったので、そのまましまった。
 知里ちゃんと久々に会って楽しかったのに、なんでこんなことになってしまったのか。もちろん、博栄さんが悪いわけではない。誰が悪いわけでもないのに心は壊れそうだ。壊れないようにもう一度強く信じ込まないといけない。
 長野くんの病気は命に関わるものではないはずだ。長野くんの病気は命に関わるものではないはずだ。長野くんの病気は命に関わるものではないはずだ。
 何度も何度も自分に言い聞かせる。悪い考えが浮かばないようにするためにはそうするしかなかった。私が私の心を守るためにはそれしかできない。何度言い聞かせたかわからなくなった時、知里ちゃんに言われた言葉が蘇る。

『私、上手いこと言えないかもしれないけど、なにかあったら話聞くからね』

 そうだ。今の私には知里ちゃんがいる。
 長野くんの病気のことは知里ちゃんに話せない。でも、本当に辛い時や困った時は助けを求めよう。もちろん、知里ちゃんに困ったことがあったら助けに行きたい。そんなふうに思えたのは知里ちゃんに対してだけではなかった。
 長野くんも同じだ。