――二〇一七年、十月二十九日、日曜日。
 梶永医科大学附属病院まで着いた。
 学校よりも巨大な白い建物の中に、急足で入る。受付の前まで行き事情を説明すると、必要事項を記入する紙を渡された。すぐにそれを書き桐人のところへと向かう。
 昨日の夜、桐人としていたメッセージのやりとりが既読にもならず突然途切れた。寝てしまったのではと思いあんまり気にしないでいたが、次の日の昼になってもなんの連絡もなかったのだ。どんどん心配になってきた私に、一通のメッセージが届く。その内容に背筋が凍りついた。

『すまん。足がダメになった。梶永医科大学に入院してる』

 桐人からだった。
 背筋が凍りついても固まっている場合ではない。とにかくすぐに病院に行かなくてはと思い、空色のワンピースに着替えて慌てて病院まで駆けつけたのだ。
 桐人の病室のドアを開ける。

「ハルカちゃんごめんな。こんなことになって」

 個室にいる桐人は思ったよりも元気そうな笑顔で私を出迎えてくれた。薄緑の入院着を着て、ベッドで上半身だけを起こしており、下半身には布団がかかっている。隣の椅子に座っているの桐人そっくりな女性はおそらく母親だろう。恋人の親にあいさつするのが礼儀だが、それどころではなかった。

「桐人、足……大丈夫なの?」

 大丈夫という僅かな可能性に賭けて言ったが、桐人は諦めたように笑った。

「大丈夫じゃねぇよ」

「そんな……だってこの前の検査で大丈夫って言われたんでしょ?」

「オレも医者もびっくりだ。こんなに早くダメになるとはね。母さん、ちょっとこの布団外してもらっていいかな」

 桐人のお母さんは戸惑いながらも、下半身にかけられていた布団をゆっくりと剥がしていった。私はただ呆然とそれを見ている。
 布団の下にあったのは、灰壊病だった。
 入院着から出ているはずの両足がなかったのだ。現実からあまりのもかけ離れている、身体が灰になって無くなってしまう病気が目の前に現れた。目を逸らしてしまいそうになったが、この事実から目を逸らすわけにはいかない。

「こういうわけだから、長野旅行はキャンセルしたよ。本当にごめんな」

 無くなった桐人の足を見て、なんて答えた良いかわからなかった。すると桐人はなにか思い出したかのように、突然大きな声をあげる。個室でなかったら他の患者さんの迷惑になってしまうくらいだ。

「わりぃ。まだ母さんに紹介してなかったな。この子、ハルカっていうんだ。オレの彼女。めちゃくちゃ可愛いだろ?」

 慌てて桐人のお母さんの方を向いた。お母さんは優しそうな顔で私を見ている。

「く、日下部ハルカです。桐人くんとお付き合いさせてもらってます……」

「桐人の母です。話は桐人から聞いております。本当に可愛い子ね」

「だろ? だろ? オレの彼女、可愛いだろ?」

 うれしそうに言う桐人を見て、桐人のお母さんはふふと笑う。こんな時なのになんだか照れくさくなってきた。同時にこんな時なのにいつもの桐人でいてくれることがうれしい。
 私の気持ちを察してか、桐人は桐人のお母さんに言う。

「ちょっとオレの可愛い彼女と二人きりにさせてくれない?」

「わかった」

 桐人のお母さんは椅子から立って荷物を持ち、病室から出ていった。
 病室には私と桐人しかいない。目は再び桐人の無くなった足を向いてしまった。もう歩けなくなってしまった桐人のことを考えると胸が張り裂けそうだ。なにも言えない私に桐人は優しい声で言った。

「無くなったオレの足見るの、辛いだろ? わかるよ。でもハルカちゃんには乗り越えて欲しいんだ。ないものよりも、あるものを大切にして欲しくてさ」

 桐人は私よりも強い人間だ。自分の方が辛いのに私を勇気づけようとしてくれているのだ。私は桐人がいない世界で生きなければならない。その力をくれようとしているのだろう。だったら、今目を向けるべきは今ある大切なものだ。

「……それならさ、握ってもいい?」

「ん?」

 キョトンとする桐人に、私はもっとはっきりと言った。

「桐人の手、握っても良いかな?」

 ちょっと恥ずかしそうに桐人は頷いた。
 私はもっと恥ずかしかったけれど桐人の両手を握る。
 冷たい。
 驚くほど桐人くんの手は冷たかった。それでも桐人の顔は真っ赤だ。きっと私の顔も同じくらい赤いのだろう。桐人の手は驚くほど滑らかだ。灰壊病のせいで体毛が無くなってしまった手首が、入院着から見えた。
 どれだけの時間こうしていたのだろうか。段々と桐人の手は暖かくなってきた。私の手から桐人の手が離れると、桐人はそのまま私を抱きしめた。その身体はさっきまでの手と同じくらい冷えている。

「やっぱりハルカちゃんは温かいな」

 そう言うと、桐人は私の背中を優しく掴んだ。指一本、一本の感覚が伝わる。

「桐人だって温かいから」

 私も桐人の身体を思い切り抱きしめた。もうすぐ桐人の手も無くなってしまうから、その感覚を私の身体に、深く、深く、刻み込んだ。桐人もきっと私を忘れないはずだ。
 気が付いた頃には、面会の時間は終わっていた。名残惜しかったが、桐人から離れる。

「今日はありがとうな。お見舞い来てくれて本当にうれしかったよ」

「そう言ってもらえると私もうれしいよ。ありがとう」

 帰らなければいけないのはわかっていても、ずっとここにいたい。だけどここでわがままを言っても桐人を困らせてしまうだけなので、大人しく病室から出た。

「よかったら、家まで送ろうか?」

 突然、後ろから声が聞こえた。振り向くと、病室のドアから少し離れたところに桐人のお母さんが立っていたのだ。

「え、でもまだそんなに時間は遅くないですし……」

「電車賃かかるでしょ? 車だから遠慮しないで」

「それなら……お願いします」

 わざわざ申し訳ないとは思ったが、お言葉に甘えることにした。断っても桐人と同じように押されて、結局乗せてもらいことになると思ったのだ。恋人の親の前という極度の緊張で車に乗るまで殆ど話せず、住所などの必要最低のことを伝えるので精一杯だった。
 私を助手席に乗せて車が走る。
 車内はなんとなく気まずかった。なにか話さなければいけないと必死に言葉を探す。すると、桐人のお母さんの方から話しかけてきた。

「今日はお見舞いに来てくれてありがとう」

「い、いえ。私は大したことしてませんよ」

「そんなことないよ。桐人があんなに明るくなったのはあなたのおかげだもん」

「え? どういうことでしょうか」

「桐人ね、学校では明るく振る舞おうって頑張ってたみたいなんだけど、色彩灰化が起きてからずっと塞ぎ込んでたの。夜一人で泣いているの見て私も辛かった」

「え……そうだったんですか……」

 車は赤信号で停まる。
 あの底抜けに明るい桐人が塞ぎ込んでいたなんて、考えたこともなかった。でも少し考えればわかることだ。自分がもう少しで死ぬとわかっていて、正気でいられる人間などいない。
 桐人のお母さんは少し沈んだ声で、独り言のように話し始めた。

「私のお父さん……桐人のおじいちゃんも同じ病気だったの。色彩灰化が起こった時、桐人と同じように塞ぎ込んでてね。だから桐人も全身が灰になる前に自殺してしまうのではと思ってすごく怖かった」

 桐人のおじいちゃんは自殺している。そんな話は聞いたことがなかった。なんて言っていいかわからず黙り込んでいると、信号は青になり車が走り出す。
 桐人のお母さんは先ほどとは打って変わって明るい声で、私に向かって言った。

「でもね、九月の初めくらいかな。昔みたいに桐人が明るくなったの。そう、あなたと出会ってからね。だから、本当にありがとう。あなたのおかげで桐人は笑顔を取り戻したわ」

 私と仲良くなったくらいで単純だなと思ったけど、そうした素直なところが桐人のいいところで、私が大好きな部分の一つだ。少しでも役に立ててうれしかった。

「ありがとうございます。私も桐人くんからは大切なことをたくさん教わってます。彼のおかげで毎日が楽しくなりました」

「それはよかったわ。でもね、一つお願いがあるの」

「なんでしょうか」

 フロントガラスから見える景色が夜へと変わってく中、桐人のお母さんは言いにくそうに言った。

「その空色のワンピース、可愛いんだけどできれば着てこないで欲しいの。桐人、色彩灰化のせいで青系の色が全部見えなくなってるから」

 初めて学校の外で会った時、桐人は泣き出した。あの時の私が着ていたのはこの空色のワンピースだった。桐人はスマホゲームのやりすぎで目が疲れただけだと言ったが、真実は違うものだったのだ。
 きっと、見えなくなった色の服を私が着てきたせいで死ぬことを強く意識してしまったに違いない。それでも空色が私に似合うと思って、自分なりに空色の財布まで選んでくれた。でも私は空色ではないと言ってしまったのだ。一体、桐人はどれだけ傷ついただろうか。

「……ごめんなさい」

「桐人のことだからハルカちゃんにはその話してなかったんでしょ? あんまり自分を責めないでね」

「ありがとうございます」

「本当にハルカちゃんは良い子ね。桐人が大好きになっちゃうのもわかるわ」

「そ、そんな。面と向かって言われると恥ずかしいですよ」

 桐人のお母さんは優しく笑った。その笑顔に救われた気がする。
 明日、桐人に謝ろう。
 それから桐人のお母さんは私に色々なお話をしてくれた。最初は桐人のことだったが話題は色々と展開していく。中でも若い頃好きバンドの話がすごかった。サッドクロムというバンドで今なら確実に逮捕されるような、暴力的なライブをやっていたらしい。一度だけで生で観に行ったが、親にバレてこっ酷く叱られたようだ。その話を聞いて思わず笑ってしまった。
 桐人のようにお母さんも話し上手で、退屈せずに車は家の前まで着いた。

「今日はありがとうございます」

「いいの、いいの。それより連絡先交換しない?」

「あ、いいですよ」

 いきなり連絡先の交換を申し出てくるところも桐人そっくりだ。早速、鞄からスマホを取り出す。新着のメッセージが入っていたが、連絡先の交換が最優先だ。前にやり方を知里ちゃんから教わっていたので、今回はやってもらわなくても交換できた。私のスマホには『長野愛』と言う名前がちゃんと入っている。桐人のお母さんは愛という名前だったのだ。

「なにかあったら連絡するね」

 なにかあったらという言葉が妙に重もしい響きを持っている。なにかあって欲しくはなかったが、「わかりました」と言うしかなかった。

「また明日もお見舞い行くのでよろしくお願いします」

「ありがとう。また明日ね」

「はい、さようなら」

 助手席のドアと開けると同時だった。家のドアが開く。
 お母さんだ。
 家の前に知らない車がずっと停まっていて気になったのだろう。助手席から降りてきた私を見て、目を丸くして驚いている。

「るーちゃん、一体どういうこと?」

「えっと……」

 口籠る私の代わりに運転席から降りてきた愛さんが言った。

「驚かせて申し訳ございません。私が事情を説明します」

「は、はい」

 私と桐人が付き合ったこと、桐人の余命が残りわずかであること、愛さんは事情の全てを説明した。あまりの情報に受け入れてくれるか不安だったが、お母さんはすんなりと理解してくれた。

「九月の初めくらいから娘の様子が変わったと思っていたら、そういうことだったんですね」

 お母さんは優しい目で私を見て言った。

「るーちゃん、私にできることがあったら言って。桐人くんのそばにいてあげなきゃね」

「ありがとう、お母さん」

「私からもお礼を言います。ありがとうございました。それではそろそろ失礼しますね」

 私とお母さんは車で帰る愛さんを見送った。
 お母さんが先に家の中に戻ったので、続けて私も家に入る。玄関で靴を脱いでいる時、スマホにメッセージが届いていたことを思い出した。靴を脱ぎ終えてから確認する。
 知里ちゃんからだ。
 他愛もない内容だったが、返信できたのは夜遅くなってからだった。