麻酔から始まった長い夢は、夜鹿が琥珀街にやって来た日につながっていた。
夜鹿が小学生の頃、父が亡くなった。夜鹿にとって父との別れは悲しみには違いなかったが、死の意味を理解するには足りなかった。
葬式が終わってまもなく、母が出かけて一人留守番をしていたとき、植物園への招待状が届いた。それが父から届いたように感じたのは、もしかしたら未知の世界に行ったという父が手招いたのかもしれなかった。
夜鹿は大人の言う事をきく素直な子だった。だから夜鹿が母にも言わず、その日のうちに植物園へ向かったのは、今となってもなぜなのかわからない。
「植物は好き?」
琥珀街の中の、名前を知らない会社の中にある植物園で、冷慈は屈みこんで優しく問いかけた。
うん、好きと、夜鹿は答えた。庭木が枯れてしまうだけで涙が出てくるくらいだった。成長してから、その感情は職業にするには向かないと学校の先生に言われたが、植物の匂いのないところで働きたくはなかった。
「この木が気に入ったみたいだね。そう……これはとても近しい木なんだよ」
案内をしてくれた冷慈が夜鹿に満足そうにうなずいたのは、今なら理由がわかる。会社はたくさんの植木鉢で植物を育てているが、それはすべて一つの木から分けていたからだ。
夜鹿は今も、その祖となる木を見たことがない。雑菌が入っては大事になると、会社の地下奥深くで、まるで神座におわすように生きているという。
「時間が来たから、今日はお帰り」
植物園の見学の後、冷慈の言葉を、夜鹿はわがままな子どものように口をへの字にして聞いた。
「ずっといてはいけないの?」
「大人になったときにまた呼ばれたら、いいよ」
「ほんとう?」
目を輝かせた夜鹿に、冷慈は柔く笑って言った。
「いいよ。でも、そのときは……」
冷慈の言葉の続きは、夜鹿が会社に就職したときの歓迎会で聞いた。
琥珀街に好かれたら帰れないよ。冷慈の言葉はまもなく真実になろうとしている。
今の夜鹿は琥珀街の外に執着を持てない。友達も、母でさえ、夜鹿の世界から遠ざかってしまっている。
会社を構成する一つのものであることに満ち足りて、同じ枝葉の一つである冷慈を心から愛している。
「おいで。今日だけ特別に見せよう」
過去にはない言葉を冷慈が告げたとき、夢ではない場所に立ち入るような錯覚があった。
エレベーターに乗って下降していく。前に立つ冷慈の背中は、表情を持っていた。
喜んでいるみたいと思ったとき、エレベーターは止まった。先に下りた冷慈に続くと、そこに冷慈はいなかった。
代わりにそこには緑の楽園が広がっていて、花は咲き乱れ、果実は重たげに実っていた。地下であるはずがどこからか太陽はさんさんと差し込み、甘い香りがむせかえるように漂っていた。
木はそこにはなかった。待っていたのは、同じ会社で働く同僚たちだった。
夜鹿が育てた植物を台車で運んで以来、一度も会っていない同僚もいた。けれど夜鹿には、時間には関係なく大事な人たちだった。
夜鹿をみやった同僚たちは、夜鹿をみとめるとほほえんだ。口にしたわけではないが、おいでと言われたようにも感じた。
相反するように、意識の向こう側で冷慈の声が耳を叩く。
先生、夜鹿を助けてください。僕にとっては大勢の一人ではないんです。夜鹿がいいと思ったから、選んだんです。
「……夜鹿を死なせるくらいなら、子どもを殺してください」
禁断の一言を冷慈が放ったとき、夜鹿は初めて母親になった気がした。
ずっと彼の顔色をうかがっていた。自分は彼の子どもの一人にすぎないのだと、卑屈になっていた日々。
「そんなこと言ってはだめ。冷慈さん」
彼に二度とそんなことを言わせない。今、心臓より近いところに抱いている存在にも、二度と不安にさせたりしない。
「私、強くなるから。あなたも子どもも守るから。一緒に育てましょう」
夜鹿は緑の楽園に踏み出して、誓うように告げた。
夜鹿が小学生の頃、父が亡くなった。夜鹿にとって父との別れは悲しみには違いなかったが、死の意味を理解するには足りなかった。
葬式が終わってまもなく、母が出かけて一人留守番をしていたとき、植物園への招待状が届いた。それが父から届いたように感じたのは、もしかしたら未知の世界に行ったという父が手招いたのかもしれなかった。
夜鹿は大人の言う事をきく素直な子だった。だから夜鹿が母にも言わず、その日のうちに植物園へ向かったのは、今となってもなぜなのかわからない。
「植物は好き?」
琥珀街の中の、名前を知らない会社の中にある植物園で、冷慈は屈みこんで優しく問いかけた。
うん、好きと、夜鹿は答えた。庭木が枯れてしまうだけで涙が出てくるくらいだった。成長してから、その感情は職業にするには向かないと学校の先生に言われたが、植物の匂いのないところで働きたくはなかった。
「この木が気に入ったみたいだね。そう……これはとても近しい木なんだよ」
案内をしてくれた冷慈が夜鹿に満足そうにうなずいたのは、今なら理由がわかる。会社はたくさんの植木鉢で植物を育てているが、それはすべて一つの木から分けていたからだ。
夜鹿は今も、その祖となる木を見たことがない。雑菌が入っては大事になると、会社の地下奥深くで、まるで神座におわすように生きているという。
「時間が来たから、今日はお帰り」
植物園の見学の後、冷慈の言葉を、夜鹿はわがままな子どものように口をへの字にして聞いた。
「ずっといてはいけないの?」
「大人になったときにまた呼ばれたら、いいよ」
「ほんとう?」
目を輝かせた夜鹿に、冷慈は柔く笑って言った。
「いいよ。でも、そのときは……」
冷慈の言葉の続きは、夜鹿が会社に就職したときの歓迎会で聞いた。
琥珀街に好かれたら帰れないよ。冷慈の言葉はまもなく真実になろうとしている。
今の夜鹿は琥珀街の外に執着を持てない。友達も、母でさえ、夜鹿の世界から遠ざかってしまっている。
会社を構成する一つのものであることに満ち足りて、同じ枝葉の一つである冷慈を心から愛している。
「おいで。今日だけ特別に見せよう」
過去にはない言葉を冷慈が告げたとき、夢ではない場所に立ち入るような錯覚があった。
エレベーターに乗って下降していく。前に立つ冷慈の背中は、表情を持っていた。
喜んでいるみたいと思ったとき、エレベーターは止まった。先に下りた冷慈に続くと、そこに冷慈はいなかった。
代わりにそこには緑の楽園が広がっていて、花は咲き乱れ、果実は重たげに実っていた。地下であるはずがどこからか太陽はさんさんと差し込み、甘い香りがむせかえるように漂っていた。
木はそこにはなかった。待っていたのは、同じ会社で働く同僚たちだった。
夜鹿が育てた植物を台車で運んで以来、一度も会っていない同僚もいた。けれど夜鹿には、時間には関係なく大事な人たちだった。
夜鹿をみやった同僚たちは、夜鹿をみとめるとほほえんだ。口にしたわけではないが、おいでと言われたようにも感じた。
相反するように、意識の向こう側で冷慈の声が耳を叩く。
先生、夜鹿を助けてください。僕にとっては大勢の一人ではないんです。夜鹿がいいと思ったから、選んだんです。
「……夜鹿を死なせるくらいなら、子どもを殺してください」
禁断の一言を冷慈が放ったとき、夜鹿は初めて母親になった気がした。
ずっと彼の顔色をうかがっていた。自分は彼の子どもの一人にすぎないのだと、卑屈になっていた日々。
「そんなこと言ってはだめ。冷慈さん」
彼に二度とそんなことを言わせない。今、心臓より近いところに抱いている存在にも、二度と不安にさせたりしない。
「私、強くなるから。あなたも子どもも守るから。一緒に育てましょう」
夜鹿は緑の楽園に踏み出して、誓うように告げた。