すぐに否定しなければならないのに、菊の喉はひくひくと痙攣するだけで、まともに言葉も出ない。
「あなたは古柴レイカではないはず」
「っそ……ぁ……っ」
 菊はレイカではない。若葉は間違っていない。しかし、菊にとってその正しさは、蜘蛛の糸を千切ろうとする刃も同じだった。
 ――捨てられてしまう……!
 膝の上で震える菊の拳は、きつく握り込みすぎて色を失っている。俯いた顔は目がうつろになり、唇は小刻みに震えていた。
 この状況で否定ができなければ、それは肯定も同じ事だった。
「やはり、そうだったのですね」
 若葉が近付いてくる気配に、菊は、ぶたれる、とぎゅっと目を瞑り身を固くした。しかし、おとずれたのは痛みではなく優しい声。
「やはり、あなたは菊様だったのですね」
「え……」
 菊の俯いていた顔が跳ね上がった。その正面にあった若葉の顔は、責め立てるようなものではなく、安堵の笑みを湛えていた。
 咎められると思っていた菊は、混乱に目を白黒させる。レイカではないとバレた上に、本名まで知られていた。一度たりとも本名など、口にしたことないのに。
「覚えておりませんか? といっても、人の姿でお会いするのははじめてなんですが」
 言って、若葉は自分の前髪を指さした。真っ黒髪の中で、そこだけが一部鮮やかな緑に色付いている。
「緑? 緑……の……」
 菊は「あ」と声を上げた。
「もしかして、村にいた緑の烏さんでしょうか!?」
 座敷牢の窓辺に時折やって来ては、まるで菊の存在を確かめるように顔を覗かせていく烏。確かにその羽先は、彼女の前髪と同じ色に染まっていた。
「古柴レイカが花御寮になったと村人達の話を聞いたのですが、実際に現れたのがあなたで驚きました。あなたは菊と呼ばれていたはずなのに、と」
「あ、あの! どうかこの事は……っ、いえ、騙しているのは悪いことだとは分かっているのですが、その……どうかもう少しだけ……っ」
 彼のそばにいさせて欲しい。
 菊はしがみ付くようにして、若葉の袂を引っ張り懇願した。瞳の表面で揺らぐ水膜は今にも溢れそうで、何度も「どうか」とこい願う声は、掠れ掠れだった。
 悲痛に眉宇を歪めれば、瞳の表面の水膜がぽろりと剥がれ落ちる。一度剥がれ落ちると、次から次へと後を追うように、ぽろりぽろり、と水膜の欠片が菊の頬を濡らした。
 顔を覆い、圧し殺した涙声と共に肩を震わせる菊に、若葉の手が伸びる。
「大丈夫です、菊様」
 抱きしめるように背に回された若葉の手は、優しいものだった。
「大丈夫です。私は古柴レイカの事はよく知りませんが、あなたの……菊様の事ならよく知っておりますから。あなたが名を偽ってこの場にいるのも、何か事情があってのことなのでしょう?」
 上がった菊の顔は、驚きに涙が止まっていた。
「どうして……騙していたのに……」
 なのに、どうしてこれ程に優しい言葉を掛けてくれるのだろうか。どうして、同じ村で育った者達よりも、数えるほどしか顔を合せていない彼女の方が、自分の言葉に耳を傾けてくれるのだろうか。
 せっかく涙も止まったというのに、再び目頭がツンと痛くなる。
「森で翼を怪我して飛べないでいるところを菊様が見つけてくれ、わたしの為に沢山の木の実を拾い集めてくださいましたよね。お腹が空いているでしょう、と」
 そう言えば一年ほど前、数少ない自由である夜の散歩をしている時、地面にうずくまる烏を見つけた覚えがあった。近付いても飛び立たず、ただぴょこぴょこと地面を歩いて逃げるばかり。よく見れば、片翼の羽根がいくらかささくれており、怪我をしているのだと分かった。
「それであなたの事が気になり、村中を探しました。まさか屋敷の地下に、隠れるように住んでいるとは思いませんでしたが」
「気になって?」
「烏に施しを与える人間は珍しいですから。その後も菊様は、私が訪ねると、『お腹空いてるの?』と色々な食べ物を下さいましたね。自分の僅かな食べ物さえも分けてくれて……」
 ふ、と若葉の口元がほころぶ。
「本当は、それほどお腹は空いてなかったのですがね」
「えぇ!? そ、そうだったのですか。やだ、私ったらてっきり、訪ねてくるのは食べ物を貰いにかと……」
 菊は申し訳なさそうに背をまるめたが、「そんなに毎度毎度空腹だったら、烏は生きていけませんって」と若葉は苦笑した。その笑みはどこか嬉しそうでもある。
「あなたに会いたくて、あなたが心配で、あなたがどうしているか気になって、伺っていただけですから」
「でも、どうして私の名まで分かったのです」
 自分の名を呼ぶ村人などいないというのに。
「あなたの部屋にやって来た金切り声の女が、そう呼ぶのを聞きました。あなたが彼女をレイカ姉様と呼ぶのも……あなたに辛く当たるあの女が、古柴レイカでしょう?」
 ここまで知られてしまっては、と菊は素直に頷いた。
「……それで、私が本物の花御寮じゃないと分かって……烏王に報告しますか」
 若葉は間髪入れずに、いいえ、と言った。
「私達は、人間がどのようにして花御寮を選ぶのか知りません。こちらからすれば、村娘であれば誰だって良いのですから。菊様の様子をみていると、入れ替わったのには何か事情があったのでしょう? どうしてこのような事になったのか、話して下さいませんか」
 菊は、レイカが花御寮に選ばれてからのあらましを話した。若葉は「なんと……」と唖然としていた。
「やはり私は、本物の古柴レイカより、烏王の隣には菊様にいてほしいです。……そんな女を様付けで呼びたくない」
 最後に言葉を付け加えた時の若葉の顔は、これでもかと言うほど、眉も目も口も全て歪んでいた。いつも涼やかにして、表情を大きく崩すことのない彼女がみせた本心に、思わず菊も大きく表情を崩して吹き出した。
「大丈夫です。烏は愛情深いのですから、受けたご恩は忘れません。菊様がずっとここにいられるよう、お守りいたします」
 広げた両翼で雛を守り囲う烏のように、若葉は小さな菊の身体を両腕で抱きしめた。
 守られるというのは、これ程に頼もしく心安らかになるものか、と菊は若葉の胸に頭を預け、静かに瞼を閉じた。
 ――どうか、この安らかな時間が少しでも長く続きますように。
『村娘であれば』という若葉の台詞は、今だけは考えないようにした。
 
 ◆

 外を一緒に散歩した日から、烏王の何かが変わった。
 日中に訪ねてくるのは変わらないのだが、会話をすれば以前のような菊への一問一答ではなく、彼の生い立ちや好きなものの話題。散歩をしに庭へ出ることも増えた。しかし、屋敷の外へはまだ出ては駄目らしい。理由を尋ねれば、「今はまだ俺だけに……」と、よくは聞こえない声でそっぽを向かれた。
 彼だけ何なのだろうかと思ったが、菊も特に屋敷の外に出たいとは思わなかったので、今でも散歩と言えば庭の散策が主だ。
 そして一番の変化が――
「……あの、烏王様。私の顔に何か、また散り花でもついてますでしょうか?」
「いや……」
 そう答えたきり、烏王はまたじっと菊を見つめるのだ。沈黙が気まずいわけではないが、こうもただひたすら見つめられ続けると、首の後ろも痒くなるというもの。
 部屋に満ちる空気はどこか面映ゆく、菊はいつもソワソワとしてしまう。
「レイカ、そろそろ同じ棟で暮らさないか」
 烏王が口を開いたことで、漸くこの空気から逃れられると思ったのも束の間、彼の言葉を理解した菊の顔が火を噴いた。
「っああぁあの、その、つまりは、ええっと――」
 菊の頭は熱暴走によりまともな思考ができなかった。ただ『子を成さねば』という以前の烏王の台詞が、よりなまめかしい響きをもってグルグルと脳内を駆け巡っている。
「レイカには俺の事をもっとよく知ってほしいし、俺もレイカの全てが知りたい。駄目か?」
 烏王が目の前で、覗き込むようにして答えを待っている。何か答えなければと思うものの、煮えた頭でもどうにか残った僅かな理性と感情がうまく噛み合わない。
 心は頷けと言っているのに、理性がそれは危険だと首を横に振らせようとしていた。期待と不安のこもった烏王の眼差しに、これ以上耐えられなくなった時、まさに天の助けかと思う声が部屋に入ってきた。
「花御寮様、また面白そうな本を見つけたので、お持ちしましたよ――って、あら……もしかして、私ったらお邪魔しました?」
 頭の上に湯気が見えそうなほど湯だった菊の顔を見て、若葉は踵を返そうとした。それを菊が慌てて止める。
「ああああ待ってください! ほ、本がとても気になりますので!」
 若葉がチラと烏王に視線を向ければ、烏王は瞼を重くして「全く」と唇を尖らせいていた。

 若葉が持ってきた本を、子供のようなキラキラとした目で確認していく菊。
「何なのだ、この本の数々は?」
 そう言えば、と烏王は菊の文机を一瞥する。そこにも、以前にはなかった本が、やはり何冊も積まれていた。
「あの、私ったら皆さんの事をくわしく知らないので、少しでも学べたらと。烏たちに関する歴史やお話などの本を、若葉さんに集めて貰っているのです」
「今、花御寮様がお読みになっている本は、よく私共が子供の頃に読んだ『虹色ぬばたま』ですよ」
「童話か」
「その、あまり読める文字が多くなくて……」
 烏王は、文机にポンと一冊置かれていた読み掛けだろう本を手に取ると、懐かしそうに頁をパラパラと捲る。すると本の合間から、スルリ、となにかが抜け落ちた。
「あっ」と、しまったとばかりの菊の声が飛ぶ。
「ん? 何だこれは」
 組んだ足の上に落ちたそれを烏王が拾い上げれば、それは和紙で作られた栞だった。くるりと裏を返せば、烏王は「これは」と先ほどと同じ言葉を口にして目を見開いた。
 紫色の見覚えのある花が、白地の和紙に挟まれている。
 驚き菊を見遣れば、菊は袂で顔を隠し、小さくなっていた。袂の隙間から見える菊の耳は真っ赤だ。
 それは、烏王が菊の髪に飾ったスミレの花。
「ああ、それはこの間、花御寮様が作られた栞ですよ。和紙と紐が欲しいと言うので差し上げたら、こんなに可愛い栞を作られて」
「わ、若葉さん……」
「しかも、紐は赤いものが良いというこだわり仕様で」
「若葉さん、あのっ、もう……本当に……っ!」
 自慢げに語る若葉の隣で、菊はどんどんと赤く、小さくなっていく。
「赤?」と烏王は訝しげな声を漏らす。手の中にある栞には確かに赤い紐が通してあった。若葉の言うとおりならば、この紐の色にも意味があるのだろうが、と菊を見遣れば、潤んだ瞳と目が合う。
 菊は気恥ずかしいのか、「え、あぅ」と言葉にはならないようで、ついには瞼を伏せてしまった。しかし「実は……」とか細い声を出すと、ゆっくりと伏せた視線を上げる。下から這わせた菊の視線は、烏王の目を捉えるとピタリと止まった。
 次第に菊の瞳が、恥ずかしさに耐えらないのか潤みを増していく。しかしそれでも目を逸らそうとしない菊に、漸く烏王もその視線の意味を理解した。
「――っな!? いや、そんなまさか……っ」
 菊の見つめる先――烏王の瞳も確かに『赤』だった。
 栞と菊を交互に見遣る烏王。その顔は、彼の瞳と同じくらいに赤い。
「あらあら~、お邪魔烏は去りましょうか」
「も、もう! 揶揄わないでください、若葉さん」
 若葉は袂で口元を隠していたが、しっかりと目は笑っていた。下瞼を押し上げている頬は、きっと口端も引き上げているのだろう、と菊は頬を膨らませて若葉に遺憾を伝える。
 しかし、若葉はそれさえも愉快だと笑みを濃くするばかり。何と言っても暖簾に腕押しだろう、と菊は若葉の口を止めるより、烏王への釈明を優先させる。
「あ、あの、烏王様にいただいたスミレがとても綺麗で、それで、どうしても手元に置いておきたくて、このように勝手な事を……お、お気を悪くされたのなら――」
 しどろもどろで、しかし懸命に説明しようとする菊。眉は情けなく垂れ下がり、その顔は真っ赤。身体を小さくした菊が、鼻の前で合わせた袖先から、見上げるように見つめてくる様は、烏王の身体を熱くした。
 烏王は額を押さえ、「はぁぁ」と長い長い溜め息をついた。
「……我慢しているこっちの身にもなってくれ……」
「え」
 次の瞬間、菊の額に烏王の甘やかな熱が落ちた。
 口づけをされたのだと気付いた時には、烏王は菊に背を向けて、ちょうど部屋を出るところだった。パタンと気遣いの感じられる音で扉が閉まれば、若葉が「きゃー」と、小声で悲鳴をあげ、目をかつてないほど輝かせていた。
 菊は烏王の唇が触れたところに触れ、ぽうとして烏王の去って行った方をしばらく眺めていた。

 それから数刻後、菊の部屋に大量の花が届けられた。シロツメにスミレに蓮華にナズナ。
「……これは、たくさん赤い紐を用意しないといけませんね」
「たくさん、読みかけの本を作ってしまいそうです」
 菊は花束を潰さないようぎゅうと抱きしめ、その幸せの香りにしばし酔いしれた。
 ――私、こんなに幸せで良いのでしょうか。

 ◆

「嘘を吐くな!!」
 灰墨が持ち帰った報告を聞いた途端、烏王はかつてないほどの怒声を灰墨に降らせた。
 勢いよく立ち上がったせいで、派手な音をたてて脇息は倒れ、そばにあった文机までも震動でカタカタと揺れた。文机に載っていた筆が床に落ち、物寂しい硬質的な音を立てる。
 余韻が消えれば、それを待っていたように灰墨が口を開く。
「わたしが烏王に嘘などつきますか」
「――っそんな……レイカが、身籠もっているだと!?」
 ふらり、とよろめく烏王は、顔を覆った手の下で悲痛に唇を噛んだ。
「村はその噂でもちきりでしたよ。何しろ、その相手だという男が、声高に『レイカの子は俺の子だ』と叫んでおりましたから。まあ、武勇伝のように語るその様は、実に阿呆っぽかったですが」
「…………っ嘘だ」
 膝から崩れ落ちるようにして座った烏王は、繰り返し手の下で嘘だと呟く。
 いつも凜然として、多少のことでは取り乱さない主人が、見ている方が痛々しくなるほど憔悴していた。これには報告を持ってきた灰墨も、後悔に眉を寄せた。
 
 花御寮についてもう一度調べてきてくれと頼まれてから、灰墨は村にいる烏たちを使い『古柴レイカ』について情報を集めた。といっても、聞き込みなどするわけでなく、村人達の話に耳を傾けるだけなのだが。
 灰墨は当初、もう村を出た花御寮の事を話す者はいないだろう、と思っていた。きっと集まる情報も前回と同じようなものだと。しかし意外にも、村人達はまだ花御寮の名を口にしていた。これは良かったと思ったのも一瞬、聞くのではなかったと思う羽目になった。
『レイカって妊娠してたらしいわよ』
『え、あの古柴家の娘がか!? 確かあそこの娘は花御寮に選ばれたはずじゃあ』
『まあ正直、レイカならあり得そうかなって思う。よく村の男達にちょっかいかけてたし、僕も誘われたことあるしな』
 村の至るところで聞いた花御寮に関する話は、どれも耳を疑うようなものばかり。しかも極めつけは、相手だという男自ら、村のど真ん中でその事を誇らしげに吹聴して回っていたのだ。
『レイカの子が生まれたら、そいつが次の烏王になるんだろ? だったら、俺は烏王の本当の父親なわけだし、烏どもの王になれるかもなあ!』
 いつ選ばれるか分からない花御寮候補の村娘達に手を出してはならない、というのが村の掟でもある。しかしこの男は、自分が『王の父』になれるという甘い夢に陶酔しきり、村の掟を破ったことさえ英雄気取りで話していた。
 話を聞いた者は当然の疑問や批難を口にする。『流石にバレるのでは』『村に迷惑が掛かったらどうするつもりだ』と。
『なぁに、卵で生まれるような烏が、人間様の生まれ方なんか知るわきゃないさ。烏王がどんな奴か知らんが、レイカの腹から生まれるんなら、人の形をしていてもおかしくはないだろ。それに、レイカも死にたくはないだろうから上手く隠し通すさ』
 灰墨は、その場で男の首に嘴で風穴を空けてやろかと思った。掟破りを自慢し、自分達の王までも愚弄する、その汚い声を元から絶ってやろうと。
 しかしそれよりも今は、この最悪で最重要な情報を報告する事が先だった。
 こうして灰墨は、烏王の予想をはるかに超える報告をする事となった。
 
「村人の口にのぼる花御寮様と、あの花御寮様が一致しなかったのですが、よくよく考えれば、花御寮様は輿入れされてから一度も、身体を見せることがなかったはず。侍女にも、烏王にも。湯殿で侍女を追い払うのは、もしや腹の膨らみを隠す為では?」
 あの吹聴男は、烏だから人間の生まれ方を知るわけがないと言っていたが、どれだけ短絡的なのか。人間である花御寮を今まで何代迎えてきたと思っているのか。ましてや、烏王は人の身をもつ。人間の事など、当然のように皆が知っている。
 烏が頭の良い生き物だと忘れているようだ。馬鹿な夢を見ている吹聴男も、だまし続けられると思っている花御寮も。
「花御寮様の生家の方も伺ってみましたが、使用人全てを解雇したらしく、火が消えたように静かなものでした。さすがに噂が恥ずかしく、大人しくせざるを得ないのでしょうが」
「もういい……聞きたくない……」
「烏王、花御寮様は村に突き返してやったらどうです。そして別の村娘を――って、烏王!?」
 烏王は灰墨の言葉も最後まで聞かずに、部屋を飛び出していった。

 若葉や他の侍女達と押し花を作るのが、ここ最近の菊の日課となっていた。
 ――ああ、なんと穏やかな日々でしょうか。
 花を丁寧に伸しながら、会話に花を咲かせる。侍女達は、烏王と菊がこの間も仲良く散歩しているのを見た、と菊をわざと赤面させては、それを微笑ましいと楽しんでいた。
 しかしその穏やかな時間も、荒い足音を立ててやってきた烏王によって、突然の終わりを迎える。
 いつもなら菊を驚かせないように、静かに扉を開け、ゆっくりと近付く烏王。しかし今は、扉を邪魔だとばかりに乱暴に開け、侍女達など目に入らぬと、一直線に菊に詰め寄っていた。肩を掴むその手の強さに、思わず菊も「きゃっ」と小さな悲鳴を漏らす。
 烏王のあまりの変化に、驚きと怯えの悲鳴を侍女達が漏らせば、烏王は横目に一瞥し『出て行け』と、その眼光の鋭さで伝えた。震え上がった他の侍女達は飛び去るように消え去ったが、若葉だけは菊を気遣い、躊躇いがちにまだ部屋に残っていた。
 若葉だけは、菊がレイカではないと知っている。烏王の剣幕から、身を偽ったのがバレたかと思い、せめて菊が悪い扱いを受けないようにと取りなすつもりだった。
「何をしている、若葉。去れ」
 聞いた事もないような、『王』としての烏王の声に、若葉の全身からドッと汗が噴き出す。それでも若葉は食い下がろうとした。しかし、菊がそれを望まなかった。
「若葉さん、私は大丈夫ですから」と、血の気の失せた顔で言う。
 そのように弱々しい笑みで何が大丈夫なものか、と思えども、そう言われてしまえば、若葉にはその場に残る権利はなかった。

 二人きりになった途端、拙速に烏王は核心の言葉を口にした。
「身籠もっているというのは本当か」
「――っ!?」
 菊は眦が裂けんばかりに目を瞠った。
 そんな馬鹿な。この身体は誰一人として触れたことがないというのに、一体どのようにして身籠もるというのか。
 菊も若葉同様に、レイカとの入れ替わりがとうとうバレたのだろうと思っていた。それに激怒して烏王がやって来たのだろうと。しかし彼の口から問われたのは、身の偽りなど些細に思えるほど衝撃的な事。
 ――ああ、そういう事だったのですね。
 同時に、菊は全てを悟った。
 なぜ伯父が、バレてしまえば古柴家さえなくなってしまうような、『花御寮の交換』という危険な選択を許したのか。あれだけ伯母やレイカが懇願しても、首を縦には振らなかった人が。
 あの人達は、レイカが妊娠しているのを知っていたのだ。娘の掟破りの尻拭いに、菊も烏王も村さえも全て巻き込んで騙したのだ。
「……っどうして……何も言ってはくれないのだ……」
「そ、れは……っ」
 肩を掴む烏王の手が震えていた。
 しかし、菊には答えようがない。否定すれば自分がレイカではないと言っているようなものであり、レイカで居続けるために肯定しても、結局は彼に捨てられるだろう。
『捨てられる』という自分の言葉に、菊の目が熱くなる。
 遠ざかっていく背を見るのが、どれだけの喪失感を抱かせるか菊は知っていた。もし、その背が愛しい者だったら。考えただけで胸が苦しい。
 まるで全身を苛む苦しさを追い出すように、菊の目からは雫があふれ、頬を滑り落ちる。
 罰が当たったのだろうか。神事で決めた事に逆らい、まがい物が嫁いだから。
 縋るように菊の胸に頭を寄せる烏王。肩を掴んでいた彼の手がズルリと力なく床に落ちた。
「この身体に、他の男が触れたと思うだけで頭がおかしくなりそうだ。この甘い香りを吸い、この華奢な手に抱きしめられた男が俺は憎い。そしてここに……他の男と愛し合った証が宿っているなどと……」
 烏王の指先が菊の腹を撫でた。しかしそれは着物の表面をなぞったのみ。こんな時でさえ、彼の指先には優しさが滲んでいる。
 そしてこんな時でさえ、彼の切なる愛の告白に菊は喜びを感じてしまった。辛く、甘く、切ない思いが菊の内側で暴れ、身を引き裂かれるようだった。
「言え! 男の名を……消し炭にしてくれる!」
「し、りませ……っ」
 本当の事だった。菊はレイカの相手など知らない。
 しかしその言葉は、烏王からすれば相手の男を庇っているようにしか聞こえない。烏王の僅かに残っていた理性が瓦解した。
「――んぅ……っ!?」
 菊の唇を烏王のそれが塞いだ。突然の噛み付くような荒々しい口づけに、菊の涙も止まる。
「……っ、ぁ…………う、っ様……っん」
 初めて交わされる甘やかな熱に、菊の意識は白くなった。角度を変えては何度も落とされる口づけ。次第にその唇は顎を下り、首を這い、そしてより深くまで下りようとした。
 烏王の手が着物の肩を脱がせようとする。
「――っ嫌!」
 しかし我に返った菊によって、その手は弾かれてしまった。手を払った痛々しい音が、言葉以上の拒絶を表わしている。
「あ……す、すみ、ま…………っ」
 自分が何をしてしまったか理解し、止まっていた涙が、後悔に再び頬を濡らす。
 烏王は打たれ赤くなった手を眺め、ふ、と歪に笑った。
「やはり、その男の事が好きなのだな」
「違……っ」
「俺に向けてくれたあの笑みも、栞も、怖くないと言ったあの言葉も、全て俺を欺く為の芝居だったわけか。ははっ、ならば成功だよ。まんまと騙されて……っ、こんな状況なのに、未だにお前が愛おしくて堪らないとはな……っ!」
 烏王の哀切な叫びは部屋にこだました。
 くしゃりと前髪を握りこみ、背を丸める烏王。
「……村へ帰してやる」
 菊は嗚咽を上げ首を横に振った。
「頼む、これ以上俺を狂わせてくれるな」
 菊に向けられた、烏王の今にも消えてしまいそうな弱々しい笑みは、もはや笑みでも何でもなかった。それは明らかな諦念。
 自分がこれ程までに愛されていたとは。そしてそのような相手をこれ程までに傷つけてしまったとは。菊は涙を拭うと、すっくと立ち上がり、着物の帯をほどきはじめた。
 どのみち捨てられるのなら、彼への誠意だけは守りたかった。彼に嘘をついた、嘘の自分のままでいたくなかった。
「確かに、私は烏王様を騙しておりました」
 シュルシュルと床にわだかまっていく帯達を、烏王が凝視する。一体何をしているのか、と。
「私が誰にも身体を見せなかったのは――」
 纏っていた最後の一枚が床に落ちれば、烏王は息をのむ。
「――この身体を、見られたくなかったのです」
「その……身体は……」
 菊の身体は至るところに痣や傷があった。古いものから最近できたであろうものまで。決して転んだり、自ら怪我をしただけでは出来ない場所にまで傷痕があった。それは故意に傷つけられたという事。
「このような汚い身体、烏王様にも……誰にもお見せしたくなかったのです。汚い娘だと、烏王様に相応しくないと言われ、捨てられるかもと」
「すまない、辛い思いをさせた」
 烏王は自らの羽織を脱ぐと、菊の身体を覆いその上から抱きしめた。
「レイカが、俺や侍女にさえ身体を見せない理由は分かった。だが……」
 烏王は菊の身体を見て、その傷の多さだけでなく、もう一つ驚いた事があった。
「その腹は……まるで……」
 まるで妊娠していない女のものだった。
 膨らみは微かもなく、手の細さから想像した通りの華奢さだった。村を出るときに既に妊娠が分かっていたのなら、それから一ヶ月も経つ今頃には、多少なりの膨らみがあるはずだ。
「私は、古柴レイカではないのです」
 烏王は『やはり』と、どこか腑に落ちるところがあった。
「申し訳ありません、烏王様や皆さんを騙してしまって」
「では、身籠もってもないのだな?」
「もちろんです。それどころか、この身に触れる者さえ、誰もいませんでしたから……」
「はぁぁ」と烏王は長い息を吐き、菊にしな垂れるようにして抱擁を強くした。菊の耳元で「良かった」と囁かれる。その声の細さは、彼の心の底からの安堵を表わしていた。
 しかし、菊が告げなければならないのは、これだけではない。まだ一つ残っている。身代わりよりもずっと重い罪。この身体に印された傷も元はそれが原因だ。
「烏王様、私は元より……花御寮になる資格を持たないのです」
「資格? どういう事だ」
「私は、母が村の外の男との間につくった忌み子です。村の者の血を半分しかもたなく……」
 烏王は全て理解した。
 彼女が手を伸ばせば怯えた理由も、いつもどこか不安に目を揺らしていた理由も、笑いあおうと、必ず取り除けない壁があった理由も全て。そのどれもが、彼女の意思に反したものだったという事も。
 声が尻すぼみすると一緒に俯いていく菊。自分の胸下までしかない菊の小さな頭に、烏王は腰を折って口を寄せた。
「なあ、本当の名を教えてはくれないか?」
「菊……と、申します」
「とても似合う名だ」
 烏王は身に染み込ませるように、「菊」と丁寧に口ずさんだ。この先、何百何万と口にする名だからこそ、その最初は心を込めて呼びたかった。今度こそ本当の名を。
「はい」と返事する菊の声や表情に壁は一枚もなかった。
「何も心配しなくていい、菊」
 烏王は漸く、本当の意味で菊を呼べた気がした。