【短編】忌み子は烏王の寵愛に身を焦がす

 古よりその村には、新たな『烏王(うおう)』が立てば、年頃の村娘を花御寮として輿入れさせなければならないという因習があった。
 この度、新たな烏王が立ち、村からは一人の娘が選ばれた。
 つつがなく婚儀が執り行われ、晴れて烏王は花御寮をむかえたのだが。
 しかしこの女、既に身籠もっていたという。

 ◆

 背中を襲った予期せぬ衝撃に、菊は受け身をとる暇もなく、小石の散らばる土道に顔から突っ込んだ。
「ちょっと、菊。誰の許しでこんな真っ昼間から外に出てんのよ」
「レ、レイカ姉様」
 道に散らばってしまった野菜やかごを、菊はチラと見遣る。
「……ツル子さんから、畑に行ってこいと言われまして」
「チッ、あのババア。自分で行くのが面倒だからって……怠け者ったらありゃしないわね。後でお母さんに言って、叱ってもらわなきゃ」
 悪態をつく従姉のレイカをよそに、菊は散らばった野菜を拾い集める。土でいかばかりか汚れてしまったが、洗えば充分食べられる。それより身体で潰してしまわなくて良かった。
「いい? あのババアがなんと言おうと、日が高いうちは家の中の仕事だけやってなさい」
「分かった!?」と、癇癪的に叫ぶレイカに、菊は無言で頷いた。
「はぁ。従姉妹だからって、どうしてこんな忌み子と一緒に暮らさなきゃなんないのよ、まったく……」
 レイカは聞こえよがしな溜め息をつくと、転んだ菊を助け起こすこともなく、さっさと踵を返し屋敷へと帰っていった。
 菊はレイカの姿が見えなくなると、のろのろと動き始め、野菜を再びかごにのせる。
 そうして、立ち上がろうとすれば草履がずるりと滑った。
 ――あ、鼻緒が……。
 ただでさえボロボロの草履の鼻緒が千切れていた。転んだ衝撃で切れてしまったのだろう。何か結べそうなものはないかと辺りを見回す。そこで菊は、周囲には村人達もいたのだと初めて気付いた。
 皆、菊と目が合うのを避けるように顔を逸らしたり、慌ただしく背を向けたりした。誰一人として菊に近寄ろうとも、声を掛けようともしない。
 菊は壊れた草履を手に持つと、不格好な歩みで屋敷へと戻った。

「良かった……まだ納屋に藁が残っていて」
 菊は僅かな月明かりの中で鼻緒の修理をおえた。採光と換気のための必要最低限の大きさしかない窓。そこから射し込む月明かりは申し訳程度だ。
 菊は、部屋に一つしかない窓を見上げた。
 窓枠もなくガラスも嵌められていない。あるのは格子のみ。壁の高いところに位置取られた高窓から見える景色は、地面に生い茂った草と月夜のみ。
 菊に与えられた部屋は、屋敷の地下に作られた、かつて座敷牢として使われていたものだった。しかし牢と言っても、鍵はかけられていない。レイカ達伯父母家族にとって、菊は厄介な存在であった。居なくなりこそすれ、家に置いておきたくなどないのだ。座敷牢をあてがっているのだとて、他人の目に極力触れさせないようにする為である。
 しかし、たとえ家を出たところで菊には行く当てもない。この村以外で生きる術など、菊には持ち得なかった。
 人の踏み込まない山奥にひっそりと存在するこの村は、人世とは隔絶されている。
 外の世界では、異国の文化が持ち込まれ、夜でも赤い火が道を照らしているという。木造の家屋が当たり前の村と違い、赤煉瓦が眩しい建物や、何段にも屋敷が重なったアパルトメントというものもあるらしい。道行く者も、洋装という格好をする者が増えていると聞く。
 村外の仕事から戻って来た者達が、口々に話すのを聞きかじった程度だが、それだけでも村とは随分と違う世界なのだと分かった。
「お腹すきましたね」
 昼間に外に出た罰として、夕飯は与えられなかった。与えられると言っても、レイカや伯父母が食べるようなものではく、野菜の切れ端などで自分で作った、使用人の賄いよりも粗末なものだが。
 しかし、このような状況は今に始まったことではない。よって、菊は着物の懐にいつも木の実などを忍ばせていた。時折夜に屋敷を出ては採集している。
 アカモモを口に含む。シャクシャクと心地良い歯応えと、仄かな甘味にほっと息をつく。小石で切った足裏の痛みも、引いていくようだった。
 すると、近くで「カァ」と烏の鳴く声がした。
「あぁ、今日も来たのですね」
 菊が「こんばんは」と、声のした窓辺に目を向ければ、そこには一羽の烏が格子から顔を覗き込ませていた。濡れ羽色の身体は通らないが、その小さな頭のみならば格子を抜けることができ、烏は首を突っ込んでキョロキョロと、まるで菊を探すような素振りを見せる。
「どうしました? 今日もお腹がすいているのですか」
 羽先が鮮やかな緑に色付いた烏だった。普通なら烏の見分けなど付かないものだが、この烏だけはその特徴からすぐに分かる。
 緑の烏がこうして部屋を訪ねてくるのは初めてではない。よく、こうして夜にふらりとやってきていた。まるで気心の知れた友人のようで、菊はこの緑の烏の来訪をいつも心待ちにしていた。
 菊はつま先を立て手を伸ばし、格子の外に持っていたアカモモの実を転がした。
「美味しいから、友達がいたら一緒に食べると良いですよ」
 烏は器用に嘴で転がっていた実を二つ咥えると、窓よりも大きな翼を広げて夜空へと消えていってしまった。羽音が聞こえなくなるまで、菊は窓の外を眺めていた。
 静寂が部屋に満ちれば、菊は窓の麓に腰を下ろす。
「いいな」と、菊は残り一つとなった実を一人、少しずつ時間をかけて食べた。

 村人は皆、着物姿。足元は草履や下駄。建物は歴史を感じさせる木造屋敷。場所によっては茅葺きも残っている。決して人口が少ないわけでもなく、老人ばかりということでもない。
 それでもなぜこの村が、時を止めたように人世の色に染まらないか。
 それは偏に村の生業にあった。
 この村は、その昔、烏王が村人に魑魅魍魎を滅伐する力を与えたことに始まる。
 うつし世とかくり世との境界が曖昧だった時代、しがない悪戯ばかりする魑魅魍魎の数は多く、人間だけでなく妖も手を焼く存在であった。
 その事を重く見た時の烏王は、自分達よりも数の多い人間に魑魅魍魎を滅伐させる事を考えた。そうして人の身で滅伐の力を持つ、魑魅魍魎退治の村が生まれた。
 異国の風が国に吹き込み、暗がりが街から少なくなり、人々の意識から闇夜の恐怖が薄れようとも、魑魅魍魎はどこにでも跋扈する。影があり夜がある限り、それらが消えることはない。同時にそれは、たとえ人世と隔絶された村であろうと、貧しさに嘆くことなく、永劫に存在しうることを示していた。
 ただし、何かを得るにはそれ相応の代償はつきもの。
 烏王は力を分け与える条件として、村に代償――契約を課した。それが、『烏王が立つとき、村から花御寮――烏王に嫁ぐ娘を差し出す』というものだった。その子がまた、次代の烏王になるという話だ。
『どうせ烏の王なんて、陰湿で粗暴で汚い目をしたおぞましい化け物よ』とは、レイカの言である。
 誰も烏王の姿を知らなかった。歴代の村長(むらおさ)でさえまみえたことがないと言う。
 正体の分からない烏の王。恐らくは烏の妖だというのが村人達の認識だ。不思議な力を持ち、正体は一切の謎に包まれている。花御寮に捧げられた者のその後の消息も不明。
 誰もがレイカのような思いを抱くのは、当然であったのかもしれない。中には、花御寮はただの生け贄だと言う者もいた。人を食べるために、このような契約を課したのだと。
 花御寮とされる娘の歳は十四から十九と決まっている。村の娘達は十四になるのを泣いて嫌がり、十九が明けるのを泣いて喜ぶ。
 今現在、菊は十八であり、レイカは十九であった。
 レイカが十四になった時から、菊は『あんたは良いわよね、嫁げやしないんだから! あたしも村を捨てて逃げたいわよ! あんたの母親みたいにねえ!』と、事ある毎に、藁人形のような仕打ちを受けてきた。
 村の者は、仕事で外の者と関わる事はあれど、力の流出防止と秘密保持のため、村外の者と婚姻することを禁じられている。
 菊の母親はその掟を破り、逃げるようにして村外の者と行方をくらませた。
 それから数年後、突然、菊の母親は幼い菊の手をひいて村に戻ってきた。見る影もなくボロボロにやつれた姿で。そして、菊を捨てるように伯母に預けると、また行方をくらませた。今や、生きているのか死んでいるのかさえ分からない。
 そのような経緯があるため、菊はたとえレイカや伯父母にひどい仕打ちを受けようと、全て受け入れてきた。
 しかしそれもあと少しの辛抱だった。あと数ヶ月もすれば、少しは彼女の赫怒も収まるだろう。
 彼女は、最近ではよく『あーあと少しであたしも二十ね。早く対象外にならないかしら』と、嬉しそうな声で聞こえよがしに言ってくる。『そうしたら好きな男と結婚するの』と、結婚の望めない菊を嘲弄するかのように。
「私は、ずっと一人でしょうか……」
 村からは出られない。しかし村には、このような掟破りの娘を受け入れてくれる物好きもいない。
 だとすれば、自分はこの先どうなるのだろうか。
 きっと、一生古柴家の使用人としてレイカに顎で使われ続けるのだろう。そう思うと、少しだけ憂鬱になってくる。
 しかし、それしか生きる方法はないのだ。一本道しか。
 であれば、孤独よりかはマシだと菊は自分に言い聞かせ、先の事を考えるのはやめた。
 考えても、虚しいだけだ。
 
 しかし、突如として菊の一本道は曲げられる事となった。
「いやあああっ! 何で、何でよ! 何であたしが!?」
 レイカが、新たに立った烏王の花御寮に選ばれたのだ。
 花御寮は村の神事によって選ばれ、一度決定すれば拒む事は出来ない。屋敷中に響くレイカの絶叫。使用人達が何だ何だと仕事場を離れ、声のする広間を覗きに来る。
 そこではレイカが畳に突っ伏しむせび泣き、同じく伯母も伯父に縋るようにして涙していた。
「あなたお願いよ、レイカを奪わないで! あと数ヶ月……数ヶ月待ってから、神事をすれば良かったじゃないの」
「俺だってレイカを差し出したくはないさ! だが、仕方ないんだ。決まってしまったものは……っ、掟には誰も逆らえないんだ!」
「あの子の母親は破ったわよ!」
 使用人の中に紛れるようにしていた菊に、伯母は射殺さんばかりの目を向けた。黒い涙を流す血走った目は、人とは思えぬ悪鬼のような恐ろしさがあり、使用人達は火の粉が降り掛からぬようにと、菊から距離をとる。
 向けられた菊も、その凄まじさに息を飲んだ。
 身を強張らせている菊に、ドカドカ伯母は大股で近寄ると、髪を鷲掴んで引きずるようにして広間に投げ倒した。
「っどうして! うちばっかり! こんな目に遭うのよ!」
「――ッ、すみま、せ……っ」
 着物がはだけるのも気にせず、伯母は横たわった菊の細い身体を踏みつけた。何度も何度も。
 しかし伯父どころか、使用人さえ誰も止めない。ただ眉を顰めて顔を逸らすだけ。広間には伯母の癇癪な金切り声と、菊のくぐもった呻き声だけが響いていた。
「私が! 姉さんのせいで! どれだけ肩身の狭い思いをしたか! なのに、なんでその娘の世話までしなきゃなんないのよ! さっさと外でおっ死ねばよかったのに!」
 菊の母親が村の掟を破ったことにより、残された家族は村で身の置きどころを失った。母親の両親はその重圧から身体を壊し早逝し、妹である伯母も肩身の狭い思いをしたという。それでも伯母は、村でも長に次ぐ大家である古柴家に既に嫁入っていた事もあり、それほど表立っての批難は貰わなかったらしいが。しかしやはり、未だに村人が伯母に向ける態度は、どこかよそよそしかった。
 伯父も結局はその煽りをうけたかたちになり、やはり菊には冷たかった。村長の命で、親族だから菊を養えと言われていなければ、とうに放り出されていただろう。
「どうして! どうしてうちのレイカなの!? お前はのうのうと生きられるのに、どうしてレイカなのよ!? 親にも捨てられ、村の役にも立たないのにっ、忌み子なんか家に入れたから、うちはこんなにも不幸なのよ!」
「――っぐ!」
 こうなった伯母は誰の手にも負えない。目を覆いたくなる光景から逃げるように、使用人達は静かに仕事へと戻って行った。
 ――置いて……いか、ぃ、で……。
 菊は、遠ざかる背中に手を伸ばしたつもりだったが、実際は小指がぴくりと揺れただけだった。
 次第に、菊の意識も、痛みから逃げるように朦朧となる。
「あ……そうだ」
 レイカが薄ら笑いと共に口にした言葉は、先程までとは打って変わってとても静かだった。
 その先の事を、菊は知らない。
 菊はまじまじと、腕に絡む柔らかな袖を眺めていた。
 白妙の生地に、純白の糸で小花が刺繍してある着物は、美しいの一言につきた。襦袢の赤色が薄く透け、まるで目の前で満開を誇っている桜から作られたようだ。
 菊が座っている張り出した欄干囲いの縁側は、桜の最も美しいところだけを切り取って、一枚の絵のようにしている。
 身に纏うものから目に入るものまで、美しいばかりの中、菊は、どうして自分はこのような場所にいるのだろうか、と呆然としていた。
「そんなに桜が珍しいか」
 春風のような温か含んだ心地良い声が、菊の背にかけられた。
 振り返れば、そこには真っ黒な着物を纏った青年が、眉間に皺をよせ佇んでいた。髪も着物も羽織も足袋も全て黒の中にあって、彼の赤い瞳は異様に際立つ。
「う、烏王様……!」
 菊は慌てて、床に擦りつけんばかりに頭を下げた。
 烏王の歩みに、ギシと床板が軋めば、菊の肩が跳ねる。
「そのように日がな一日眺めて、よくも飽きないものだな。果たして、何を思っているのか……。とにかく顔を上げろ。そこまで畏まる必要もない」
 菊は恐る恐るといった様子で顔を上げた。しかし、まるで烏王の視線を避けるように、瞼は伏せられたまま。
「やはり、村に帰りたいか」
「そ、そのような事は……」
 元より帰りたいと思える場所を知らない。ずっと、波間に漂い流され揉まれ浮いているだけ、という生き方をしてきたのだから。もう陸がどこにあるのかすら分からない。
 村での生活を思い出せば喉が引きつり、菊はそれ以上言葉を紡ぐことはできなかった。
「不吉の象徴、屍肉漁り、死神の使い――人が我ら烏を表わす言葉はどれも卑しいものばかり。まあ、烏は嫌われこそすれ、好かれるような生き物ではないからな」
 菊の曖昧に切れた言葉を、『言いづらい事』――肯定ととったのだろう。烏王は自嘲に鼻を鳴らした。
 顔の近くで衣擦れの音がした。
 視線を上げれば、烏王の手が頬の横にあった。思わず菊は、強く瞼を閉じて首をすくめる。
 叩かれる、と思った。
 しかし烏王の手は、菊の頬を通り過ぎ、背に流れ落ちる後ろ髪に触れただけであった。
「散り花が付いていただけだ」
「あ……、も、申し訳ありません」
 烏王は摘まんだ薄紅の花弁を、涼やかな目を細め眺めていた。下瞼に長い睫毛の影が落ち、憂いの色が濃くなる。烏王はふっと花弁に息を吹きかけ、雛を親元に帰すかのような優しげな手つきで、欄干の向こうへと花弁を返した。
 自分の態度が失礼なものだったと自覚のある菊。再び謝罪の言葉をかけようとするが、先に烏王の口が開く。
「侍女らに湯殿の手伝いをさせないらしいな」
「ひ、人に見られるのに慣れてませんで」
「人……な」
 二度目の自嘲。
「人の姿をとろうと、俺達は烏だからな」
 烏王は自らの手をまじまじと見つめ、歪に口元をゆがめた。赤い瞳を向けられれば、菊の薄い肩が跳ねる。その瞳には全てを見抜かれてしまいそうで、自然と菊の顔も俯く。
「まあ、良い。だが、俺の花御寮となったからには、嫌でも慣れてもらうしかないぞ。当然、子は成さねばならないのだからな」
 カッと顔に熱が集中する。
 この状況にばかり気を取られ、花御寮の本来の役割のことまで気が回っていなかった。ましてや、自分の身を欲しがる者などいないと、そのような話にも一切興味がなかっのだから。
 恥ずかしさに菊は目を潤ませ、一段と顔を俯かせた。
「村に帰してやることはできんが、不自由はさせないつもりだ」
 下げた頭の向こうで、再び床板の軋む音がした。一緒に烏王の声も遠ざかる。
「ではな、レイカ」
 烏王は部屋を去って行った。菊の名ではない名を呼びながら。
 菊は、烏王に『レイカ』と呼ばれていた。
 烏王だけではない。屋敷にいる侍女や下男、果ては烏の郷にいる全ての者達に、菊は『古柴レイカ』だと思われていた。
「……っ何で、こんなことに……」
 不意に瞼の裏に蘇る、烏王の真っ赤な瞳。
 全てを見透かされてしまいそうな、一点の曇りもない真っ直ぐな瞳。
 菊は背中を走る悪寒に耐えるように、自らの身体をきつく抱きしめた。自分の体温では、自らを温める事などできないと知りながらも、不安を癒やすためには、そうせずにいられなかった。

 ◆

『あ、そうだ』と薄ら笑いと共にレイカが言った事。
 それは、『菊にレイカのふりをさせ、花御寮に仕立てる』というものだった。
 歳は一つしか離れておらず、従姉妹という事もあり背格好も似ていたレイカと菊。婚儀は、花嫁衣装のおかげで花御寮の顔は見えない。日頃より菊の姿を見ていない村人達ならだまし通せるだろう。使用人もその日は家に帰らせれば良い。
 ましてや烏王側は、誰が選ばれたのか知りもしないのだから。別人に花嫁衣装を着せ差し出しても、疑うことはないだろう。
『ね、良い考えでしょ! あたしは菊のふりして、地下で身を隠していれば良いんだし』
 途端にレイカの母親の顔が輝く。『名案だわ!』とレイカを抱きしめる。
 しかし、それにレイカの父親が待ったをかけた。
『ならん! そんな事をしてバレれば、今度はこの古柴家も終わるぞ!』
『どうしてよ! そんなに娘を、化け物の生け贄にしたいわけ!?』
『そんなことは……っ、俺だってできるものなら……いやしかし……』
 村を欺くだけではない。強大な力を持った烏王という相手まで欺く事になるのだ。父親が二の足を踏んでしまうのも当然だろう。身代わりも、菊は村の血が半分しか入っていない忌み子であり、他の村娘の方がまだ問題は少ない。しかし、誰だとて自分の娘を、得体の知れない相手に差し出すことはしたくないだろう。
『お父さん、何を迷う必要があるの。あたしが花御寮で差し出されたら、この古柴家の跡継ぎはいなくなるのよ。それか、この女を養子にするかだけど……』
 レイカの足袋に包まれた真っ白な足先が、菊の背中をトンと蹴った。『ぅうっ』とくぐもった声が響く。
『大丈夫よ、お父さん。しばらく菊のふりしたら村の外に出ていくから。菊がいなくても誰も気にしないし。それでほとぼりが冷めた頃に、菊のふりして戻ってくれば誰もあたしって思わないし、古柴家も守れるでしょ』
 確かにそれならば村人も欺けるかもしれないが、それでもやはり綱渡りだった。
『っていうか、あたしは元から花御寮なんてなれないんだから。だって、あたし――』
 その言葉を聞いた瞬間、父親の顔から血の気が引いた。死人ではなのかと思う程に青白い。父親だけでなく母親までも瞠目して青くなった唇を震わせていた。
 両親の反応を差し置いて、『じゃあ決まりね』と嬉しそうに笑うレイカに、二人は頷くしかなかった。
 
 ◆
 
『花御寮にはお前がなってもらう』と、菊は目覚めた座敷牢の中で聞かされた。拒む時間さえ与えて貰えなかった。その日から、地下の座敷牢は本来の役目通りの使われ方をすることとなった。しっかりと牢には鍵が掛けられ、一切の外出を禁じられた。
 そうして、絶対に着ることはないだろうと思っていた花嫁衣装に身を包み、初めて伯母と伯父に手をひかれ、菊は烏王の花御寮として輿入れした。
 菊が座敷牢から出て行くとき、入れ替わるようにして残ったレイカに、「感謝しなさい」と言われた。「そんな綺麗な衣装に身を包めて、嫁げることを感謝しろ」ということらしい。自分は、その嫁ぎ先を『おぞましい化け物』と罵っていたというのに。
 しかし、たとえ村に残ったとしても地獄の日々が続いただけだろう。同じ地獄なら、別の地獄に行くのも変わらない。もしかすると、別の地獄には蜘蛛の糸が垂らされているかもしれないのだから。
 そうして、菊は烏王の屋敷へと連れて来られたのだが。
 そこからは、驚きと、戸惑いと、後ろめたさの連続だった。
「花御寮様、お食事はお口に合いますでしょうか」
「花御寮様、本日は少々暑いので、こちらの紗の羽織でよろしいですか」
「花御寮様、水菓子などいかがでしょうか」
 誰しもが、菊を下に置かぬ殊更に丁寧な扱いをした。しかも世話をしてくれる侍女というのも皆、人の姿をしており、菊は自分が烏王に嫁いだという事を忘れそうだった。
 ――ここは、天国でしょうか。
 もしかしたら、輿入れと同時に自分は食べられて、既にあの世に来てしまったのではないか、と菊は本気で思った。天国とは自分でも図々しいとは思うが、何しろ天国としか思えないような日々だった。
『人を食べたいがために、花御寮を欲しがっているに違いない』――とは、誰の言葉だっただろうか。
 食べられるどころか、菊に出される食事は古柴家の伯父母が食すものより、はるかに豪華なものばかりだった。丸々と太った鮎の塩焼き、蕗の煮付け、豆腐の山椒和え、冬瓜の煮物、蕪の味噌焼き、山盛りの木苺、そして目にも眩しい炊きたての白い米。古柴家でも祝い事の時くらいしか白米は使わない。
 菊は初め、出された食事が自分用のものだとは思わず、手も付けず眺めているだけだった。誰かの配膳を手伝えということなのだろうかと。
 菊が「どちらへ運べば」と、膳を持って立ち上がろうとしたところで、侍女達に慌てて「花御寮様のです」と止められた。そこで菊はその豪華な膳が自分の為に用意されたものだと知った。
 驚きすぎて、初日の料理の味は覚えていない。口に入れたもの全てが驚きだった。この世にこれほど美味しいものがあるのかと。
 屋敷もいくつもの(むね)が渡殿で繋がっており、迂闊に歩けば迷子になってしまいそうなほど広かった。
 そのうちの一棟が、菊に与えられている。
 広々とした板張りの広間に、美しい織り模様の几帳があちらこちらに立ててある。風が吹き込めば、目もあやな薄絹が視界を占めた。棟の中にもいくつもの部屋が連なっており、各部屋に置いてある調度品はどれも白木の木目が美しく、香りも爽やかで良いものばかり。
 まさに、神代の空間に紛れ込んだのかと思ってしまうほど。
 そして何よりも驚いたのが、『烏王』だった。
 おぞましい化け物とはとんでもない。
 烏王の屋敷に連れて来られ、初めてその姿を見た時、菊は腰を抜かしそうになった。
 花嫁衣装の綿帽子を烏王の手で脱がされた時の、その触れ方の穏やかさにも驚いたが、露わになった視界に入った彼自身に何より驚愕したものだ。
 菊の真っ白な花嫁衣装とは正反対の、漆黒の羽織袴姿のうら若き青年。
 菊より頭二つ分は背の高い烏王。菊は目を瞬かせ、彼をゆっくりと見上げた。
 烏の羽のように艶のある黒髪は後ろで束ねられ、まるで瑞鳥の尾のように風に靡く。差し出された手は、傷一つないきめ細かな陶器肌。見つめられる瞳は、熟れたアカモモのように赤かった。
 今まで見てきたどのような人間の男よりも、菊は彼こそが一番美しい人間だと思った。
 冷酷な台詞が似合いそうな薄い唇がおもむろに開けば、しかし、その口から発せられた言葉は、とても温もりのある言葉だった。
『ようこそ、我が花御寮殿』
 その時の、烏王のはにかんだような笑み顔を思い出せば、菊の頬は自ずと熱くなった。誰かに笑みを向けられたのは、いつぶりだろうか。もしかすると、生まれて初めてかもしれない。
「――っどうしたのでしょうか、私は」
 熱を冷ますように、菊は両手でパタパタと顔を扇ぐ。
 しかし、次に思い出した烏王の言葉によって、その熱はいともあっさりと消える。
『これからよろしく、レイカ』
 ――そう、私は本来ここにいるべき人間ではないのです。
 あの穏やかに差し出された手も、優しい声音も、面映ゆそうな笑みも、全ては『花御寮のレイカ』に向けられたものである。まがい物、しかも花御寮になり得る資格さえ持たない自分には、本来向けられるはずのないものだった。
 勘違いしてしまわないよう、その優しさに喜んでしまわないよう、ズキリと痛む胸を強く押さえ、菊は自分に言い聞かせた。この痛みもまがい物だと。

 烏王は、日が高くなると菊の部屋を訪ねてくる。
 ――何を話したら良いのか……。
 朝日が春の陽気を帯びだした頃に烏王はやってきて、今も、菊の隣に腰を下ろしている。
 会話らしい会話はない。好きなものや、彼がいない時どのようにして過ごしているのか、など烏王が尋ね、それに菊が一問一答のようにしてこたえるのみ。とても夫婦の会話とは言い難い。
 二人の間には、いつまで経ってもよそよそしい空気があった。
 ――それも仕方ないですよね。本当の夫婦ではありませんし。
 菊は烏王とまだ初夜を迎えていなかった。烏王は別の棟で生活し、今はこのように通い婚のような状況にある。
 ――もし本当に……そういう事をする時になったら……。
 色々とバレてしまうだろう。その時、果たして彼は、今と同じ目を自分に向けてくれるだろうか。
 村人達の冷めた目や、古柴家の者達が向ける憎悪の対象を見るような目を思い出し、菊は全身を粟立てた。震えそうになる身体を抱きしめ、懸命に平然を装う。
 絶対にバレるわけにはいかなかった。
 すると、突然身体を小さくして押し黙ってしまった菊を見て、烏王は首を傾げる。
「どうした、寒いのか」
 寒い。身が、心が、凍てつきそうなほど寒かった。
 しかし、菊はへらりと力の抜けたような笑みで「大丈夫です」と言った。不信感をもたれるわけにはいかなかった。
 烏王は「ふむ」と形の良い顎を撫で一考すると、突然、菊の手を取り立ち上がった。
「えっ!? ああぁあの、烏王様!?」
 戸惑いの声を上げる菊。しかし烏王は菊の手をひいてズンズンと扉へ向かう。
「部屋に籠もってばかりいるから、身体も冷たくなるのだ。侍女達から聞いているぞ。ずっと、そうして縁側から外を眺めているばかりだと」
「そ、それは……」
 それは、あまり出歩くものではないと思っていたから。勝手に出歩けば痛い目を見るというのが、菊の身体には染みついていた。
「大丈夫だ」
 肩越しに振り向いた烏王と目が合った。
「大丈夫、誰もお前を襲わない。襲わせない。烏が怖いのも分かるが、お前は大切な存在なのだから。だから……そう、我らを怖がってくれるな」
「俺を含めて」と、最後にポツリと添えられた言葉は、一際声が小さかった。
 烏王は、菊が烏を怖がり、烏王に嫁いだ事を後悔して、その抵抗として部屋に籠もっていると思ったようだ。そのような事はないというのに。
 ――彼らよりずっと……
 人間の方が怖い。
 既に烏王は前を向いてしまっており、背後で泣きそうな顔で首を横に振る菊には、気付かなかった。
 菊は、自分の手を包むように握る烏王の手を見つめた。
 婚儀の日、初めて伯父と伯母に手を引かれた。だがその手は冷たく、握るというより、ぎりぎり触れている程度だった。
 しかし、今自分の手を握る手はとても優しく――
「…………温かいです」
 烏王は「春だからな」と言った。
 
 烏王が菊を連れてきた場所は、ちょうどいつも菊が縁側から眺めている桜の木の麓だった。
 足元は色濃くなった若草に覆われ、春の陽気に芽吹いた野花が、白、黄、紫、赤と、緑の絨毯を鮮やかに染めていた。空を見上げれば、ハラハラと薄紅の花弁が散り落ち、合間から見える青空が眩しかった。
 菊はその景色に、ほぅとうっとりした溜息を漏らした。
「とても……綺麗です」
 村の景色も綺麗だった。稲が青々と伸びた季節は、青と緑だけの清々しい世界になって美しかった。しかし、そのような世界も菊には遠い世界。村の中を自由に歩くことさえ許されず、許された夜の時間では鮮やかな色は総じて藍の帳を被せられていた。いつも、あの青い稲の葉や黄金の穂を触ってみたい、と屋敷から眺めるだけだった。
 菊は恐る恐る、足を踏み出した。
「烏王様……あの、歩いても……?」
 その問いに、烏王は苦笑した。
「ははっ、おかしなやつだ。聞かずとも、好きなだけ歩けば良いさ。好きなところへ行けば良い」
 菊は歩き、屈み、見回した。見たいものを瞳に収め、触れたいものに触れ、行きたい場所まで歩いた。まるで幼子のように、見るもの全てに夢中になった。
 うっかり、烏王が近くにいることも忘れて。
「そのような顔もできたのだな」
 ハッとして、菊は、はしたなかったかと慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません。子供のような真似を」
 仮にも王と呼ばれる者。その隣に立つ者として、自分のような態度は相応しくないと叱責を受けるのだろうと、菊は身を強張らせた。しかし覚悟した痛みは、いつまで待っても来ず、代わりに静かな声が掛けられる。
「レイカ、頭を下げる必要はない」
 烏王の手が、菊の肩を丁寧に押し上げた。
「むしろ、俺が謝らねばならないのだろうな」
「烏王様が? どうしてでしょう」
 天国と思えるような扱いをしてもらい、まるで謝られる覚えはないのだが。
 烏王は、ふいと菊に背を向け、草を踏みならしながら遠ざかる。どこにいても黒ばかりの彼の姿は、艶(あで)やかな景色の中で一際目立つ。どこに行くのだろうか、と不思議に思い眺めていれば、彼は一度屈み、そして戻って来た。
「人は、このような地味な野花など嫌いかもしれないが……俺がレイカにしてやれることは、これくらいしかないからな」
 烏王は菊の髪に触れた。菊の胸に落ちた真っ直ぐな髪を、耳に掛けるようにして梳きあげる。手が髪から離れた後、菊の耳元には鮮やかな紫の花――スミレが飾ってあった。
「これは……」
「スミレだよ。俺からの気持ちだ」
 菊は、耳元に触れる柔らかな花びらの感触に、喉を詰まらせた。誰かに花を飾ってもらえる日が来るとは。
「よく似合っている。綺麗だ、レイカ」
 今まで感じたことのない様々な感情が身体を駆け巡った。それは胸を打ち、喉を震わせ、目を熱く、口の中を酸っぱくさせた。しかしその数多の感情を表わす言葉を、菊は知らない。
「今、人の世は多くの光であふれているのだろう? だが、我らの郷は夜になれば暗く、身を飾るものもこのような花くらいしかない。きっと人の世の暮らしに慣れたレイカには、物足りない思いをさせていると思う。それでも、来てくれてありがとう」
 烏王の伸ばされた指先が、菊の頬に触れた。
 瞬間、菊の肩がビクリと跳ね上がった。
 菊が「しまった」と思った時には遅かった。
 目の前の烏王の口元は笑っていたが、赤い目は悲しみに耐えるように眇められていた。菊に触れようと伸ばされていた手は、行き場を失ったように指先を震えさせ、そしてゆっくりと持ち主の元へと戻っていく。
「……やはり、それでも烏の手は怖いか……だが、烏王を次の代に引き継ぐには人の血が必要なのだ。我々烏は、精一杯レイカを大切にし、不自由ないようにさせると誓う。安心しろ、烏は愛情深い生き物だから」
「――っ!」
 菊は、踵を返し遠ざかろうとする烏王の腕を、跳びかかるようにして掴んだ。突然のことに目を丸くする烏王をよそに、菊は掴んだ烏王の手を、自分の頬へとあてがった。
「こっ、怖くありません!」
「決して」と、菊は自らの頬を、烏王の掌にすり寄せた。
 この気持ちを表わす言葉を知らない。ならば、言葉以外で気持ちを伝えなければと思った。
「私は、烏王様の事を、烏たちの事を、怖い……とは思いませんから」
 烏は菊の唯一の友人でもあった。座敷牢を訪ねてくれる、優しい友人。怖いと思った事すらない。
 頬に触れられようとする度に身が竦んでしまうのは、過去の叩かれてきた記憶が、知らずに身を守ろうとするからだった。決して烏王を厭っての事ではない。
 ――むしろ、私は……。
「もっと触れて欲しい」と言いかけて、己の言葉の大胆さに菊は頬を赤くした。そう思えば、自分が今やっている事も相当はしたないのではないか、と菊は我に返り、飛び退くように手を離す。
「も、申し訳ありません、急に触れてしまいまして!」
 郷に来てから初めて見せる菊の機敏な動きに、烏王は口をまるめて、ふ、と笑みをもらした。
「お前は謝ってばかりだな」
「申し訳ありません……」
「ほら、また」
 烏王が喉をクツクツと鳴らせば、菊は恥ずかしそうに眉尻を下げた。
 菊が退いて空いてしまった距離を埋めるように、烏王は一歩踏みだし菊と距離を縮めた。
「なあ、そのスミレは気に入ってもらえただろうか」
 烏王の指が、菊の耳元を指していた。
「気に入るなどと、滅相も……このような気遣いをしていただき、申し訳ないほどで――」
「違う。俺が聞きたいのはその言葉ではなくて」
 菊の言葉を遮った烏王の声は、少々不服そうであった。顔を見れば、口をへの字に歪めているだけでなく、柳のような眉までも不格好に歪めていた。
 菊は自分の持ち得る言葉の中から、懸命に烏王の求めるものを探す。そうして、滅多に使わず、使われた事もないある一つの言葉へと辿り着く。
「あ……ありがとうございます」
 確かめるように口にした言葉に、烏王は正解だとばかりに目を細くし、口元に綺麗な弧を描いた。降りそそぐ春陽のような温かな笑みに、菊の表情もつられて柔らかくなる。
 その菊の笑みは控え目なものであったが、その野花のような楚々とした笑みは、烏王の胸を高鳴らせた。
「……っ身体も、充分に温まったようだな」
 烏王は菊に手を差し出した。しかしその顔は、身体ごとそっぽを向いている。菊は気付かなかったが、この時の烏王の耳はその美しい目と同じ色に染まっていた。
 烏王の「帰ろうか」との言葉に、菊は「はい」と、差し出された手に、今度は自ら手を重ねた。
 
 ◆
 
 菊を部屋に送りとどけると、烏王はさっさと自分の棟へと戻って行ってしまった。黒く大きな背中が遠ざかっていくのに、索漠とした気持ちを抱いたのは初めてだった。
「あぁ、どうしたら」
 頬を両手で包み込めば、じんわりと熱を帯びている。
「私は、まがい物だというのに……」
 だというのに、髪を飾ってくれた気持ちを、向けられた温かな眼差しを、壊れ物に触れるように優しく握る手を、菊は嬉しいと感じてしまった。そして、嬉しさと共に発生した欲深い願いもまた、菊を悩ませる。
 ――このまま、ここで……
「ずっと、彼の隣にいたい」
 口に出てしまった願望に、菊の目尻が赤くなる。
 この願いは、烏王を欺き続けることにもなるというのに。それでも一度もってしまった感情を消すのは容易ではない。
 それに、菊がそう望んでしまうのも無理からぬ事であった。
 烏王の屋敷に来てからというもの、菊は会う者皆に好意的な目を向けてられていた。向けられる笑みに嘲りなど一切ない。菊を見つけては「花御寮様」と微笑みかけてくれる。それが菊には嬉しかった。『ここにいてもいい』と言われているようで。
 ただ、烏王に「レイカ」と呼ばれると現実に呼び戻される。本来なら自分は場違いなのだとチクリと胸が痛む。まるで、レイカが「あんたはあたしの身代わりに過ぎないのよ」と、嗤って刺してくるようだった。
 しかし、『レイカ』でいないとここにいられないのなら、それくらいの痛み、耐えられる。村では、もっと多くの痛みが、心だけでなく身体も襲っていたのだから。
 もしかすると、地獄に垂らされた蜘蛛の糸は烏王だったのではないか、と散り桜の美しさを目に映していれば、背に「花御寮様」との声が掛けられた。
 振り向けば、一人の侍女が立っていた。肩口で綺麗に切りそろえられた髪は、彼女の気の強そうな面立ちに、よく似合っている。一見すると、冷たい印象を抱きがちだが、菊は彼女がそのような者でないことを知っているう。いつも丁寧に世話をしてくれる侍女だった。
「どうかしましたか、若葉さん」
 しかし、侍女――若葉からの返事はない。若葉は目利き人のような鋭い視線で、菊をつぶさに観察するばかり。その眉間には皺が寄っている。
 若葉は、前髪の一部が彼女の名のように鮮やかな緑色をしていた。どこかでその色を見た気がするのだが、はたしてどこだったか。
 菊が思い出を探り始めたとき、漸く若葉が口を開いた。
「古柴レイカ様――」
「はい、何か……」
 ご用でも、と伺いの言葉を口にしようとした次の瞬間、その言葉は「ヒュ」と風音を立てて、喉の奥に引っ込んだ。
「――ではありませんよね」
 知らずの内に、菊は袂をくしゃくしゃに握り締めていた。

 ◆

『古柴レイカ』という村娘が、花御寮に選ばれたと知らせを受けた。
 村に放っていた烏たちの報告では、随分と気性の荒い娘だと聞いていたが、実際に輿入れされた者を見て驚いた。やってきた花御寮は、気性が荒いどころか、むしろ気性というものがあるのかと首を傾げたくなるほどに静かな娘だった。
 綿帽子を脱がせ、俯いた顔が上げられれば、再び驚くこととなった。
 人間が、自分達烏を嫌っていることくらい知っている。
 真っ黒な身体に鋭利な嘴、目は常に何かを狙うように妖しく輝き、鳴き声はささくれ立っている。これで好意的に捉えろという方が無理だろう。
 だから烏王は、花御寮の自分に向けられる目に、期待はしていなかった。どうせ、恐れか、怯えか、嫌悪の類いだろうと。
 しかし、彼女の目は予想していたどれとも違った。
 春光が射し込む湖面のようにキラキラと輝き、何度も目を瞬かせていた。これは、と思った。もしかすると、上手くやっていけるのではないかと。
 手を差し出せば、おずおずとだが小さな手を乗せてくれた。その時の胸の高鳴りを、烏王は未だに覚えている。望外の喜びだと、気持ちを込めて彼女の名を丁寧に呼んだ。この先、何百何万と口にする名だからこそ、その最初は心を込めて呼びたかった。
 ところが、その喜びは長く続かなかった。
 彼女に触れようとすると、いや、ただ手を近付けるだけで、彼女は身を縮こめて怯えた。そして、自分を見る目はいつも不安に揺れている。最初に向けられた、あのキラキラしい眼差しはなかった。
 あまりの変わりように、やはり花御寮が嫌になったのかと思ったが、侍女達の話では、どうやらそういうわけでもない様子。彼女は、辺鄙な場所だと憤慨することも、「帰りたい」と泣くわけでもなかった。一日中、縁側から外を眺めるばかりだと言う。唯一、彼女が自分の意思を示したのが、「湯殿の手伝いはいらない」ということだけ。
 ますます彼女が分からなくなった。
 最初の輝くような瞳をもう一度向けて欲しかった。あの、こんこんと湧き出る清水のように澄んだ真っ黒な瞳。烏たちの色であり、自分の色でもある黒。
 ただ、その瞳で見つめて、そして、もっと笑ってほしいだけ。
「嫌われてはいない……とは、思うのだがな……」
 ただ、好かれているかと問われれば、実に怪しいところではある。
 それでも烏王は、もう一度、彼女のあの顔が見たくて毎日足繁く通った。その成果が、今日漸く実った。
 彼女から手を握られ、しかも頬にあてがわれ『怖くない』と言われた。そしてスミレを贈れば『ありがとうございます』と言って彼女は笑った。優しく、心に沿うような穏やかな笑みだった。
 陽光に温められた頬が、ほんわりと赤く染まっている姿がまた可憐で、思わず抱きしめたくなったものだ。しかし、その欲は理性でもって必死に押しとどめた。やっと少し心を開いてくれたというのに、いきなり抱きしめて、また心を閉ざされては困る。彼女には忌避でも嫌悪でもない、ただ、どこか一枚隔てたような、これ以上踏み込んでくれるなとでも言うような壁があった。
「我らが怖いわけでないのなら、何なのだ」
 その壁の理由はまだ分からない。
 烏王は返事する声はないと知りつつ、「レイカ」と呟いた。そして釈然としない顔で首を傾げる。
「どうも、この名も彼女には合っていない気がする」
 彼女には、もっと穏やかな響きの名の方が似合っていると思う。しかし、人間の名付けなど詳しく知るよしもない。あまり耳慣れない響きに、単に自分が違和感を覚えているだけだろう。人世は今急激に変わり始めていると聞く。この耳馴染みのない名も、その影響だろうか。
 烏王は「あー!」と頭を掻きむしった。ただでさえ無雑作に跳ねている毛先が、より一層派手に跳ねる。
 不完全燃焼な思考に「分からん」とぼやけば、今度はその言葉に返事があった。
「何がです?」
 丸みを帯びた柔らかな男の声だった。声がしたのは、部屋の入り口ではなく窓の方から。
 烏王が横目に窓辺を伺えば、一羽の烏が窓から部屋へと飛び込んでくる。次の瞬間、大きく広げられた両翼は薄墨色の袂になり、平筆のような尾は長衣となった。床に伏せた烏が顔を上げれば、そこにあったのは烏ではなく人の顔。
「なんだ、灰墨(はずみ)か」
「なんだとはなんです。それがこうして懸命に飛び回っている近侍にかける言葉ですか」
 灰墨と呼ばれた青年がわざとらしくへそを曲げれば、烏王は「悪い悪い」と苦笑した。当然本気で憤慨などしていない灰墨は、「許しましょう」と近侍らしからぬ物言いと共に、顔を烏王に戻す。
「それで、何が分からないのです?」
 途端に、緩んでいた烏王の表情に険が混ざる。
「レイカだ。どうもお前達から聞いていた像と、かけ離れている気がするのだが」
「あー確かに。わたしも村人達が口にする話とは、随分と違うなと思っていました」
「村に行ったのなら、お前はレイカの姿を確認しなかったのか?」
 灰墨はやれやれと肩をすくめ、両手を上げて首を振った。
「人間に烏の区別がつかないように、わたし共も人間の容姿の区別はつきにくいんですよ。まあ、烏王には分かりづらいと思いますが」
「はは、お前達も難儀だな」
 同じ烏の妖だと言っても、烏王とその他の烏たちとでは性質が違う。烏として生まれ、妖力による変化で人間の姿をとる烏に対し、烏王は人間の血を半分もって人間の姿で生まれる。この違いが烏王たる由縁でもあった。
「多少の違いならば気にもしなかったが、正反対と言えるほどに違うとなるとなあ」
 彼女の怯えの正体や壁の理由を無理に暴きたくはなかった。時間をかけて距離を縮め、それによって怯えも壁もなくなるのなら、それが一番である。
 しかし彼女のそれは、恐らく時間をかければなくなるようなものではないと、烏王は薄々感じていた。
「灰墨、悪いがもう一度村でレイカの噂を集めてきてくれ」
「夫婦事情に首を突っ込まない主義ですが……まあ、わたしも気になるので、やぶさかではないですね」
「それじゃ頼んだぞ。それと、お前は窓から出入りするな。入り口を使え」
 灰墨は「はーい」と、気前の良い返事をして、窓から烏の姿になり出て行った。
 すぐに否定しなければならないのに、菊の喉はひくひくと痙攣するだけで、まともに言葉も出ない。
「あなたは古柴レイカではないはず」
「っそ……ぁ……っ」
 菊はレイカではない。若葉は間違っていない。しかし、菊にとってその正しさは、蜘蛛の糸を千切ろうとする刃も同じだった。
 ――捨てられてしまう……!
 膝の上で震える菊の拳は、きつく握り込みすぎて色を失っている。俯いた顔は目がうつろになり、唇は小刻みに震えていた。
 この状況で否定ができなければ、それは肯定も同じ事だった。
「やはり、そうだったのですね」
 若葉が近付いてくる気配に、菊は、ぶたれる、とぎゅっと目を瞑り身を固くした。しかし、おとずれたのは痛みではなく優しい声。
「やはり、あなたは菊様だったのですね」
「え……」
 菊の俯いていた顔が跳ね上がった。その正面にあった若葉の顔は、責め立てるようなものではなく、安堵の笑みを湛えていた。
 咎められると思っていた菊は、混乱に目を白黒させる。レイカではないとバレた上に、本名まで知られていた。一度たりとも本名など、口にしたことないのに。
「覚えておりませんか? といっても、人の姿でお会いするのははじめてなんですが」
 言って、若葉は自分の前髪を指さした。真っ黒髪の中で、そこだけが一部鮮やかな緑に色付いている。
「緑? 緑……の……」
 菊は「あ」と声を上げた。
「もしかして、村にいた緑の烏さんでしょうか!?」
 座敷牢の窓辺に時折やって来ては、まるで菊の存在を確かめるように顔を覗かせていく烏。確かにその羽先は、彼女の前髪と同じ色に染まっていた。
「古柴レイカが花御寮になったと村人達の話を聞いたのですが、実際に現れたのがあなたで驚きました。あなたは菊と呼ばれていたはずなのに、と」
「あ、あの! どうかこの事は……っ、いえ、騙しているのは悪いことだとは分かっているのですが、その……どうかもう少しだけ……っ」
 彼のそばにいさせて欲しい。
 菊はしがみ付くようにして、若葉の袂を引っ張り懇願した。瞳の表面で揺らぐ水膜は今にも溢れそうで、何度も「どうか」とこい願う声は、掠れ掠れだった。
 悲痛に眉宇を歪めれば、瞳の表面の水膜がぽろりと剥がれ落ちる。一度剥がれ落ちると、次から次へと後を追うように、ぽろりぽろり、と水膜の欠片が菊の頬を濡らした。
 顔を覆い、圧し殺した涙声と共に肩を震わせる菊に、若葉の手が伸びる。
「大丈夫です、菊様」
 抱きしめるように背に回された若葉の手は、優しいものだった。
「大丈夫です。私は古柴レイカの事はよく知りませんが、あなたの……菊様の事ならよく知っておりますから。あなたが名を偽ってこの場にいるのも、何か事情があってのことなのでしょう?」
 上がった菊の顔は、驚きに涙が止まっていた。
「どうして……騙していたのに……」
 なのに、どうしてこれ程に優しい言葉を掛けてくれるのだろうか。どうして、同じ村で育った者達よりも、数えるほどしか顔を合せていない彼女の方が、自分の言葉に耳を傾けてくれるのだろうか。
 せっかく涙も止まったというのに、再び目頭がツンと痛くなる。
「森で翼を怪我して飛べないでいるところを菊様が見つけてくれ、わたしの為に沢山の木の実を拾い集めてくださいましたよね。お腹が空いているでしょう、と」
 そう言えば一年ほど前、数少ない自由である夜の散歩をしている時、地面にうずくまる烏を見つけた覚えがあった。近付いても飛び立たず、ただぴょこぴょこと地面を歩いて逃げるばかり。よく見れば、片翼の羽根がいくらかささくれており、怪我をしているのだと分かった。
「それであなたの事が気になり、村中を探しました。まさか屋敷の地下に、隠れるように住んでいるとは思いませんでしたが」
「気になって?」
「烏に施しを与える人間は珍しいですから。その後も菊様は、私が訪ねると、『お腹空いてるの?』と色々な食べ物を下さいましたね。自分の僅かな食べ物さえも分けてくれて……」
 ふ、と若葉の口元がほころぶ。
「本当は、それほどお腹は空いてなかったのですがね」
「えぇ!? そ、そうだったのですか。やだ、私ったらてっきり、訪ねてくるのは食べ物を貰いにかと……」
 菊は申し訳なさそうに背をまるめたが、「そんなに毎度毎度空腹だったら、烏は生きていけませんって」と若葉は苦笑した。その笑みはどこか嬉しそうでもある。
「あなたに会いたくて、あなたが心配で、あなたがどうしているか気になって、伺っていただけですから」
「でも、どうして私の名まで分かったのです」
 自分の名を呼ぶ村人などいないというのに。
「あなたの部屋にやって来た金切り声の女が、そう呼ぶのを聞きました。あなたが彼女をレイカ姉様と呼ぶのも……あなたに辛く当たるあの女が、古柴レイカでしょう?」
 ここまで知られてしまっては、と菊は素直に頷いた。
「……それで、私が本物の花御寮じゃないと分かって……烏王に報告しますか」
 若葉は間髪入れずに、いいえ、と言った。
「私達は、人間がどのようにして花御寮を選ぶのか知りません。こちらからすれば、村娘であれば誰だって良いのですから。菊様の様子をみていると、入れ替わったのには何か事情があったのでしょう? どうしてこのような事になったのか、話して下さいませんか」
 菊は、レイカが花御寮に選ばれてからのあらましを話した。若葉は「なんと……」と唖然としていた。
「やはり私は、本物の古柴レイカより、烏王の隣には菊様にいてほしいです。……そんな女を様付けで呼びたくない」
 最後に言葉を付け加えた時の若葉の顔は、これでもかと言うほど、眉も目も口も全て歪んでいた。いつも涼やかにして、表情を大きく崩すことのない彼女がみせた本心に、思わず菊も大きく表情を崩して吹き出した。
「大丈夫です。烏は愛情深いのですから、受けたご恩は忘れません。菊様がずっとここにいられるよう、お守りいたします」
 広げた両翼で雛を守り囲う烏のように、若葉は小さな菊の身体を両腕で抱きしめた。
 守られるというのは、これ程に頼もしく心安らかになるものか、と菊は若葉の胸に頭を預け、静かに瞼を閉じた。
 ――どうか、この安らかな時間が少しでも長く続きますように。
『村娘であれば』という若葉の台詞は、今だけは考えないようにした。
 
 ◆

 外を一緒に散歩した日から、烏王の何かが変わった。
 日中に訪ねてくるのは変わらないのだが、会話をすれば以前のような菊への一問一答ではなく、彼の生い立ちや好きなものの話題。散歩をしに庭へ出ることも増えた。しかし、屋敷の外へはまだ出ては駄目らしい。理由を尋ねれば、「今はまだ俺だけに……」と、よくは聞こえない声でそっぽを向かれた。
 彼だけ何なのだろうかと思ったが、菊も特に屋敷の外に出たいとは思わなかったので、今でも散歩と言えば庭の散策が主だ。
 そして一番の変化が――
「……あの、烏王様。私の顔に何か、また散り花でもついてますでしょうか?」
「いや……」
 そう答えたきり、烏王はまたじっと菊を見つめるのだ。沈黙が気まずいわけではないが、こうもただひたすら見つめられ続けると、首の後ろも痒くなるというもの。
 部屋に満ちる空気はどこか面映ゆく、菊はいつもソワソワとしてしまう。
「レイカ、そろそろ同じ棟で暮らさないか」
 烏王が口を開いたことで、漸くこの空気から逃れられると思ったのも束の間、彼の言葉を理解した菊の顔が火を噴いた。
「っああぁあの、その、つまりは、ええっと――」
 菊の頭は熱暴走によりまともな思考ができなかった。ただ『子を成さねば』という以前の烏王の台詞が、よりなまめかしい響きをもってグルグルと脳内を駆け巡っている。
「レイカには俺の事をもっとよく知ってほしいし、俺もレイカの全てが知りたい。駄目か?」
 烏王が目の前で、覗き込むようにして答えを待っている。何か答えなければと思うものの、煮えた頭でもどうにか残った僅かな理性と感情がうまく噛み合わない。
 心は頷けと言っているのに、理性がそれは危険だと首を横に振らせようとしていた。期待と不安のこもった烏王の眼差しに、これ以上耐えられなくなった時、まさに天の助けかと思う声が部屋に入ってきた。
「花御寮様、また面白そうな本を見つけたので、お持ちしましたよ――って、あら……もしかして、私ったらお邪魔しました?」
 頭の上に湯気が見えそうなほど湯だった菊の顔を見て、若葉は踵を返そうとした。それを菊が慌てて止める。
「ああああ待ってください! ほ、本がとても気になりますので!」
 若葉がチラと烏王に視線を向ければ、烏王は瞼を重くして「全く」と唇を尖らせいていた。

 若葉が持ってきた本を、子供のようなキラキラとした目で確認していく菊。
「何なのだ、この本の数々は?」
 そう言えば、と烏王は菊の文机を一瞥する。そこにも、以前にはなかった本が、やはり何冊も積まれていた。
「あの、私ったら皆さんの事をくわしく知らないので、少しでも学べたらと。烏たちに関する歴史やお話などの本を、若葉さんに集めて貰っているのです」
「今、花御寮様がお読みになっている本は、よく私共が子供の頃に読んだ『虹色ぬばたま』ですよ」
「童話か」
「その、あまり読める文字が多くなくて……」
 烏王は、文机にポンと一冊置かれていた読み掛けだろう本を手に取ると、懐かしそうに頁をパラパラと捲る。すると本の合間から、スルリ、となにかが抜け落ちた。
「あっ」と、しまったとばかりの菊の声が飛ぶ。
「ん? 何だこれは」
 組んだ足の上に落ちたそれを烏王が拾い上げれば、それは和紙で作られた栞だった。くるりと裏を返せば、烏王は「これは」と先ほどと同じ言葉を口にして目を見開いた。
 紫色の見覚えのある花が、白地の和紙に挟まれている。
 驚き菊を見遣れば、菊は袂で顔を隠し、小さくなっていた。袂の隙間から見える菊の耳は真っ赤だ。
 それは、烏王が菊の髪に飾ったスミレの花。
「ああ、それはこの間、花御寮様が作られた栞ですよ。和紙と紐が欲しいと言うので差し上げたら、こんなに可愛い栞を作られて」
「わ、若葉さん……」
「しかも、紐は赤いものが良いというこだわり仕様で」
「若葉さん、あのっ、もう……本当に……っ!」
 自慢げに語る若葉の隣で、菊はどんどんと赤く、小さくなっていく。
「赤?」と烏王は訝しげな声を漏らす。手の中にある栞には確かに赤い紐が通してあった。若葉の言うとおりならば、この紐の色にも意味があるのだろうが、と菊を見遣れば、潤んだ瞳と目が合う。
 菊は気恥ずかしいのか、「え、あぅ」と言葉にはならないようで、ついには瞼を伏せてしまった。しかし「実は……」とか細い声を出すと、ゆっくりと伏せた視線を上げる。下から這わせた菊の視線は、烏王の目を捉えるとピタリと止まった。
 次第に菊の瞳が、恥ずかしさに耐えらないのか潤みを増していく。しかしそれでも目を逸らそうとしない菊に、漸く烏王もその視線の意味を理解した。
「――っな!? いや、そんなまさか……っ」
 菊の見つめる先――烏王の瞳も確かに『赤』だった。
 栞と菊を交互に見遣る烏王。その顔は、彼の瞳と同じくらいに赤い。
「あらあら~、お邪魔烏は去りましょうか」
「も、もう! 揶揄わないでください、若葉さん」
 若葉は袂で口元を隠していたが、しっかりと目は笑っていた。下瞼を押し上げている頬は、きっと口端も引き上げているのだろう、と菊は頬を膨らませて若葉に遺憾を伝える。
 しかし、若葉はそれさえも愉快だと笑みを濃くするばかり。何と言っても暖簾に腕押しだろう、と菊は若葉の口を止めるより、烏王への釈明を優先させる。
「あ、あの、烏王様にいただいたスミレがとても綺麗で、それで、どうしても手元に置いておきたくて、このように勝手な事を……お、お気を悪くされたのなら――」
 しどろもどろで、しかし懸命に説明しようとする菊。眉は情けなく垂れ下がり、その顔は真っ赤。身体を小さくした菊が、鼻の前で合わせた袖先から、見上げるように見つめてくる様は、烏王の身体を熱くした。
 烏王は額を押さえ、「はぁぁ」と長い長い溜め息をついた。
「……我慢しているこっちの身にもなってくれ……」
「え」
 次の瞬間、菊の額に烏王の甘やかな熱が落ちた。
 口づけをされたのだと気付いた時には、烏王は菊に背を向けて、ちょうど部屋を出るところだった。パタンと気遣いの感じられる音で扉が閉まれば、若葉が「きゃー」と、小声で悲鳴をあげ、目をかつてないほど輝かせていた。
 菊は烏王の唇が触れたところに触れ、ぽうとして烏王の去って行った方をしばらく眺めていた。

 それから数刻後、菊の部屋に大量の花が届けられた。シロツメにスミレに蓮華にナズナ。
「……これは、たくさん赤い紐を用意しないといけませんね」
「たくさん、読みかけの本を作ってしまいそうです」
 菊は花束を潰さないようぎゅうと抱きしめ、その幸せの香りにしばし酔いしれた。
 ――私、こんなに幸せで良いのでしょうか。

 ◆

「嘘を吐くな!!」
 灰墨が持ち帰った報告を聞いた途端、烏王はかつてないほどの怒声を灰墨に降らせた。
 勢いよく立ち上がったせいで、派手な音をたてて脇息は倒れ、そばにあった文机までも震動でカタカタと揺れた。文机に載っていた筆が床に落ち、物寂しい硬質的な音を立てる。
 余韻が消えれば、それを待っていたように灰墨が口を開く。
「わたしが烏王に嘘などつきますか」
「――っそんな……レイカが、身籠もっているだと!?」
 ふらり、とよろめく烏王は、顔を覆った手の下で悲痛に唇を噛んだ。
「村はその噂でもちきりでしたよ。何しろ、その相手だという男が、声高に『レイカの子は俺の子だ』と叫んでおりましたから。まあ、武勇伝のように語るその様は、実に阿呆っぽかったですが」
「…………っ嘘だ」
 膝から崩れ落ちるようにして座った烏王は、繰り返し手の下で嘘だと呟く。
 いつも凜然として、多少のことでは取り乱さない主人が、見ている方が痛々しくなるほど憔悴していた。これには報告を持ってきた灰墨も、後悔に眉を寄せた。
 
 花御寮についてもう一度調べてきてくれと頼まれてから、灰墨は村にいる烏たちを使い『古柴レイカ』について情報を集めた。といっても、聞き込みなどするわけでなく、村人達の話に耳を傾けるだけなのだが。
 灰墨は当初、もう村を出た花御寮の事を話す者はいないだろう、と思っていた。きっと集まる情報も前回と同じようなものだと。しかし意外にも、村人達はまだ花御寮の名を口にしていた。これは良かったと思ったのも一瞬、聞くのではなかったと思う羽目になった。
『レイカって妊娠してたらしいわよ』
『え、あの古柴家の娘がか!? 確かあそこの娘は花御寮に選ばれたはずじゃあ』
『まあ正直、レイカならあり得そうかなって思う。よく村の男達にちょっかいかけてたし、僕も誘われたことあるしな』
 村の至るところで聞いた花御寮に関する話は、どれも耳を疑うようなものばかり。しかも極めつけは、相手だという男自ら、村のど真ん中でその事を誇らしげに吹聴して回っていたのだ。
『レイカの子が生まれたら、そいつが次の烏王になるんだろ? だったら、俺は烏王の本当の父親なわけだし、烏どもの王になれるかもなあ!』
 いつ選ばれるか分からない花御寮候補の村娘達に手を出してはならない、というのが村の掟でもある。しかしこの男は、自分が『王の父』になれるという甘い夢に陶酔しきり、村の掟を破ったことさえ英雄気取りで話していた。
 話を聞いた者は当然の疑問や批難を口にする。『流石にバレるのでは』『村に迷惑が掛かったらどうするつもりだ』と。
『なぁに、卵で生まれるような烏が、人間様の生まれ方なんか知るわきゃないさ。烏王がどんな奴か知らんが、レイカの腹から生まれるんなら、人の形をしていてもおかしくはないだろ。それに、レイカも死にたくはないだろうから上手く隠し通すさ』
 灰墨は、その場で男の首に嘴で風穴を空けてやろかと思った。掟破りを自慢し、自分達の王までも愚弄する、その汚い声を元から絶ってやろうと。
 しかしそれよりも今は、この最悪で最重要な情報を報告する事が先だった。
 こうして灰墨は、烏王の予想をはるかに超える報告をする事となった。
 
「村人の口にのぼる花御寮様と、あの花御寮様が一致しなかったのですが、よくよく考えれば、花御寮様は輿入れされてから一度も、身体を見せることがなかったはず。侍女にも、烏王にも。湯殿で侍女を追い払うのは、もしや腹の膨らみを隠す為では?」
 あの吹聴男は、烏だから人間の生まれ方を知るわけがないと言っていたが、どれだけ短絡的なのか。人間である花御寮を今まで何代迎えてきたと思っているのか。ましてや、烏王は人の身をもつ。人間の事など、当然のように皆が知っている。
 烏が頭の良い生き物だと忘れているようだ。馬鹿な夢を見ている吹聴男も、だまし続けられると思っている花御寮も。
「花御寮様の生家の方も伺ってみましたが、使用人全てを解雇したらしく、火が消えたように静かなものでした。さすがに噂が恥ずかしく、大人しくせざるを得ないのでしょうが」
「もういい……聞きたくない……」
「烏王、花御寮様は村に突き返してやったらどうです。そして別の村娘を――って、烏王!?」
 烏王は灰墨の言葉も最後まで聞かずに、部屋を飛び出していった。

 若葉や他の侍女達と押し花を作るのが、ここ最近の菊の日課となっていた。
 ――ああ、なんと穏やかな日々でしょうか。
 花を丁寧に伸しながら、会話に花を咲かせる。侍女達は、烏王と菊がこの間も仲良く散歩しているのを見た、と菊をわざと赤面させては、それを微笑ましいと楽しんでいた。
 しかしその穏やかな時間も、荒い足音を立ててやってきた烏王によって、突然の終わりを迎える。
 いつもなら菊を驚かせないように、静かに扉を開け、ゆっくりと近付く烏王。しかし今は、扉を邪魔だとばかりに乱暴に開け、侍女達など目に入らぬと、一直線に菊に詰め寄っていた。肩を掴むその手の強さに、思わず菊も「きゃっ」と小さな悲鳴を漏らす。
 烏王のあまりの変化に、驚きと怯えの悲鳴を侍女達が漏らせば、烏王は横目に一瞥し『出て行け』と、その眼光の鋭さで伝えた。震え上がった他の侍女達は飛び去るように消え去ったが、若葉だけは菊を気遣い、躊躇いがちにまだ部屋に残っていた。
 若葉だけは、菊がレイカではないと知っている。烏王の剣幕から、身を偽ったのがバレたかと思い、せめて菊が悪い扱いを受けないようにと取りなすつもりだった。
「何をしている、若葉。去れ」
 聞いた事もないような、『王』としての烏王の声に、若葉の全身からドッと汗が噴き出す。それでも若葉は食い下がろうとした。しかし、菊がそれを望まなかった。
「若葉さん、私は大丈夫ですから」と、血の気の失せた顔で言う。
 そのように弱々しい笑みで何が大丈夫なものか、と思えども、そう言われてしまえば、若葉にはその場に残る権利はなかった。

 二人きりになった途端、拙速に烏王は核心の言葉を口にした。
「身籠もっているというのは本当か」
「――っ!?」
 菊は眦が裂けんばかりに目を瞠った。
 そんな馬鹿な。この身体は誰一人として触れたことがないというのに、一体どのようにして身籠もるというのか。
 菊も若葉同様に、レイカとの入れ替わりがとうとうバレたのだろうと思っていた。それに激怒して烏王がやって来たのだろうと。しかし彼の口から問われたのは、身の偽りなど些細に思えるほど衝撃的な事。
 ――ああ、そういう事だったのですね。
 同時に、菊は全てを悟った。
 なぜ伯父が、バレてしまえば古柴家さえなくなってしまうような、『花御寮の交換』という危険な選択を許したのか。あれだけ伯母やレイカが懇願しても、首を縦には振らなかった人が。
 あの人達は、レイカが妊娠しているのを知っていたのだ。娘の掟破りの尻拭いに、菊も烏王も村さえも全て巻き込んで騙したのだ。
「……っどうして……何も言ってはくれないのだ……」
「そ、れは……っ」
 肩を掴む烏王の手が震えていた。
 しかし、菊には答えようがない。否定すれば自分がレイカではないと言っているようなものであり、レイカで居続けるために肯定しても、結局は彼に捨てられるだろう。
『捨てられる』という自分の言葉に、菊の目が熱くなる。
 遠ざかっていく背を見るのが、どれだけの喪失感を抱かせるか菊は知っていた。もし、その背が愛しい者だったら。考えただけで胸が苦しい。
 まるで全身を苛む苦しさを追い出すように、菊の目からは雫があふれ、頬を滑り落ちる。
 罰が当たったのだろうか。神事で決めた事に逆らい、まがい物が嫁いだから。
 縋るように菊の胸に頭を寄せる烏王。肩を掴んでいた彼の手がズルリと力なく床に落ちた。
「この身体に、他の男が触れたと思うだけで頭がおかしくなりそうだ。この甘い香りを吸い、この華奢な手に抱きしめられた男が俺は憎い。そしてここに……他の男と愛し合った証が宿っているなどと……」
 烏王の指先が菊の腹を撫でた。しかしそれは着物の表面をなぞったのみ。こんな時でさえ、彼の指先には優しさが滲んでいる。
 そしてこんな時でさえ、彼の切なる愛の告白に菊は喜びを感じてしまった。辛く、甘く、切ない思いが菊の内側で暴れ、身を引き裂かれるようだった。
「言え! 男の名を……消し炭にしてくれる!」
「し、りませ……っ」
 本当の事だった。菊はレイカの相手など知らない。
 しかしその言葉は、烏王からすれば相手の男を庇っているようにしか聞こえない。烏王の僅かに残っていた理性が瓦解した。
「――んぅ……っ!?」
 菊の唇を烏王のそれが塞いだ。突然の噛み付くような荒々しい口づけに、菊の涙も止まる。
「……っ、ぁ…………う、っ様……っん」
 初めて交わされる甘やかな熱に、菊の意識は白くなった。角度を変えては何度も落とされる口づけ。次第にその唇は顎を下り、首を這い、そしてより深くまで下りようとした。
 烏王の手が着物の肩を脱がせようとする。
「――っ嫌!」
 しかし我に返った菊によって、その手は弾かれてしまった。手を払った痛々しい音が、言葉以上の拒絶を表わしている。
「あ……す、すみ、ま…………っ」
 自分が何をしてしまったか理解し、止まっていた涙が、後悔に再び頬を濡らす。
 烏王は打たれ赤くなった手を眺め、ふ、と歪に笑った。
「やはり、その男の事が好きなのだな」
「違……っ」
「俺に向けてくれたあの笑みも、栞も、怖くないと言ったあの言葉も、全て俺を欺く為の芝居だったわけか。ははっ、ならば成功だよ。まんまと騙されて……っ、こんな状況なのに、未だにお前が愛おしくて堪らないとはな……っ!」
 烏王の哀切な叫びは部屋にこだました。
 くしゃりと前髪を握りこみ、背を丸める烏王。
「……村へ帰してやる」
 菊は嗚咽を上げ首を横に振った。
「頼む、これ以上俺を狂わせてくれるな」
 菊に向けられた、烏王の今にも消えてしまいそうな弱々しい笑みは、もはや笑みでも何でもなかった。それは明らかな諦念。
 自分がこれ程までに愛されていたとは。そしてそのような相手をこれ程までに傷つけてしまったとは。菊は涙を拭うと、すっくと立ち上がり、着物の帯をほどきはじめた。
 どのみち捨てられるのなら、彼への誠意だけは守りたかった。彼に嘘をついた、嘘の自分のままでいたくなかった。
「確かに、私は烏王様を騙しておりました」
 シュルシュルと床にわだかまっていく帯達を、烏王が凝視する。一体何をしているのか、と。
「私が誰にも身体を見せなかったのは――」
 纏っていた最後の一枚が床に落ちれば、烏王は息をのむ。
「――この身体を、見られたくなかったのです」
「その……身体は……」
 菊の身体は至るところに痣や傷があった。古いものから最近できたであろうものまで。決して転んだり、自ら怪我をしただけでは出来ない場所にまで傷痕があった。それは故意に傷つけられたという事。
「このような汚い身体、烏王様にも……誰にもお見せしたくなかったのです。汚い娘だと、烏王様に相応しくないと言われ、捨てられるかもと」
「すまない、辛い思いをさせた」
 烏王は自らの羽織を脱ぐと、菊の身体を覆いその上から抱きしめた。
「レイカが、俺や侍女にさえ身体を見せない理由は分かった。だが……」
 烏王は菊の身体を見て、その傷の多さだけでなく、もう一つ驚いた事があった。
「その腹は……まるで……」
 まるで妊娠していない女のものだった。
 膨らみは微かもなく、手の細さから想像した通りの華奢さだった。村を出るときに既に妊娠が分かっていたのなら、それから一ヶ月も経つ今頃には、多少なりの膨らみがあるはずだ。
「私は、古柴レイカではないのです」
 烏王は『やはり』と、どこか腑に落ちるところがあった。
「申し訳ありません、烏王様や皆さんを騙してしまって」
「では、身籠もってもないのだな?」
「もちろんです。それどころか、この身に触れる者さえ、誰もいませんでしたから……」
「はぁぁ」と烏王は長い息を吐き、菊にしな垂れるようにして抱擁を強くした。菊の耳元で「良かった」と囁かれる。その声の細さは、彼の心の底からの安堵を表わしていた。
 しかし、菊が告げなければならないのは、これだけではない。まだ一つ残っている。身代わりよりもずっと重い罪。この身体に印された傷も元はそれが原因だ。
「烏王様、私は元より……花御寮になる資格を持たないのです」
「資格? どういう事だ」
「私は、母が村の外の男との間につくった忌み子です。村の者の血を半分しかもたなく……」
 烏王は全て理解した。
 彼女が手を伸ばせば怯えた理由も、いつもどこか不安に目を揺らしていた理由も、笑いあおうと、必ず取り除けない壁があった理由も全て。そのどれもが、彼女の意思に反したものだったという事も。
 声が尻すぼみすると一緒に俯いていく菊。自分の胸下までしかない菊の小さな頭に、烏王は腰を折って口を寄せた。
「なあ、本当の名を教えてはくれないか?」
「菊……と、申します」
「とても似合う名だ」
 烏王は身に染み込ませるように、「菊」と丁寧に口ずさんだ。この先、何百何万と口にする名だからこそ、その最初は心を込めて呼びたかった。今度こそ本当の名を。
「はい」と返事する菊の声や表情に壁は一枚もなかった。
「何も心配しなくていい、菊」
 烏王は漸く、本当の意味で菊を呼べた気がした。
「突然の来訪を許せ、村長」
 夜中に戸を叩く者があり、腹立たしさを感じつつも出てみれば、妖しい瞳をもった真っ黒な巨烏がいた。驚きに寝惚け眼を何度もこすれば、それが大きな烏ではなく人だと分かる。
「どうやら、この烏王を謀った阿呆どもがいると聞いてな」
「う……烏王……様……っ!?」
 長は声をわななかせ、尻から地面に落ちた。
「そ、その件は、わ、わたくしもつい先日知ったばかりで……!」
「ほう、どうやら噂は長の耳にも届いていたか。ならば話は早い。もちろん何らかの沙汰を下しても文句はあるまい?」
 
 枕元に現れた、浮世離れした臈たけた面ざしの青年に叩き起こされ、レイカの両親は目を覚ますと一緒に腰を抜かした。
 青年の口元は柔和な線を引いていたが、その真っ赤な瞳は色に反して驚くほど冷たい。間違いなく村人でもなければ人間でもなかった。
「よくも俺を謀ったな」
 その一言で、レイカの両親は瞬時に、誰が何の為に訪ねてきたか察した。
「ち、違います! こ、これは、わたくしどもの意思ではなく……そ、そう! 我が家で養っていた忌み子がどうしてもと言うものでして、わたくしどもも渋々――」
 烏王は「ほう」と目を細める。
 すると、部屋の外から気怠い声が入ってくる。
「お父さんったら、夜中になぁに~? うるさくて目が覚めちゃ――ッヒ!」
 真っ先にレイカの目に飛び込んできたのは、両親は布団の上で土下座する姿。そして、その頭の先には暗闇に紛れた男が立っており、その眼光にレイカは喉を痙攣させた。しかしそれも一瞬。目が闇に慣れ、男の容貌が一際優れていると分かると、レイカの眉はたちまち垂れる。
「ああ、お前が本物のレイカか。会いたかったぞ」
「本物……って、もしかして烏王様!? ああ、やっぱり! 私を迎えに来てくださったのですね」
 レイカは嬉々としてはしゃぐが、烏王は冷ややかに視線を下げた。
「その腹……やはり身籠もっていたか」
 レイカの腹は丸みを帯びていた。
「あ、こ、これは……村の男に無理矢理……わ、私は花御寮になりたくて純潔を守ってきたのですが……それで妹が、花御寮を変わらなければ掟破りを長に言いつけると……っ」
 烏王は片口をつり上げた。この娘は、こちらが何も知らないと思っているのだろうか。立派に泣き真似までして、己の罪をまだ菊に被せようとしている。しかも無理矢理とは、どこまでも厚かましい。
「あははは! 実に立派な親子だ! こうも同じ事を言えるとは――」
 実に滑稽で、笑わずにはいれなかった。
「――親子共々腐っている」
 底冷えするような烏王の声音に、三人の肩が跳ねる。
「勘違いするな。俺はお前達に罰を与えにきただけだ。誰がお前のようなウジ以下の女を迎えに来るか」
 吐き捨てるように言った台詞に混ざった、『罰』という言葉を三人はしっかりと聞き取った。暗闇で三人の顔は青白く浮かび上がり、カチカチと歯が揺れる音が響く。
「数百年と同じ村の中で婚姻し続けても、病が出なかった理由が分かるか? その滅伐の力が血の悪も抑えていたからだ。では、その押さえていた力が無くなればどうなると思う」
 レイカはイヤイヤと首を振りながら後退る。
「っ何でよ!? 菊が気に入らなかったからって、どうしてあたし達に意地悪するのよ!」
「そ、そうです! やはりあのような娘はお気に召さなかったのですよね!? だから罰などと」
「娘はこの通り器量よしです! 腹の子はこちらでどうにかしますので――」
 この期に及んで何も分かっていない三人に、烏王は憐れみさえ覚えた。口々に「やめてくれ」と、餌を欲しがる雛鳥のように喚いている。雛鳥と違ってまるで可愛くはないが。
「菊も、お前達に何度やめてくれと思っただろうな。それでお前達はやめたのか?」
 そこで三人は漸く烏王が何に怒っているのか理解した。そして今までの自分達の発言が彼を逆撫でするようなものだった事も。
「お前達が生きている限り、俺の菊は苦しんでしまう」
 烏王が手をかざせば、三人の身から何かが抜け出す。と、同時に三人は糸の切れた操り人形のように、グシャリと床に不細工に突っ伏した。
「これからお前達は急激に老衰し、この世に存在する数多の病がその身を蝕む。疼痛尖痛楚痛酷痛様々な痛みに苛まれ、早々に死ぬ。運良く生き残っても、一生病の苦しみを背負うことになる。死んだ方がマシだと思うだろうなあ」
 烏王が言い終わると同時に、レイカ達の手に干からびたような皺が刻まれ始めた。
「いやあああああ!」
 実に耳障りな悲鳴だ、と烏王は不快に眉根を寄せたが、その叫喚もすぐにしわがれ、耳にも届かなくなった。

 ◆
 
 菊は薄紅より緑が多くなった景色を、縁側から静かに眺めていた。
「そんなに葉桜が珍しいか」
 春風のような温か含んだ心地良い声が、菊の背にかけられる。
 振り返れば烏王が、微笑みを浮かべ立っていた。
「烏王様!」
 菊は、縁側の向こうに広がる綾なす景色にも負けぬ鮮やかな笑みで、彼を迎え入れた。

「それにしても、まさか長が古柴家の者達が村から出て行くのを許すとは……」
 忌み子である自分さえも、村の内で抱えたというのに。
「二度と会うこともないから、もう気にするな。忘れろ、菊」
 烏王の唇が額を掠めた。くすぐったさに菊は烏王の肩口に頬を寄せる。
 菊は胡坐の上に乗せられる形で、すっぽりと烏王の腕の中に収まっていた。近頃はこの体勢が彼のお気に入りらしい。その前は、背後から烏王が覆うような形だった。
 重ねられた二人の手は、指先まで絡んでいる。
「もう俺の手は怖くないか?」
 菊は苦笑した。
「意地悪ですね。あれは一種のクセですから。ぶたれる時以外、私に手が差し伸べられる事はありませんでしたから」
 ほんの二ヶ月ほどしか経っていないというのに、はるか昔の事のように思えた。
「今、私は烏王様の腕の中にあれて、とても幸せです」
「俺もだ」
 陽だまりの中にいるように、二人の表情も穏やかなものだった。
「今なら分かる。村と契約を交わした最初の烏王が、なぜ村娘を欲しがったのか」
「どうしてです?」
「烏の翼は、愛しい者を雨露から守る傘になってはやれるが、このように抱きしめることはできないのだ。きっと烏王は、愛する者を温める腕が欲しかったのだろうな」
 真っ黒の着物を着た烏王が菊を抱きしめれば、まるで烏が抱きしめているようだ。
「それにしても、私は本当に花御寮のままでいても良かったのでしょうか」
 何よりそれが一番の問題だと菊は思っていたのだが。もし烏の郷の掟を、彼に破らせているのなら申し訳ない。
「ははっ! 勝手に村が決めた掟など知らんな。元は秘密保持のために村娘と指定したのだろうが。別に花御寮に滅伐の力は必要ないし、人間であれば構わないさ」
 案外とあっさり解決したことに、菊は拍子抜けした。
「まあ、そうだな。花御寮の資格というのなら……」
 顎を撫でながら思案に天を仰いだ烏王。何やら思いついたのか、ニヤリと悪戯小僧のような笑みを浮かべ、菊に目を向ける。
「俺の事をどう思っているのか、答えて貰おうか」
「は……っ! そ、それはあまりにも……恥ずかしいと言いますか何と言いますか……」
 菊はごにょごにょとアレコレ言うが、烏王は目を細めながら「んー?」と待っている。
「もう」と、菊はやけっぱちで耳元に口を寄せ、囁いた――「お慕いしております」と。
 くすぐったそうに肩をすくめて、烏王は笑った。
「俺の花御寮! 覚悟してくれ。もう、到底お前を離せそうにない!」
「はい。離さないでくださいませ、旦那様」
 宝物を扱うように丁寧に優しく、されど強く強く抱きしめた烏王の腕の中で、菊は一等きらきらしく笑った。
【了】

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