ハロウィンの起源を教えてくれたのは博学なあの人だった。悪い精霊や魔物から身を守るために、魔女の仮装をしたり仮面を被ったりするケルト人の風習だという。あの人が私を捨てたのは奇しくも十月三十一日の夕方だった。

 人より少し遅い十八歳の初恋はいつか永遠の誓いになると信じていた。大学進学を機に上京して出逢ったあの人と私は恋人になった。あの人と出逢ってバラ色に染まったはずの私の世界が今日枯れた。

 私に別れを告げた後、呆然と立ち尽くす私を放ってあの人は立ち去った。ぐちゃぐちゃな心のまま、帰らなきゃと山手線に乗り込んだ。環状線が何周しても座席から立ち上がれない。思い出すのはあの人との思い出ばかり。俯けば右手の薬指につけた十九歳の誕生日にもらったシルバーリングが視界に入った。

 少し年上のあの人は教養があり、物を知らない私に色々なことを教えてくれた。テーマパークでもピクニックでも、どこでデートをしてもあの人のおかげで世界が広がった。ただ、あの人は自分自身のことを教えてはくれなかった。私は今日まであの人のことを何も知らなかった。

 あの人は家族の話をしなかった。今日初めて、あの人が名家の出身だと知った。父親の会社の取引先の社長令嬢とお見合いし婚約するので、関係を清算したいと言われた。世間知らずで馬鹿な私は駆け落ちしようと言った。あの人のために全てを捨てる覚悟はあった。

「最初から住む世界が違ったんだよ」

 あの人の最後の言葉を反芻する。遊びのつもりだったのか、恋愛と結婚は別だと考えていたのかは分からない。私の初恋が崩れ落ちる音が今も耳の中で鳴り止まない。

「お客さん、この電車車庫に入りますよ」

 駅員に声をかけられ、よろよろと電車を降りた。気づけば私は山手線を何周もしていて、駅の時計は深夜一時になろうとしていた。悪いことは重なるもので、スマホのバッテリーは切れていた。涙で霞んだ視界でも、かろうじて「大崎駅」の文字が見えた。

 タクシーは拾えそうもないし、拾えたとしても家は渋谷方面だ。ハロウィンの歩行者天国で通行止めになっている区間も多いので、帰るのは現実的ではない。どこか泊まれそうなところを探したが、高級ホテルしか見当たらず財布の残金で泊まれそうもない。カラオケボックスからコスプレ大学生の集団が「ちぇっ、満室かよ」と愚痴を吐きながら出てきた。ネットカフェも見当たらない。霜月とはよく言ったもので十一月の風が冷たくて凍えそうだ。駅の反対側に行くために、歩道橋を越えたところ下り階段で足がもつれて転んだ。そのまま滑り落ちた。ストッキングが破れて伝線して、血が出た。踏んだり蹴ったりだ。惨めだった。死にたくなった。 この世界から消えてしまいたかった。満月には少し足りない月が私を嘲笑った。

「お嬢さん、大丈夫ですか?」

 あの人に似た低く穏やかな声がして顔を上げると、狼男のコスプレをした青年が跪いていた。青年は高級そうなネクタイをほどくと、私に差し出した。

「血が出ている。これで止血してください」

「いえ、こんな高そうなネクタイ申し訳ないです」

「困っている女性を見て見ぬふりするのは騎士道精神に反します。このままだとコウモリや吸血鬼が近寄ってきて危険ですから。だからといって、淑女の体に触れるわけにはいきませんので、男を立てると思って受け取っていただけませんか?」

「ありがとうございます」

 彼は渋谷や新宿ならともかく、終電から三十分も経った大崎でコスプレをしているとは思えないほどに紳士的だった。私は彼の厚意をありがたく受け取った。

 立ち上がると、近くにJRではない駅が見えた。電気が明々とついている。構内放送のようなものもかろうじて聞こえる。いったんそこに向かうことにした。彼も駅へと向かっているようだ。それにしても、寒い。震えが止まらなかった。

「ハロウィンの夜に可憐な格好をしていては、妖にさらわれてしまいますよ」

 彼はジャケットを脱ぐと、私の肩に羽織らせた。厚手のジャケットでとても暖かかった。香水か何かの良い香りが心地よかった。しかし、ここまで来ると新手のナンパかと疑ってしまう。全てを忘れてしまいたいとはいえ、出会ったばかりの男と一夜をともにするほど奔放にはなれなかった。

「ありがとうございます。駅に着いたら、ちゃんと返します。ネクタイは弁償します」

「私が好きでしていることですから、お気になさらずに」

 狼のマスクを被っているので顔は分からないが、口調は落ち着いていて年上なのだろうと思った。妖だとか騎士道だとか言わなければ、あるいはここが誰もがコスプレをしている渋谷駅のスクランブル交差点であるならば彼を胡散臭いと思うことはなかっただろう。

 駅に着いたので、改札でマイク越しに駅員に最寄り駅を伝え、なるべくそこに近い駅に向かう電車はまだあるかと尋ねると一番線の急行で終点まで行くように言われた。

「私は一番線に向かいます。ジャケットは差し上げますのでお気をつけて。冬の夜は寒さが厳しいですから」

「私も、一番線です。さすがに、いただくわけにはいきません」

 私たちは一番線へと歩いた。彼は私に見返りを求めているようには見えなかった。私が余りにも惨めだったから施しのつもりなのだろうか。ただの善意を邪推する暗い自分と、ハロウィンを楽しむ底抜けに明るい彼。この駅を行き交う人々は一人残らずのっぺらぼうや妖狐などのコスプレをしていた。いつの間にか東京のハロウィンは渋谷以外でも大規模な物になっていたのだろうか。地味な格好をしている自分が逆に浮いているような気がしていたたまれなくなった。

「みっともない姿を見せてしまってすみません」

「そんなことはありませんよ。ただ、一目で人間と分かる格好をしていては妖に食べられてしまいますから、よろしければこれを」

 彼は、仮面舞踏会でつけるような仮面を私に差し出した。キャラ作りは彼なりのユーモアなのかもしれない。泣き腫らした目を隠せるのはありがたかったので仮面をつけた。

 電車に乗り込むと、彼は私に尋ねた。

「何か辛いことがあったのでしょう?私で良ければ力になれませんか?」

 これはさすがに踏み込みすぎではないかと思った。

「何でもないです」

「お嬢さんは信じてくださらないかもしれませんが、あの駅が見えるのは、この電車に乗ることが出来るのは人間界に絶望した人間だけなのです」

「は?」