ハロウィンの起源を教えてくれたのは博学なあの人だった。悪い精霊や魔物から身を守るために、魔女の仮装をしたり仮面を被ったりするケルト人の風習だという。あの人が私を捨てたのは奇しくも十月三十一日の夕方だった。

 人より少し遅い十八歳の初恋はいつか永遠の誓いになると信じていた。大学進学を機に上京して出逢ったあの人と私は恋人になった。あの人と出逢ってバラ色に染まったはずの私の世界が今日枯れた。

 私に別れを告げた後、呆然と立ち尽くす私を放ってあの人は立ち去った。ぐちゃぐちゃな心のまま、帰らなきゃと山手線に乗り込んだ。環状線が何周しても座席から立ち上がれない。思い出すのはあの人との思い出ばかり。俯けば右手の薬指につけた十九歳の誕生日にもらったシルバーリングが視界に入った。

 少し年上のあの人は教養があり、物を知らない私に色々なことを教えてくれた。テーマパークでもピクニックでも、どこでデートをしてもあの人のおかげで世界が広がった。ただ、あの人は自分自身のことを教えてはくれなかった。私は今日まであの人のことを何も知らなかった。

 あの人は家族の話をしなかった。今日初めて、あの人が名家の出身だと知った。父親の会社の取引先の社長令嬢とお見合いし婚約するので、関係を清算したいと言われた。世間知らずで馬鹿な私は駆け落ちしようと言った。あの人のために全てを捨てる覚悟はあった。

「最初から住む世界が違ったんだよ」

 あの人の最後の言葉を反芻する。遊びのつもりだったのか、恋愛と結婚は別だと考えていたのかは分からない。私の初恋が崩れ落ちる音が今も耳の中で鳴り止まない。

「お客さん、この電車車庫に入りますよ」

 駅員に声をかけられ、よろよろと電車を降りた。気づけば私は山手線を何周もしていて、駅の時計は深夜一時になろうとしていた。悪いことは重なるもので、スマホのバッテリーは切れていた。涙で霞んだ視界でも、かろうじて「大崎駅」の文字が見えた。

 タクシーは拾えそうもないし、拾えたとしても家は渋谷方面だ。ハロウィンの歩行者天国で通行止めになっている区間も多いので、帰るのは現実的ではない。どこか泊まれそうなところを探したが、高級ホテルしか見当たらず財布の残金で泊まれそうもない。カラオケボックスからコスプレ大学生の集団が「ちぇっ、満室かよ」と愚痴を吐きながら出てきた。ネットカフェも見当たらない。霜月とはよく言ったもので十一月の風が冷たくて凍えそうだ。駅の反対側に行くために、歩道橋を越えたところ下り階段で足がもつれて転んだ。そのまま滑り落ちた。ストッキングが破れて伝線して、血が出た。踏んだり蹴ったりだ。惨めだった。死にたくなった。 この世界から消えてしまいたかった。満月には少し足りない月が私を嘲笑った。

「お嬢さん、大丈夫ですか?」

 あの人に似た低く穏やかな声がして顔を上げると、狼男のコスプレをした青年が跪いていた。青年は高級そうなネクタイをほどくと、私に差し出した。

「血が出ている。これで止血してください」

「いえ、こんな高そうなネクタイ申し訳ないです」

「困っている女性を見て見ぬふりするのは騎士道精神に反します。このままだとコウモリや吸血鬼が近寄ってきて危険ですから。だからといって、淑女の体に触れるわけにはいきませんので、男を立てると思って受け取っていただけませんか?」

「ありがとうございます」

 彼は渋谷や新宿ならともかく、終電から三十分も経った大崎でコスプレをしているとは思えないほどに紳士的だった。私は彼の厚意をありがたく受け取った。

 立ち上がると、近くにJRではない駅が見えた。電気が明々とついている。構内放送のようなものもかろうじて聞こえる。いったんそこに向かうことにした。彼も駅へと向かっているようだ。それにしても、寒い。震えが止まらなかった。

「ハロウィンの夜に可憐な格好をしていては、妖にさらわれてしまいますよ」

 彼はジャケットを脱ぐと、私の肩に羽織らせた。厚手のジャケットでとても暖かかった。香水か何かの良い香りが心地よかった。しかし、ここまで来ると新手のナンパかと疑ってしまう。全てを忘れてしまいたいとはいえ、出会ったばかりの男と一夜をともにするほど奔放にはなれなかった。

「ありがとうございます。駅に着いたら、ちゃんと返します。ネクタイは弁償します」

「私が好きでしていることですから、お気になさらずに」

 狼のマスクを被っているので顔は分からないが、口調は落ち着いていて年上なのだろうと思った。妖だとか騎士道だとか言わなければ、あるいはここが誰もがコスプレをしている渋谷駅のスクランブル交差点であるならば彼を胡散臭いと思うことはなかっただろう。

 駅に着いたので、改札でマイク越しに駅員に最寄り駅を伝え、なるべくそこに近い駅に向かう電車はまだあるかと尋ねると一番線の急行で終点まで行くように言われた。

「私は一番線に向かいます。ジャケットは差し上げますのでお気をつけて。冬の夜は寒さが厳しいですから」

「私も、一番線です。さすがに、いただくわけにはいきません」

 私たちは一番線へと歩いた。彼は私に見返りを求めているようには見えなかった。私が余りにも惨めだったから施しのつもりなのだろうか。ただの善意を邪推する暗い自分と、ハロウィンを楽しむ底抜けに明るい彼。この駅を行き交う人々は一人残らずのっぺらぼうや妖狐などのコスプレをしていた。いつの間にか東京のハロウィンは渋谷以外でも大規模な物になっていたのだろうか。地味な格好をしている自分が逆に浮いているような気がしていたたまれなくなった。

「みっともない姿を見せてしまってすみません」

「そんなことはありませんよ。ただ、一目で人間と分かる格好をしていては妖に食べられてしまいますから、よろしければこれを」

 彼は、仮面舞踏会でつけるような仮面を私に差し出した。キャラ作りは彼なりのユーモアなのかもしれない。泣き腫らした目を隠せるのはありがたかったので仮面をつけた。

 電車に乗り込むと、彼は私に尋ねた。

「何か辛いことがあったのでしょう?私で良ければ力になれませんか?」

 これはさすがに踏み込みすぎではないかと思った。

「何でもないです」

「お嬢さんは信じてくださらないかもしれませんが、あの駅が見えるのは、この電車に乗ることが出来るのは人間界に絶望した人間だけなのです」

「は?」
 大真面目な口調で訳の分からないことを語り出した。妖界から人間界への列車は満月の夜に出ている。人間界から妖界への臨時列車は、年に一度の豊穣祭すなわちハロウィンの夜にだけ出ている。妖達はあまり長居すると西洋で魔女狩りや人狼狩りに遭った歴史があるので二番線の予約制日帰り往復列車を使ってハロウィンの夜にだけ人間界に遊びに来る。そして、その窓口となる駅は普通の人間には見えなくて、希死念慮のある人間にだけ見える。妖の駅員は人間を一番線に案内している。とんだ作り話をいかにも真実というように語った。

「からかってるんですか?」

 私には彼が少し不気味に感じた。ちょうど電車が終点に着いたのでジャケットを突き返して、電車を降りると駅には人がごった返していた。皆コスプレをしているように見えた。空を見上げると、箒に乗った魔女やドラゴンが飛んでいた。月はあり得ないほどの深紅で、まるで血の色のようだった。まさか、彼の言っていることは本当だったのだろうか。

「驚かせてすみません。信じてくださいましたか?」

 彼がジャケットを私の肩にかけながら言った。彼の言っていたことが本当ならば、私は妖に食べられてしまうのだろうか。

「大丈夫です。落ち着いて。貴女は私が守ります。近くに私の家があるので、そこで貴女を匿います。神に誓って、私は貴女を食べませんし、襲いません。家には信頼の置ける侍女がいるので、安心してください」

 私には、このまま電車に飛び乗って帰るという選択肢もあった。でも、あの人が私ではない誰かと生きていく人間界に帰りたくなかった。
あの人への執着心は自分でも異常だと分かっている。元の世界に帰れば私はきっととんでもないことをしでかしてしまう。その矛先が私自身に向くか、あの人に向くかは分からない。いずれにせよ、私は私の執着が怖い。

 そして、なぜか人狼の彼の声はすっと耳に入ってきて、彼を信じたいと思った。

 彼の影に隠れるように、駅を出て歩いて行くと豪邸が見えた。庭には綺麗な紫色の花たちが咲き乱れていた。

 豪邸では多くの使用人が彼を出迎えた。高貴な身分の狼男であることが一目瞭然だった。彼は、私の衣服と部屋を準備するように使用人に命じた。

 準備が出来るのを一階の応接間で彼と二人待った。窓の鍵は開いており、私が怖いと感じたらいつでも逃げて良いと言われた。

「ですが、私は貴女をお守りしたいのです。申し遅れました。私の名はギルバート。名も知らぬ男に、命は預けられないでしょう」

「美砂です」

「ミサ、麗しい名ですね。素敵な貴女にふさわしい名だ」

「そんなことないですよ……私、恋人に捨てられたんです。だから、素敵なんかじゃないです」

「それは信じ難いですね」

「あはは、馬鹿ですよね。そんなことで、死にたくなるなんて馬鹿げてますよね。ごめんなさい、迷惑かけて。次の満月の列車でちゃんと帰りますので」

「愚かなのはその男でしょう。見る目がない男には虫唾が走りますね」

 強い口調で、ギルバートは言った。

「狼の嗅覚は、美しい魂を嗅ぎ分けられるのですよ。貴女は美しい。貴女の魂は美しい花の香りがします」

「そう言っていただけるのは嬉しいんですけど、私は選ばれなかったんですよ。彼は悪くないんです。私が、女の子としては落第点だったんです」

 あの人を思い出して涙がこぼれた。

「いいえ、貴女は魅力的な女性です」

 慰めるように優しく、でもはっきりとした声でギルバートは私の言葉を否定した。

「貴女を一目見た瞬間、恋に落ちたのです。私は貴女をお慕いしております」

 ギルバートは跪くと私の手の甲にキスをした。戸惑っている私に対して、彼はさらに言葉を重ねる。

「申し訳ない。困らせてしまいませしたね。早急な返事は望みません。代わりに、お願いを二つ聞いていただけますか?」

 彼と二つ約束をした。一つは、彼が渡した食べ物以外は口にしないこと。もう一つは、この世界に咲く花に決して触れないこと。
 翌朝、私は朝ご飯として、ザクロの果実とライ麦パンをごちそうになった。この世界の蜂蜜は人間の体には良くない物だと言われたので、パンは何もつけずに食べた。

 朝食後、妖界を案内すると言われた。私は仮面をつけ、フードを目深に被った。変装をする必要のないはずのギルバートも同じようにフードを被り仮面をつけ、さすらいの旅人のような格好をしていた。

「おしのびデートというのも粋でしょう?」

 悪戯っぽくギルバートは笑った。

 紳士的な狼男にエスコートされて、私は街へ繰り出した。どこか日本的な街並みにも見える。豊穣祭の余韻が残る街ではジャック・オー・ランタンが並んでいる。その一つ一つには精霊が宿っているらしく、歌い出したり、踊り出したりと、昼間だというのにとても賑やかだ。時折空は暗くなったと思いきや、一面のオーロラが現れてとても幻想的だった。

 縁日のように小さな屋台が立ち並んでいる。魔法のステッキを使ったヨーヨー釣りに似たゲームを楽しんだ。小さな子どもだった頃に思い描いた御伽噺の世界そのものだった。

「今日は満月ですから、この世界の多くの住民にとって一番妖力が満ちている日なのですよ」

 ギルバートが教えてくれた。人狼をはじめとするこの世界の住民の体に流れる妖力は常に一定ではないらしい。確かに、狼男は満月に力を解放するイメージがある。

「ですから、普段は使えないような妖術を使える者も多く、今日は豊穣祭が一番盛り上がる日なのです」

「ギルバート様も妖術が使えるのですか?」

「ええ。後でミサにもお見せいたします」

 崖の上から、王都を一望する。中心には見たこともないほど立派な城が高くそびえ立ち、壮大な城壁に囲まれていた。

 海外旅行に行くと価値観が変わると言うけれど、私の人生観全てをひっくり返すほどの刺激で溢れていた。あの人とデートしたテーマパークの虚構の煌めきは、この世界においては真実だった。あの人と出かけたピクニックよりも、周りの景色は表情豊かだった。あの人を失った酸っぱいブドウ状態の錯覚かもしれないけれど、失恋をしても下ばかり見ていてはもったいないと思えた。

「ミサ、楽しんでいただけましたか?」

 人間界にはない不思議な弦楽器を奏でながら、ギルバートが私に問いかける。それは琵琶にも琴にも似ていた。心が洗われるような音色だった。

「ええ、とても。豊穣祭は何日も行われる物なのですか?」

「ああ、それには複雑な理由があるのですよ。お恥ずかしい話ですが……」

 演奏をやめて、真面目な顔をしてギルバートが話し始めた。妖界にはヒエラルキーがある。人狼はその頂点である。私のような余所者が喰い殺されたり、混血の妖が迫害されたりすることは日常茶飯事らしい。特に、妖界に迷い込んだ東洋人は同胞であるニホンオオカミを滅ぼした恨みとばかりに人狼に惨殺されることもあるそうだ。

 昨日の豊穣祭本番は、妖界の住民達が人狼をもてなすものだった。人狼のための祝祭は面白くないと妖達は人間界に遊びに行く。言われてみれば、あの駅にいた狼男はギルバートだけだった。

「けれども、私は平等な世界を作りたいのです。人も妖も皆、神のもとに幸せになるために生まれてきたのですから」

 豊穣祭の打ち上げとして行われる庶民の祭りには活気があった。人狼のためでなく、自分たちが楽しむために行うお祭りで羽を伸ばしていたのだろう。ギルバートは全ての妖達の笑顔を守りたいと願っている。仮面をつけて人狼と悟られないようにしたのは、民衆への配慮だった。

 私には、狼男の美醜は分からない。けれども、私はギルバートの魂を今まで出会ったどんな人よりも美しいと思った。昇り始めた満月が、ギルバートのたてがみを照らした。

「ミサ、あなたは昨日、次の満月の列車で帰るとおっしゃいましたね。どうやら今年の月は、意地悪なようだ。今夜の列車で帰ってしまうのですか?」

 昨日の月がほぼ満月だったことを思い出す。まさか、昨日の今日で帰ることになるとは。今の話を聞く限り、妖界は危険だ。早く帰らなくてはいけない。でも、少しだけ名残惜しい。

「一度だけ、ご無礼をお許しください」

 ギルバートは私を後ろから抱きしめた。

「ミサを愛しています。どうか、あと一月だけ、次の満月まで貴女を守る騎士でいさせていただけませんか?」

 不覚にもドキドキしてしまった。私は優しいギルバートに惹かれていた。もちろん長年付き合った彼氏と別れたばかりで、すぐにギルバートの恋人になる気にはなれない。ただ、1度人間界に戻ってしまえば、二度とギルバートとは会えなくなってしまうかもしれない。私はもう少しだけギルバートと一緒にいたいと思った。

「ではもう一月だけ、ギルバート様のお世話になってもよろしいですか?」

「喜んで」

 ギルバートが微笑む。

「先ほど、私の妖力をお見せすると言ったのを覚えていますか?」

 私は頷いて答える。

「では」

 ギルバートが深呼吸すると、その場から音が消えた。

「騎花繚乱」

 ギルバートが鋭い爪のある手を荒れた地面にかざすと、地表が光った。次々と新芽が芽吹き、一帯が緑色になったかと思えば、蕾が花開いていき、放射状に紫色が広がっていく。ギルバートの庭園の花と同じ花だった。

「綺麗……!」

 これがギルバートの力。人狼は身体能力の凄さゆえ階級が高いのかと思ったが、その認識を改めた。明らかに強い妖力を彼から感じる。

「人狼の方は皆、花の妖術が使えるのですか?」

「いいえ、その者によって使える妖術は異なりますよ。水や炎を操る者もいれば、身体能力を強化する者もおります。妖力の系統は生まれた時に神様に決めていただくのですが、鍛錬によって妖力量を底上げすることはできます。しかし、不思議だ。今日は今までで一番たくさんの花を咲かせることができました。きっと貴女が隣にいるからですね」

 花を愛でる聖騎士。誰よりこの世界を愛する人狼は美しい能力とともに生まれた。彼は生まれながらにして、他者を傷つける術ではなく荒野に花を咲かせる道を選んだ優しい人狼だ。この花に触れられないことが少し残念に感じられた。

 私はギルバートが見せてくれたこの景色を、人間界に帰っても決して忘れないと思う。
 次の日からもギルバートは毎日私に愛を囁き続けた。強引に迫ったりはしないけれど、私の心は少しずつ揺れてきた。しかし、どうしてもブレーキが掛かってしまう。

「ギルバート様は高貴な方なのでしょう?私のような余所者と恋をすることは許されるのですか?」

 元恋人は何度も私に愛していると言ったが、最後は「住む世界が違う」と私を捨てた。結局私はその言葉にとらわれている。この傷はきっと生涯消えることはない。

 人間同士の間にすら永遠の愛などなかったのだから、文字通り違う世界の住人である私たちが結ばれる未来などあるわけがないと思った。

「ミサをもう一度抱きしめられるのならば、私は他に何もいりません。たとえ許されなくとも貴女を愛します」

 彼の目は決意に満ちていた。


 ある朝起きると、メイドの一人が部屋を出ないように言った。

「国王陛下がいらしているのですよ」

 国王が直々に彼の家を訪問するとは、ギルバートは想像以上に位の高い騎士なのだろう。その事実に、また驚いた。

 彼女は私に、国王の権威がどれほど強いか教えてくれた。王権神授説に基づく国王の権力は、何人も逆らうことが出来ない。王の命令は絶対であり、法そのものである。妖界の住人は信仰心が強いらしい。

 この国には古来より決闘の文化があり、その結果は絶対である。決闘は神が勝敗を決めるものだとされているかららしい。

 決闘は新月の夜に行うとこの国の法で定められている。前王朝の時代は、満月の夜に行われるのが慣習で、「フルムーン・デュエル」と呼ばれていたらしい。しかし、前王朝の末期にその慣習に逆らい、新月の夜に時の国王に決闘を挑んだ人狼がいた。この出来事は「ダークムーン・デュエル」と呼ばれ、歴史の転換点となる。

 ダークムーン・デュエルにおいて、国王を倒し新たな君主となったのが、現王朝の初代国王だという。以来、決闘は新月の夜に行われるようになり、「ダークムーン・デュエル」は固有名詞となり、現王朝において行われる決闘は「新月決闘」と呼ばれるようになった。

 現王朝は徹底した血統主義であり、国王は世襲制らしい。典型的な中央集権国家で、いわば国王は司法・立法・行政のすべてを司っているのである。
現国王は史上最も力強い狼男だという。代々なかなかの暴君ばかりだが、現国王はその中でも特に好戦的らしい。

 そして、彼女は衝撃の言葉を口にする。

「ギルバート様が国王になられたら、この国はもっと良くなるでしょうね」

 ギルバートは王子様だったのだ。一周するだけで一日かかりそうなこの豪邸でさえ、彼の別荘に過ぎない。あの日見た巨大な城が、彼が本当にいるべき場所だった。選民思想の塊である国王と博愛主義者のギルバートは折り合いが悪く、城は彼にとって居心地が悪いらしい。洗練された所作も、この国を変えたいという願いも、全て正真正銘の王族たるゆえんだった。

「すみません、父は今帰りました」

 何事もなかったかのように、ギルバートは私の部屋を訪れる。

「ギルバート様は、騎士ではなかったのですね」

「ええ、この国の第一王子です」

「なんで、王子様が騎士道なんて……」

 これでは、私は王子を跪かせ誑かすとんでもない悪女ではないか。不敬罪で首をはねられてもおかしくない。

「騎士の上に立つ者が騎士道を理解していなければ示しがつかないでしょう?それに、国王とは神に仕える騎士のようなものですから」

 ノブレス・オブリージュを体現する王子は気高かった。

「王様は、世継ぎが必要でしょう」

 私は声を絞った。私の言わんとしていることが分かったのか、諭すようにギルバートが答える。

「ミサ、私が国王として即位するときは馬鹿げた血統主義を廃止します。誰にも貴女を傷つけさせはしない。人間の王妃に誰にも文句は言わせない」

 私にはなぜ彼がここまで私に執着するのかが分からない。私は人間で、彼は人狼なのに。

「私なんかのどこがいいんですか?私なんかに国をひっくり返すだけの価値があるなんて思えません」

「貴女は私の運命の人です。それでは不十分ですか?」

 ギルバートは真剣な瞳で、私の手を取った。

「確かに今の私には王子といえども、国王に抗う権力はありません。ならば代わりに命を賭します。命に代えてでも、貴女だけはお守りします」

「それは、国家への裏切りにあたらないのですか」

「貴女のためなら神にでも背いてみせましょう」

 真っ直ぐな眼光に嘘偽りはないのだろう。彼の手を素直に握り返せたらどんなに良いかと思った。でも、私にはその勇気が無かった。

「でも、貴女を愛することが罪であるとは到底思えない。神は私たちを祝福してくださると信じています。貴女に出逢って私は運命という言葉の意味を知りました」

 私を安心させるような優しい口調で言うと、私の頬を撫でた。

 何度ギルバートの告白を拒んでも、彼は変わらず優しい。変わらず、幻想的でキラキラした夢を見せてくれる。

 私を守るために、彼は常に剣を持ち歩く。銀の剣だ。人狼の弱点が銀だという伝承は本当のようだ。他の人狼に襲われたときに確実に私を守るためのものだと彼は言った。

 人狼の居住地域を歩くときは、ギルバートは変装をしない。他の妖に比べれば人狼は位が高いが、人狼にも平民と貴族がいる。平民街の広場にはギルバートの家の庭の花と同じ花が咲いていた。花に囲まれて人狼の子ども達が遊んでいた。

「王子様だあ!」

 私たちに気づくと、人狼の子ども達が、ギルバートを歓迎した。彼は民に愛され、慕われる王子らしい。

「一緒にいるのは、お姫様?王子様はそのお姉さんと結婚するの?」

「さあ、どうだろうね?そうだったら素敵だね」

 ギルバートは少年の頭を優しく撫でた。その瞳は慈愛に満ちていた。彼は子どもを、国民を心から愛しているのだと伝わってきた。

 少女達は、花で髪飾りや首飾りを作ったり、花の蜜を吸ったりしていた。田舎の通学路で花の蜜を吸っていた遠い昔を思い出した。少女達はギルバートに次々と手作りの花飾りを渡していった。

「ねえ、王子様。あれやってよ、流れ星みたいにお花バーッてやつ!」

「明日になったらね」

「本当?やったー!」

 少女がお願いすると、ギルバートはその子を抱き上げた。流れ星みたいに、という言葉が気になった。彼は私に見せてくれた妖術の他にも花を操れるのだろうか?

「騎花繚乱とは別の妖術ですか?」

「ミサにはまだ話していませんでしたね。我々王族は……」

 ギルバートが話し出すと、別の少女が私たちの方へ駆け寄ってきた。

「お姉ちゃんにもあげる、美味しいんだよ」

 無邪気な顔をした少女が、昔を懐かしんでいた私の唇に花を押し当てる。

 その瞬間、全身に激痛が走った。心臓を悪魔に鷲掴みにされたような苦しさが襲い、息が出来なくなった。「死」を五感に刻みつけられるような感覚に襲われた。

 突如、ギルバートが刀を抜くと、即座に自分自身の左肩から胸を袈裟斬りした。噴水のような血飛沫を目にしながら、ギルバートの声に耳を傾ける。声は確かに聞こえるけれど、その音を文字に変換できないまま私は意識を手放した。

 夢の中で、私はギルバートにキスをされた。鋭い牙を持った狼男とは思えない優しいキスだった。

「ミサ、どうか生きて。どうか目を覚まして」

「ギルバート様、泣いていられるのですか?」

「貴女を失ったら、私は生きていけない。愛しています」

「ギルバート様、私も貴方を……」

 私は何と言おうとしたのだろう。
 あの紫の花と同じ香りで目が覚めると、ギルバートの家のベッドの上で、ギルバートが私を見守っていた。倒れる前よりも視界がくっきりしているような気がする。右手に火傷をしたような痛みがある以外は体に異常は無い。ギルバートはほっとしたように息をつくと、何があったのかを説明し始めた。

 少女が私の唇に押し当てた花は人間界のトリカブトにあたる花らしい。人間界のトリカブトは晩夏から初秋にかけて咲くが、妖界では年中咲き乱れている。トリカブトには猛毒がある。人間界ではかつて中世で銀食器に反応しないからと暗殺に使用されていたような代物だ。

 そして、妖界に咲く花の毒は人間界のトリカブトの毒よりも濃縮されて即効性のあるものだ。解毒剤はない。

 しかし人狼はトリカブトの毒に対して耐性がある。人狼の血は血清のようなものだ。人狼の血を大量に摂取すれば、解毒剤の代わりとなるらしい。

 中毒症状を起こした私を目にしたギルバートは反射的に自らを斬りつけ、大量の血を流した。彼が服をはだけると、包帯の上からでも分かるくらいに深い傷が切り刻まれていた。

「私のためにそんなに危険なことをしたのですか」

「この剣は純銀ではありませんから、相当深く斬らない限り死には至りませんよ」

 ギルバートは微笑みながら私の髪を撫でた。嘘。どう見ても、相当深く斬っているくせに。

「私を心配してくださったのですか?困りますね。ますますミサが愛おしくなってしまいます」

 強い眼光で見つめられると、赤面してしまう。

「顔が赤い。熱があるのですか?人狼の血を受け入れて体質が変わったのだから、ゆっくり休んだ方が良い」

 ギルバートが私を労る。血清には副作用があるらしい。私も半分ほど人狼の体質になったと言える。今後私はトリカブトの毒で死ぬことはなくなり、五感が強くなった代わりに、私の体は銀を受け付けなくなった。右手をふと見ると、あの人にもらったシルバーリングが外れていて、薬指の付け根にその形にくっきりと火傷のような跡があった。銀に対してアレルギーに近い反応が出ているらしい。

「大切な物なのでしょう?ですから、銀を身につけられなくなるこのような方法はあまりとりたくなかったのですが、背に腹は代えられませんから。これ、ここに置いておきますね」

 執着の象徴だった指輪はケースに入れられていた。けれども、もうこの指輪に未練が残っていない自分に気がついた。きっと私は、誰かにこの指輪を外してほしかった。

 ギルバートの手に視線を移すと、彼の指先にも包帯が巻かれていた。きっと指の炎症に気づいた彼が私の指輪を外してくれたのだ。人間の私より、遥かに銀に対しての拒否反応が強いはずのギルバートが、鋭い爪で私を傷つけることなく丁寧に指輪を外してくれたのだろう。

 私の体が火照っているのは決して副作用などではない。ギルバートの顔が直視できない。

「ギルバート様にキスされる夢を見ました」

 言う必要があったかは分からない。けれども、なぜだか告白してしまった。

「申し訳ない。貴女の息を吹き返すために、無我夢中でした」

 人工呼吸をしたのか、血を口移しで飲ませたのかは定かではないが、救命行為の一環で私にキスをしたことをギルバートは詫びた。命の恩人であることを差し引いても、私はそれを嫌だとは感じなかった。

「助けてくれてありがとうございます、ギルバート様」