​───────次に気がついたのは、それから随分あとのことである。

「・・・・・・!?」

ぱちり。
瞼を開けば、目前には本棚が。
いつの間にか眠ってしまったのか、床に倒れていた。
体を勢いよく起こしてから、頭の痛みを感じ顔をしかめる。

「今、何時・・・・・・!?」

室内は異様な暗さで、カーテンが半分ほど空いている窓からは月明かりが差し込んでいる。
まさか本を読みながら眠ってしまい、そのうえ何時間も床に寝そべっていたなんて信じられない。
それも、『異端傀儡呪詛録』などという年頃の少女にはあまりにも相応しくない本を読みながら、だ。

「こんな失敗をしてしまうなんて・・・・・・。恥ずかしいです、修一郎さんがいない日でよかったぁ」

雛子は足を止めた。

何かいる。

良くないものが、すぐそこにいる。

「・・・・・・っ!」

携帯していた護符を取り出そうとした瞬間のことだった。

雛子の肢体は硬直し、動けなくなる。

見えない糸に体を絡め取られるような感覚だった。
糸は雛子の手足をきつく締め付けて、一歩たりとも動かさせない。
このような術を雛子は知っているが、これは怪異相手に使うものであって、間違っても人を拘束するような用法は禁止されていたはずだろう。

(どうしよう、動かない!)

体を封じたのなら、あとは心臓をひとひねりでもしてしまえば、雛子ごときの弱い娘など簡単に殺せるだろう。
このままだと確実に死ぬ。
助けを呼ぼうにもこの明らかに異様な空間は結界が貼ってあり、扉の硝子の向こうは曇っていて何も見えない。
切り離されたのだろう。
雛子の声は届かないし、そもそもこんな時間にわざわざ西棟二階の最奥を通る人などいないので、異変に気づいてもらえることもない。
一体誰がどんな目的で術を雛子に使ったのか、皆目見当もつかないが、雛子に危害を加えようという意思だけは分かる。

(誰から・・・・・・!誰か、助けて!)

宵闇に包まれた静かな書庫。
首元を、冷たい何かが這いずる感触がする。

一体誰が。
何の目的で。
機関内で術を人に使うのか。
そしてそれが、なぜ雛子なのか。

たくさんの疑問が浮かんでは、声にならない悲鳴になって消えていく。
だんだん呼吸も荒くなり、震えも止まらない。

ああ、もうだめだ。

せめて最後に、彼の声が聞けたのなら。

無能な己を呪いながら、雛子が目を閉じて思い浮かべた相手は、修一郎だった。

「・・・・・・修一郎、さん、っ」

苦しみながら名前を呼んだ、その時。

「​───────雛子」

硝子の碎けるような音が聞こえた。
都合のいい夢を見ているのかと、そう思った。
ふわりと体を優しく抱きとめられて、全身の力が抜けていく。
すぅっ、と胸の苦しみが消えていって、呼吸が楽になる。
知っている声、香り、顔。
けれど、その姿は人ではなかった。

瞳は柘榴のように赤く、尖った爪に頭には角が生えている。
口元からは鋭い牙が覗いていた。

同じ衣装に、同じ顔。
けれど、それは明らかに人と言うよりと鬼で・・・・・・。

「雛子」

もう一度名前を呼ばれる。
心配そうな表情で、雛子の頬に手を当てた。
以前もこんなことがあった気がするが、その時とは違い、雛子の体を支える修一郎の手には熱があった。

「修一郎さん・・・・・・」

修一郎の腕の中にいたいのに、その一方では彼に恐れを感じている。
一体この姿はなんだというのだ。
まさか本当に、書庫には夜叉がいたと・・・・・・。

「・・・・・・っ!」

混乱する雛子に、修一郎はなんの前触れもなく、口づけをした。
唇に触れた柔らかな感触と熱は、雛子が初めて知るものだった。
至近距離で見つめられて、その赤に魅入られてしまう。
驚く雛子を置き去りに、ゆっくりと修一郎の唇が離れていく。
その時、修一郎が耳元で囁いた言葉を聞いて、雛子は戦慄した。

『愛しい・・・・・・愛しい雛子』

この言葉を、雛子は夢で毎晩聞いている。
何度も何度も、気が狂いそうなぐらいに同じことを言われ続けてきたはずなのに、どうしていつも目覚めるも忘れてしまうのだろうか。

「どう、して・・・・・・」

毎晩雛子の夢で会いに来る男は、彼だ。
この鬼の姿をした修一郎こそが、雛子の名を呼び愛を囁く人の素顔だった。

「そうだな、少し休むといい」

「あ、っ・・・・・・」

修一郎がそっと雛子の目元に手をかざすと、それだけで雛子の意識はすっと遠のいていった。
最後に見た修一郎は、鬼だというのに、いつもと何ら変わりない優しい表情をしていた。