菊臣の優しさは恐ろしかった。菊臣はあやかしを大切に思っている。そんな隙だらけの、母に似た、そんな優しい人間に、あれらと接させるわけにはいかない。

 菊臣の知らないあやかしの下劣さ、卑小さを説いた言葉を、藍が聞いた。取り乱した彼女を、一度は逃げながらなんとか落ち着けたが、自分にとっての藍が実際にはどんな存在なのか、わからなくなった。

俺はあれを利用しているだけなのではないか、俺にとってあの子は、父に抗うための道具でしかないのではないか。

止めどなく膨らむ想像に震えた。寒菊は、俺が藍に情愛の念を抱いているのではないかといった。それならいいのだが、それは誠であろうか。

 ゆっくり悩めばいいと寒菊はいったが、そういうわけにもいかなかった。寒菊が人間ではないという事実は、俺の全てを掻き乱した。寺の廻廊から落ちそうになったとき、腕を攫まれた。

初めはなにが起きたのかわからなかった。ただ、暑いのに寒気立つような、なんとも不可思議で恐ろしい感覚だけがあった。

そして自分の腕を攫む寒菊の手を見た瞬間、十年近く昔の一瞬の間に焼きついたものが蘇った。

 寒菊が、寒菊じゃない。母に感じていたものと同じものが叩き込まれたようにぞくぞくと全身を駆けた。

 「触るな」と、「化け物め」と叫ぶのが精一杯だった。胸の中で花火が上がっているようだった。殺される、と思った。

死ぬわけにはいかない。俺は寒菊がここを継ぐのを認めてしまった。どうせ父とも話はついているのだろう。

 ここで死んでは、これがここを継いでしまう。寒菊の皮を被った化け物が、この家を支配する。

菊臣はどうなる。もう十五だが、女気はまるでない。どこかに婿入りでもしてしまえればいいが、まだしばらくかかる。

 ここで死ぬわけにはいかない。菊臣を守らねばならない。俺は長男だ。菊臣の、兄だ。弟を守れぬ男なんざ兄ではない。

 殺さねばならない。この化け物を始末せねばならない。これが死ぬときに自分も死ぬのだとしても構わない。

それはこの世の全ての化け物を伐ちたかったが、家内に一つ残したままくたばることだけは避けねばならない。

 それはなにやら俺の前に蹲った。「申し訳ございません」という声がいやに癪に障った。紛い物が寒菊の声を発するな。化け物が、兄の声で喋るな。

 「藍」と名を叫べば、腕を指を伸ばした左手に合わせて降ってきた。鞘を握り、すぐに抜刀した。「存分に」というそれに切先を向ける。

 寒菊はどこだ。兄上をどこにやった。あの善人を、どうした。

 黙ったままのそれの肩に刀身を突き刺した。二度、三度と突き刺した。ここで、殺さねばならない。

 しかし、一助に動きを封じられた。彼は、この足元に蹲った化け物が寒菊なのだといった。俺の、三年間共に過ごしてきた兄なのだと。