食事の支度をしながら、母がいなくなってから宿から連れてきた人間が、「どうかなさいましたか」といった。哀しいほどの包容力を持った、やわらかな声だった。

 「……長男だからここを継がせないとは、どういう意味だと思う」

 「はい?」

 「父上は俺にそう仰った。俺は長男だから、ここを継がせない、菊臣に継がせると」

 「大旦那さまがそんなことを、」とその人間も驚いているようだった。

 振り下ろした包丁が野菜を切った。「俺は、絶対に菊臣には継がせない。俺がここを継ぐのだ。……なぜ、なぜ俺ではいけない。なぜ父上は、そんなにも俺を認めてくれない。どうしてそんなに、菊臣がいい」

 「藍一郎さま、」と肩に手を置かれ、それを振り払うように彼女の方を振り向いた。

「俺は認めない。絶対に、菊臣に継がせはしない。継がせてはならないのだ! 長男は俺だ、俺なんだよ。菊臣は俺の兄じゃない、弟なんだ」

 菊臣が継いだら、菊臣が危険な目に遭っているのを、俺はただ黙って見ていることしかできない。菊臣が化け物に襲われているというのに、俺にはなにもできない。

菊臣が殺されるのを、母のときと同じように、ただ震えて、一助の救いを待つことしかできない。たった一人の弟だ。こんなにも大切な者が化け物に襲われているのに、なにもできない。そんなにも苦しいことがあるだろうか。

 父は、俺にそれを強いるのだ。認めてなるものか。菊臣は死なせない、襲わせない。化け物を一つ残らず始末し、平和な世界へ菊臣を連れていく、送り出す。

俺はこの家の長男で、菊臣の兄だ。どんな危険を冒そうと、幾度死にかけようと、いや、自分が化け物になってでも、彼の安全を幸せを確保する。それが、この命の為すべきことだ。