母が母でないような感覚は、ある日突然強くなった。菊臣が父と二人で出かけたあとのことだった。それは確信とも呼びたくなるほどの恐怖だった。

 廁から戻ったとき、母が爨にいるのが見えた。その様子がおかしく感じ、「母上、」と声をかけたが、その母の服を着たものは反応を示さなかった。

 「母上、」ともう一度呼んでみると、「藍一郎、」と母の声が微かに聞こえた。

「ごめんね、」と聞こえた気がしてからは一瞬だった。気がつけば誰かに抱かれており、瞼の中に悍ましい化け物の姿がこびりついていた。

 「すまない」と男の声がして、自分が一助の体に顔を埋めているのに気がついた。

 「母上、」ともう一度いったとき、一助は俺の体に回した腕に力を籠めた。

 「一助、」と呼んだ声が震えた。「……なに、あれ……怖いの見えた、」

 「藍一郎。聞けるか」

 「一助……」

 「久菊の奥方は悪いものに憑かれていた」

 彼の声を聞いて、途端に体が震えた。なにもわからないまま、理解したことがあった。

 「我は、気配を感じていながらそれがどこから発せられているものかわからなかった」

 脣を開けば、抑えの効かない声が飛び出した。一助はただ、黙って俺の体をさすった。

 一助はずっと俺のそばにいた。あのほんの短い間に見た悪夢の蘇りに眠りを妨げられるたび、彼は俺に暗示をかけた。「大丈夫、大丈夫」と。それから決まって、「申し訳ない」といった。

 「一助が悪いんじゃない」

 それは理解していた。一助が母を殺したのではない。元凶は、あの一瞬のうちに脳裏に瞼にこびりついた、悍ましい化け物だ。

生きた人間に依存する、死にながら生者の世に縋りつく、醜い化け物。

 一助は、気配の出どころに気づけばすぐに駆けつけてくれた。それからもこうしてそばにいてくれる。

お前は悪くない。全て、母を襲った化け物が悪いのだ。肉体を持たない激情、執着。

 「もう少し寝る」というと、彼は「ああ」といって俺の腹の辺りを、ゆっくり優しく、指先で叩いた。

彼のいる方へ手を伸ばすと、もう一方の手でそれを握ってくれた。

優しさを纏った鬼の手はあたたかかった。尖った爪が肌に触れるのさえ、心地よかった。