部屋に戻ると、菊臣さんは怯えきっていた。自らの体を抱くように縮こまりながら震え、「ごめんなさい、」と涙声でいう。

 「菊臣さんの苦しむことではありませんよ」

 「……止め、られなかった、」

 「止める必要はありません。藍一郎さんが怒るのは当然ですよ。私には、お母さまを襲った同胞の血が流れているのです」

 私はちょっと笑って、両腕を軽く広げた。「だからこんなにぴんぴんしています」

 彼は思い出したようにぴくりとすると、「手当て、は」と震えるままの声でいった。

 「一助が治してくれました。もう痛みもなにもありません」

 「……なにが、あったのですか、」

 「鳥が飛んできたのです。藍一郎さんはそれを避けたのですが、足を踏み外したのでしょう、庭の方へ倒れそうだったので、思わず腕を攫んだのです」

 菊臣さんは苦しげに「そうですか」と頷いた。

 見詰めてきた彼の眼は縋るように濡れ、揺れていた。

 「しかし兄上、どうか負けないで下さい……。ここの主になれるのは、兄上しかおりません。僕では藍一郎兄さんを納得させられませんし、藍一郎兄さんにはやはり、とても魂たちを任せられません。

兄上だけが、寒菊兄さんだけが……魂たちを救えるのです。藍一郎兄さんだけは、主にしてはなりません。誰も幸せになれません。

藍一郎兄さんはあやかしへの怨恨を断ち切れず、僕もそんな兄の姿を見ているのは苦しいですし、そんな兄をここへ置いては結婚もできません、」

 ああ、私は藍一郎さんを酷く傷つけることになった。彼の中で、私は今や、母親を奪った悪霊となんら違わない存在だ。それに生家を奪われるなんていうのは、どれほどの苦しみであろうか。

 しかし、やはり私は、この兄弟の詛いを呪縛を解かねばならない。

 私は菊臣さんの痛々しく濡れた頬を手の甲で拭った。

 「大丈夫ですから。どうか泣かないで下さい」

 「藍一郎兄さんのあやかしへの情念はあまりの激しいものです、どうかこれまで以上に要心してかかって下さい」

 「大丈夫です。どうにかします」

 風呂に入るのに服を脱いで驚いた。右胸に花弁が水に流れているような痕があった。白抜きの藍色だ。その花弁は毎日のように見る、細長いものだった。先日、白や黄色のこれを浮かべた酒を飲んだ。

 藍色の菊——。

 自分の肩を振り返るようにしたが、そちらは到底見えなかった。

 俺たちが守ってやるんだよ、と藍さんに語っていた声が蘇る。

 ああ、どうして私は人間ではないのだろう。いっそいつか藍一郎さんのいったように、両親に捨てられた人間であったなら、私自身は淋しいとしても、彼を苦しめることはなかったろうに。