「触るな」と喚声が静寂を切り裂いた。秘め事が花火のように散るのが見えるようだった。

 藍一郎さんが全てを知ったのと同時に、私も現状を知った。

 「化け物め」という喚声を認めながら、私は彼の前に座る。廊下に両手を置き、そこに額をつけるようにした。

 「申し訳ございません——」

 「喋るな」と激しい声が落ちてきた。

 「化け物が、紛い物が兄の声を発すな!」

 胸の中が爛れるようだった。兄という言葉がこんなにも苦しいとは知らなかった。菊臣さんの無邪気な声よりもずっと、私の愚かな醜い秘め事を痛めた。

 「藍!」と叫ぶ声がして、私は醜くも救いを感じた。罰が受けられる。自らの悪事を、痛みを以て鳥瞰することができる。

 「存分に」と私は伝えた。

 冷たく光る殺意が視界の端に映り込む。

 「兄はどこだ」と低い声がした。

 私は胸奥から込み上げる熱に脣を嚙んだ。

 「吐け」と空をも割るような声が弾けた。「兄上をどこにやった」と。

 いない。貴方に兄はいない。人間の暮らす日暮邸の長男は紛れもなく日暮藍一郎で、日暮寒菊などという人間はどこにも存在しない。私に名前はない。私に弟はいない。母は私を産んですぐに姿を消し、父は十五年間私を育ててから妻を探しに出た。私は、名もなき放浪者だ。

 「寒菊はどこだ」と純粋な歎きが響く。

 右肩に激しい熱を感じた。焼けるような、火にかけた土瓶を押し当てられたような、熱だった。それが刀身の食い込んでいる痛みであることに気づくのに、半妖の私には随分な時間がかかった。

 引き抜かれた熱は、右肩のまた別のところを焼いた。

 「返せ、寒菊を返せ。兄上を、寒菊を!」

 酷いにおいがした。生と死を同時に思わせる、絶望的なにおい。

 「寒菊!……寒菊!」

 苦しくてならない。日暮寒菊は愛されていた。認められていた。日暮寒菊は、長男の座を奪い、長弟という立場を押しつけた嫡男に、こんなにも愛されていた。そして今尚、彼に求められている。

 しかし私は今や、日暮寒菊ではない。藍一郎さんがこの家を渡したのは、日暮寒菊という人間なのだ。

 「藍一郎さん、」と呼んだ声は掠れていた。「藍色の菊を、咲かせて下さい」

 「手前にその声はふさわしくない!」

 「今冬の菊花は、」

 「黙れ!」

 「藍色です」

 激しい熱の引き抜かれたのを最後に、「放せ」と彼の声がした。

 「此奴は寒菊だよ」と別の男の声がした。一助だった。

 「違う」と藍一郎さんが叫ぶ。「これは寒菊じゃない、これは俺の兄じゃない!」

 「お前の認めた兄だ。久菊の旦那が寒菊と名づけ、お前らと三年過ごした男だよ」

 「違う、寒菊は化け物じゃない、手前のような鬼でもない、寒菊は、寒菊は優しい人間だ、」

 「此奴はお前のいう化け物じゃない。人の血も通っている。此奴はお前と出会ってからずっと寒菊だ。お前の優しい兄だ」

 「紛い物、……紛い物! 認めない……これは寒菊じゃない、兄上じゃない」

 哀しいかな。私はこれまでもこれからも、寒菊じゃないし、彼の兄でもない。