私は朝、よく早く起きて藍一郎さんと話すようになった。私の採ってきた野菜を夕餉のためにと漬けながら、藍一郎さんは奥さまの話をした。

 「寒菊は香の物ではなにが好きだ?」

 「そうですね……そう拘っていられるほど豊かではありませんでしたし、腹が満たせればなんでも」

 「そうか。母上の漬ける茄子は素晴らしくてな。最後に食ったあれは、……そうだな、きっと俺の生涯で食う茄子のどれよりもうまい。母上の使っていた糠床を使っているが、」

 藍一郎さんはゆるく首を振り、「やはり違うな」と弱く笑った。

 「誠は、あの糠床には手をつけたくなかったのだ。ここは母上の場所であって、俺が掻き回していいような場所ではない、いわば聖域のような場所だと思った」

 でもな、と彼は息をつく。「なんでそうなるかな、なにもしないでいると、糠床まで息を止めたようになるんだ」

 藍一郎さんは深く息をつくと「寒菊の母君はどんなお方だったのだ」といった。

 「いえ、私は母の記憶はありません。物心ついた頃から父と過ごしておりましたので」

 「そうなのか、」

 「哀しいことはありませんよ。父との生活に、不自由を感じたことは一度もありません」

 「父君はどんなお方なのだ?」

 「どこにでもいる男ですよ。いえ、もしかしたら、どこにでもいるというにはちょっといい人かもしれませんが」

 「どんな家だったんだ?」

 「野菜を売り歩いていました。私は父の帰りを待ちながら、畑の手入れをしたり、食事の用意をしたりしていました。どこにでもある生活でしたが、それなりに充実していましたよ」

 「……父君は、どうして家を出ていったのだ?」

 「私を産んで間もなく、母が出ていったのだそうです。なので父は、その母を探しに。二年前、私の十五のときです。一人で生活のできるようになるまで、そばにいてくれたのです。すぐに戻るといって出ていきましたが、ちょっと難航しているようですね」

 「そうか」と藍一郎さんは静かにいった。

 「よし、寒菊」

 「はい」

 「今日、共に出かけよう。ここにいても、父君も母君もお前さんを見つけられない。二人とも、きっと今までの家に戻ることだろう。それより先に、お前さんが二人を見つけるのだ。

そうしたら、どこか心地のいい場所を探すも、ここに住むも、皆が決めればいい。ここのこれからは考えなくていい。ちと淋しいが、菊臣は俺の弟だ。きっと最期まで守るさ」

 親愛なる弟を化け物の贄にする兄なぞおらぬ、と藍一郎さんは無邪気に笑った。