寝返りを打って瞼を開くと、菊臣さんが本を読んでいるのが見えた。「お眼醒めですか?」と窺うようにいわれ、私はゆっくりと体を起こした。
「よく眠れましたか」
「ええ、」
これほどしっかり眠ったのは久しぶりだ。
「血色も悪くないですね」と菊臣さんは頷く。
彼は書棚へ本をしまうと、「朝食はどういったものがお好みですか」とこちらを振り返った。
「なにも特別なものは」
「うちはたまに煮豆がつくくらいですが、」
「煮豆、」と声が飛び出した。さすが、商家は違うらしい。
「お嫌いですか」
「いえ、ほとんど食べたことがないのです」
「なかなか美味ですよ」と菊臣さんは微笑む。
そっと襖が開かれ、「ほう、生きていたか」と藍一郎さんが顔を出した。
「兄上も御無事でなによりです」と菊臣さんが答える。「昨夜の寒さはかなりのものでしたからね」と。
「俺はそう簡単にはくたばらない」と静かにいうと、藍一郎さんは「食事だ」と短くいって部屋の前を離れた。「襖閉めて下さいよ」と菊臣さんが弱々しく呟く。
朝餉は糅飯と味噌汁に香の物と納豆がついていた。「豪勢ですね」という菊臣さんに久菊さまは咳払いしたが、「見栄なんて張るものではありません」と跳ね返った。
食器を持って立ち上がると、「俺が洗う」と藍一郎さんが手を差し出した。
「これくらいやらせて下さい」と断り、藍一郎さんの食器も一緒にはとばへ持っていった。裏に水路があるので、そこから水車で水を引いているのだ。
私の隣について、「兄上には世話焼きなところがあるのです」と菊臣さんは軽やかにいった。「甘えん坊はかわいがられます」と。
「これほどいろいろと与えて戴いて、そう甘えてもいられませんよ」私は食器を洗いながら答えた。
「父上が好きでやっているだけです、僕たちはなにも」
いや、私はたくさんのものを貰った。だからこんなに苦しいのだ。兄上と呼んでくれる菊臣さんの無邪気さが、まるで本当の家族であるようなこの現状が。
「ああ、兄上」と菊臣さんは思い出したようにいった。「今日、よかったら出かけませんか」
私としては断る理由もなかったが、「どこへ」と尋ねてみる。
「そうですね、落語でも聴きに」
「落語、」
「お嫌いですか」
「いえ……そういうものがあるのは知っているのですが、具体的にどんなものなのかは、」
「そうなのですか。なかなか楽しいものですよ」
私は自分が本当に、菊臣さんよりも五年も長くこの世にいるのか疑わしくなった。
「よく眠れましたか」
「ええ、」
これほどしっかり眠ったのは久しぶりだ。
「血色も悪くないですね」と菊臣さんは頷く。
彼は書棚へ本をしまうと、「朝食はどういったものがお好みですか」とこちらを振り返った。
「なにも特別なものは」
「うちはたまに煮豆がつくくらいですが、」
「煮豆、」と声が飛び出した。さすが、商家は違うらしい。
「お嫌いですか」
「いえ、ほとんど食べたことがないのです」
「なかなか美味ですよ」と菊臣さんは微笑む。
そっと襖が開かれ、「ほう、生きていたか」と藍一郎さんが顔を出した。
「兄上も御無事でなによりです」と菊臣さんが答える。「昨夜の寒さはかなりのものでしたからね」と。
「俺はそう簡単にはくたばらない」と静かにいうと、藍一郎さんは「食事だ」と短くいって部屋の前を離れた。「襖閉めて下さいよ」と菊臣さんが弱々しく呟く。
朝餉は糅飯と味噌汁に香の物と納豆がついていた。「豪勢ですね」という菊臣さんに久菊さまは咳払いしたが、「見栄なんて張るものではありません」と跳ね返った。
食器を持って立ち上がると、「俺が洗う」と藍一郎さんが手を差し出した。
「これくらいやらせて下さい」と断り、藍一郎さんの食器も一緒にはとばへ持っていった。裏に水路があるので、そこから水車で水を引いているのだ。
私の隣について、「兄上には世話焼きなところがあるのです」と菊臣さんは軽やかにいった。「甘えん坊はかわいがられます」と。
「これほどいろいろと与えて戴いて、そう甘えてもいられませんよ」私は食器を洗いながら答えた。
「父上が好きでやっているだけです、僕たちはなにも」
いや、私はたくさんのものを貰った。だからこんなに苦しいのだ。兄上と呼んでくれる菊臣さんの無邪気さが、まるで本当の家族であるようなこの現状が。
「ああ、兄上」と菊臣さんは思い出したようにいった。「今日、よかったら出かけませんか」
私としては断る理由もなかったが、「どこへ」と尋ねてみる。
「そうですね、落語でも聴きに」
「落語、」
「お嫌いですか」
「いえ……そういうものがあるのは知っているのですが、具体的にどんなものなのかは、」
「そうなのですか。なかなか楽しいものですよ」
私は自分が本当に、菊臣さんよりも五年も長くこの世にいるのか疑わしくなった。