早朝、宿内の動きがほとんどない中、私は廊下の掃除に当たっていた。雑巾を濡らす冷えた水を絞り出すと、「早いな」と声がした。拒むのに、それ以上に求めているような、哀しい声だ。

 私は雫に歪むばけつの中の水を見つめた。そのままで「藍一郎さま」と答える。

頬は、朝に会ったあやかしたちに赤みを指摘される状態であったものの、医術を學んだあやかしがいたもので、治してもらった。

彼は医者の所有していた冊子だそうで、記された覚書を自分でも記憶したのだという。妖力を送るという人間にはできないこともできるのでなかなか役に立つのだと彼は笑った。

 「一人か」

 「掃き掃除はほかの方が」

 「綺」と優しい声が呼ぶ。どこか淋しげに聞こえるのは、私の願望であろうか。

 私は「だめですよ」といって立ち上がった。「藍一郎さまともあろうお方が、こんなところにいらしては」

 「綺に会いたかった」

 「藍さんは、お元気ですか」

 「藍。なぜ彼奴の名が出る」

 「藍さんは藍一郎さまのことが大好きなのです」

 「俺しか知らないからだ」

 「藍さんにとって、藍一郎さまは全てなのです」

 私の、父のようなものなのだろう。父が戦へ出るたび、淋しくてならなかった。食事の用意をしながら、帰ってくる彼の笑い顔を疑った。

藍さんは藍一郎さまが私を気にかけるたびにそれと同じものを感じるのだろう。藍さんが私を攻撃したのは、私が父と共に戦いたいと願ったのと同じことだ。

戦がなくなれば父はずっとそばにいてくれる。私がいなくなれば、藍一郎さまはずっと藍さんのそばにいられる。

 私は藍一郎さまと向き合った。高いところにある眼を見上げる。

 「藍さんから、大切なものを奪わせないで下さい」

 藍一郎さまはなにをいっているんだというように、一瞬、眼を細めた。

 「世界の全てともいえよう存在が失われるのは、途方もない苦しみに放り出されるようなものです。私は誰かに、それを押しつけたくないのです」

 私は一度、上下の脣を嚙んだ。「優は劣から全てを奪うと仰いましたね。私は劣です。優からなにかを奪うなぞ、許されていないのです。力ずくで奪おうにも、その力がありません」

 「優と優、劣と劣。美しく、醜く、奪い合うことができる」

 「その奪い合いは、なにを残しますか」

 「……菊花の、祝福」

 「奪われた者にはなにが残るのですか」つい語調が強くなった。

 「それはもう、詛いと呼ぶにふさわしい絶望と慾望です。誰かにそれを押しつけ、その事実の上に、幸福を祝う花なぞ咲きますか。もしも咲いたのなら、それは悪霊のようなものです」

 「奪われる者が愚かなのだ」

 ずきん、と絶望の虚空に痛みが響く。

 そういわれてしまえば、なにも返せない。私も、父に認められるほど鍛え、なにをいわれても認めず、押し通せば、同じ戦場に立てたかもしれない。

父を失わずに、武器の飛び交う戦という醜い衝突の地に、父を殺さずに済んだかもしれない。私には、まだできることがあった。それを知らぬふりをして、父を一人——。

 腹の底から、恐怖と罪と、後悔と自己嫌悪が破裂するように湧き上がってくる。

 「なあ綺……そう思うだろう」と、藍一郎さまの深い声が耳元で聞こえた。体が震えた。

 「奪われる者が愚かなのだ。失いたくないのなら奪わせなければいい。奪われたものが惜しいのなら奪い返せばいい」

 ばけつの中を覗き込んだような視界が、さらりと頬を撫でた。

 「藍一郎さまには、藍さんがふさわしい」

 見上げた眼は、痛いほど哀しく揺れていた。頭に手が回されたことに気がついたときには、藍さんに打たれたところにやわらかく触れるものがあった。

 藍一郎さまはそこを指先で拭うように撫でると、眼の奥をさらに哀しく曇らせ、あちらへ廊下を歩いていった。