私をひきずって出張所横の空地へ行った河太郎さんは、車の鍵を開けさせて私を運転席へ押しこむと、自分も助手席へ乗りこんだ。
 血走った目で私を睨みながら、怒りをこらえるためなのか、悲しみに耐えるためなのか、しきりに下唇を噛みしめている。こぶしを握り締め、肩を震わせながら、口を開いた。

「今すぐ里穂のところへ連れていけ。お前の車はそんじょそこらのあやかしより速く走れるんだろ? 豆太から聞いた」
「あ……」

 驚く私に向かって、震えながら叫ぶ。

「早くしろっ!」
「はいっ!」

 つられて返事はしても、豆太くんを乗せて田中さんの家へ行ったり、そのあと病院へ田中さんを運んだりした時のように、目を開けたら目的の場所へ着いていたというような芸当は、いつでもできるわけではない。
 現に私は、あれから何度か試してみようとしたが、一度も成功しなかった。

 今回も成功する確証はまったくないのだが、もし今発動することができなかったら、ますます河太郎さんの怒りは増すだろう。
 その時、自分はどうなるのか――祈るような気持ちで、ハンドルを握らずにはいられなかった。

(御橋神社の神様! どうか今すぐ私たちを里穂さんのマンションの近くまで連れて行ってください! お願いだから……どうか!)

 私の決死の祈りが届いたのか。それともこれはもともと、ダッシュボードの裏に貼ったお札を発動するのに足る事案なのか――。
 理由は定かではないが、お札のあたりからぼんやりとした光が広がり始める。

(やった……来た!)

 瞬く間にそれが、目を開けていられないほどの眩しい光になると知っている私は、助手席に座る河太郎さんに急いで忠告した。

「河太郎さん、目! 目を瞑ってください、すごく眩しくなりますから!」
「目? うわあああ……眩しい! 溶けてなくなるっ……光は……光は嫌いだぁ!」
「すみません、すみません! 我慢してください」
「くそおおお!」

 凄い唸り声をあげている河太郎さんが無事なのかはわからないが、車は以前のように勝手にエンジンがかかり、進んでいる感覚がある。

(どうぞ無事に着いて!)

 祈るうちに、瞼の裏の眩しさが和らぎ、私は恐る恐る目を開いた。

(……着いた?)

 フロントガラスの向こうに広がるのは夜の街なので、灯りが乏しく、目が慣れるまでよく見えないが、少なくとも大鳥居前の参道の風景ではない。
 隣の河太郎さんに目を向けてみると、シートの上で膝を抱えて、顔を突っ伏していたので、そっと肩を揺すって声をかけた。

「河太郎さん、もう大丈夫ですよ……どうやら着いたみたいです」

 私に少し触られただけで、「ひいっ」と悲鳴を上げて身を引く河太郎さんは、とてもさっき私を力ずくで出張所前からさらった者と同じとは思えない。
 怯えながら顔を上げて周囲をうかがい、窓の外の景色を見て、ぽつりと呟く。

「本当だ……里穂の家の近くの川だ……」

 助手席の扉を開けてふらふらと車を降りていったので、私もそのあとを追った。

 車が着いたのはかなり大きな河川の土手だったようで、薄暗い中、懐中電灯を持って犬を散歩させている人や、ライトを点灯させた自転車が傍を通り過ぎると、河太郎さんは悲鳴を上げて土手の繁みの中に身を隠す。

「ひいっ」

 そのたびに私は彼が再び土手まで上がってくるのを待つことになるので、なかなか先に進まないのだが、河太郎さんは他人が傍に近づくことが苦手らしい。

「里穂さんは……大丈夫だったんですか?」

 彼がずっと左手に握りしめている箱を見ながら尋ねると、ぼそっとすぐに返事があった。

「彼女は……特別だから……」
「特別?」

 河太郎さんは両手で箱を握り直して、下を向いてどんどん歩を進めながら、早口に語る。

「雨の日に出会った僕の姿を見ても、全然驚かなかった。あちらの世界の住人だって、僕を見たら怯えるか、馬鹿にするかするのに……一緒にいると楽しいですって笑ってくれて、好きですって言われて、僕も好きですって答えて、ずっと一緒にいようと誓ったのに、僕はやっぱりこんなで、彼女を困らせてしまうから……だから……だから、僕は……」

 一生懸命に後を追いながら、私は彼の言葉の続きを自分で想像して口にした。

「別れようって言ったんですか? ……優しいですね」
「…………!」

 河太郎さんがぴたりと足を止め、驚いたように私をふり返った。
 目の下のクマが濃い瞳に、見る見る涙が浮かび上がる。
 その顔を見ながら私は、彼の本質は本当に優しくて、このままなら無茶なことをしでかす前に、説得ができるのではないだろうかと思った。

 ゆっくりと河太郎さんに歩み寄って、車へ戻るように説得を試みる。

「話を聞きますよ。河太郎さんの気持ちが落ち着くまでいくらでも……私でよければ……だからいったん、今日のところは山の上へ帰りませんか?」
「瑞穂殿……」

(殿……?)

 殿付けで名前を呼ばれたのには驚いたが、河太郎さんがどれほど昔から生きているのか、私には想像もつかない。
 そういう呼び方が一般的だった時代から、すでに生きていたのだとすれば、そうおかしくもないことだ。

「帰りましょう」

 私がさし出した手を、河太郎さんが戸惑いながらも取ってくれようとした時、土手の下の道路から、三人の親子が土手へ上がってきた。

「こらー走ると危ないぞー」
「あはははは」

 三歳くらいの男の子と、それを追う優しそうな若いお父さん。そして二人を見守る優しそうなお母さん。
 その女性の横顔を見て、河太郎さんが固まった。

「あ……」

 女性が何気なくこちらをふり返る前に、河太郎さんはさっと姿を消してしまう。
 どうかしたのだろうかと首を傾げる女性に、私はお辞儀をして、土手下の繁みに身を隠したはずの河太郎さんを、必死で捜していた。

(どこ? どこに行っちゃったの?)

 女性は里穂さんだった。若いお父さんは先日エレベーターで一緒になった里穂さんの旦那さんなので、男の子はおそらく二人の子どもなのだろう。
 ごく普通の幸せそうな家族。
 しかしそれは、河太郎さんにとってはひどく残酷な現実で、おそらく深く傷ついたであろう彼が、このあと衝動的にどんな行動に出てしまうかと思うと、私は気が気じゃない。

(どこ? どこなの?)

 必死に草むらを見渡す私の視界の遥か前方で、川の水面が大きく盛り上がった。

「え……?」

 大きく隆起し、ビルほどの高さになったそれは、ぱあんと弾けると、一方向へ向かってもの凄い速さで流れる水流になる。
 息を呑むほどの勢いの水流の中に、いつものフード付きのパーカーを脱ぎ捨てて、頭に皿、背中に甲羅のあるあやかしの姿になった河太郎さんが見えた気がした。

「いけない!」

 私は里穂さんを押し退けて、彼女の旦那さんと子どもに駆け寄る。
 しかし間一髪、旦那さんが水流に呑まれるのには間にあわず、かろうじて男の子を抱き止め、里穂さんのほうへ押し出すと、代わりに私が水に呑まれてしまった。

「きゃあああああ」
「あなたー!」

 私の悲鳴と、里穂さんの悲鳴が辺りに響く。
 土手には決して他に人影がないわけではなく、ジョギングしている人も自転車で通りかかった人もいたふうなのに、誰も里穂さんの旦那さんと私が水流に呑まれた瞬間を見ておらず、泣き叫ぶ里穂さんをぽかんと見ている。

 そういう光景が、ごうごうと流れる水の向こうにぼんやりと見えた。