「――いつでも人に優しくするの。それが、一番大事なことなの」
祖母が口癖のように教えてくれた言葉を、僕は未だに覚えている。
両親を早くに亡くした僕は、祖母に引き取られた。いつでもニコニコとほほ笑んでいた祖母は、いつも同じ話をした。
理由だとか、根拠だとかではなく、優しく生きるべきなんだって。
僕もまた、祖母の言葉を理由も考えず、根拠もなく信じた。もとよりそういった生き方が性に合っていたのか、僕はいつだって、誰にでも優しさを分け与えていた。
求めていなくても、「ありがとう」の一言が心に染みた。
『優しさは、誰にも分け隔てなく』。
『見返りは求めず、皆が笑顔で居られるように』。
その二つを信条に生きてきた僕は、そのまま社会に出た。
――間もなく、僕は自分の甘さを思い知った。
心無い言葉。
罵声にも似た怒号。
人を使い捨てる冷淡さ。
大人になって見た世界は、こんなもので埋め尽くされていた。誰かを押しのけて、踏んづけるだけの世界で、僕と祖母の優しさなんてものはまるで意味がなかった。
ただ生きているだけで、心がすり減っていった。
人を助けたい、優しい気持ちを持って生きていたい。そんなささやかな願いすら、世の中は許してくれなかった。叱られ、怒鳴られるのはまだ耐えられたし、仕方ないと思えた。だけど、善意が踏みにじられ、使い潰されるのは耐えられなかった。
誰よりも早く出社し、誰よりも遅く退社する。気づけば、こんな生活になっていた。
仕事量や技能の問題というよりは、ただひたすら仕事を押し付けられた結果だった。つまり、僕自身が招いた残酷でありふれた結末だ。
少し前に亡くなった祖母が見たら卒倒するほどにやつれた僕は、帰ってくれば気絶するようにベッドに倒れ込む。そうしていつも、同じ台詞を壊れたレコードのように呟く。
「僕の優しさに、意味はなかったのかな」
見返りを求めるつもりはなかったけど、もしも僕にも世界が少しだけ優しかったならと、ちょっぴり思ってしまう。それなら、こんなに苦しまなくてよかったのかな。
なんてくだらないことを考えながら、いつものように駅で電車を待っていた時だった。
とん、と背中に強い感触を覚えた。
体がぐらりと前につんのめった。先頭で電車を待つ僕の視界に広がるのは、線路だけ。
誰かにホームから突き落とされたというのは、すぐに分かった。
誰が押したのか、何の為に。何十、何百の思考が頭を駆け巡るうち、宙を未だに舞っている僕の左隣から、轟音と鉄の塊が迫ってきていた。
怖い、嫌だ、死にたくない。
たった三つの考えが心の全てを埋め尽くした瞬間――僕は無意識に、目を瞑った。
そして、目を開いた。
視界の先に広がっていたのは、文字通り見知らぬ空間だった。
――いいや、知っている。僕にとっては、ありふれて見慣れたところじゃないか。
天蓋付きのベッドに、大きな窓から射しこむ陽の光。木製の太い柱と、まだ幼い自分には不釣り合いなほど広い、石壁の部屋。
ベッドから出て窓から景色を眺めると、そこにあるのはいつもと変わらない、どこまでも続いて見える芝生の庭と垣根。ぐるりと部屋を見回すと、分厚い本が並んだ本棚と厳かな絵画、火の灯っていない暖炉、僕の背丈よりずっと大きな鏡がある。
鏡の前まで歩いて自分の姿を見つめると、やっぱり映っているのはただの僕だ。三十代の男ではなく、淡い金色の髪と丸く青い瞳、幼いながら凛とした顔つきの子供だ(少し前、メイド達に褒められたから自信過剰にはならないと思うけど)。
ここがどこで、自分が誰は分かっていた。僕はフォールドリア王国西部に住まう侯爵家の三男で、歳は三歳。父、二人の兄弟、そして沢山の従者や騎士と暮らす屋敷だ。
問題なのは、どうして僕がここにいるかなんだ。
ついさっきまで、僕は電車を待っていた。だけど後ろから突き飛ばされて、本当なら死んでしまったはずだ。だったら、どうしてこんなところに、これまでと違う容姿で生きているのか説明がつかない。
まるで、別世界に生まれ変わってしまったかのように。
「……生まれ変わった?」
そうとしか、言いようがなかった。
信じられない話だけど――僕は一度死んで、別世界に転生したんだ。
それなら、色々な謎が解ける。三歳ながらに意識がはっきりしていること、この世界が自分のいた世界と違うこと、こちらの常識を知っていること。二つの感覚が混同しているのも、それが理由なのかな。
所謂ドッキリかもしれないと思っていないかというと、嘘になる。
だけど、ふとドアがノックされる音を聞いて、僕は全てを確信した。
こんな朝早くから僕の部屋に入ってくる人物なんて、一人しか思い当たらない。それに、彼女がいるというのが、僕のいる空間が現実だという証拠になったんだ。
「失礼します、ご主人様……おや、早起きでございますね。感心です」
凛とした声を部屋に響かせたのは、黒を基調にしたメイド服に白いエプロンを纏った女性、アリス。腰まで伸びた跳ね一つない黒髪と丸眼鏡、つり目が特徴的だけど、怖い人じゃないのを僕は知っている。
当たり前のように部屋に入れるのは、彼女が僕の専属メイドだからだ。
僕が物心つく前から面倒を見てくれた彼女は、少しだけ厳しいけど、とても綺麗で優しい人だ。その顔つきはやっぱり日本人らしいものじゃなく、僕と同じで西洋人を思わせる。だけど、ここがフランスとか、イギリスではないのも分かってる。
「あ、うん。アリス、唐突だけど、ちょっとおかしなことを聞いてもいいかな?」
「……ご主人様、いつからそれほど流暢にお喋りを……?」
やっぱり、おかしかったかな。中身は成人男性だけど、見た目は三歳だもの。
今更誤魔化すのもどうかと思っていると、アリスが首を静かに横に振った。
「失礼いたしました、ご主人様。このアリスでよろしければ、何なりとご質問を」
うん、それじゃあお言葉に甘えて。
「僕はこの屋敷に住んでいて、年齢は三歳。家名は、えっと、セルヴィッジ」
「はい、その通りです」
「アリスは僕のたった一人の専属のメイドで……毎朝起こしにきてくれるね」
「その通りでございます。ご主人様、私の知らぬ間に勉学に励まれていたのですね」
僕がこれほど話せると思っていなかったのか、それとも急な成長を見せたからなのか、アリスは僅かに動揺している。そんな反応が、僕にとってはちょっぴり楽しい。
けど、意地悪をするのは好きじゃない。だから、早めに本題に入ることにした。
「父上はヴァッシュ・アドリスト・セルヴィッジ侯爵。兄上は二人で、ケイレム・ターン・セルヴィッジと、ザンダー・カドマ・セルヴィッジ。そして――」
少しだけ間をおいて、僕は自分の存在を確かめるように口を開いた。
「――僕はイーサン。イーサン・ホライゾン・セルヴィッジだ」
「お見事です、ご主人様。成長の場に立ち会えて、私は大変嬉しゅうございます」
アリスは氷のような表情を緩めるように、温かな笑顔を見せた。
僕――イーサン・セルヴィッジも、アリスに微笑み返した。